三島与志子 前半
「ホントにこんなのがやったのかね」
麗華は朦朧としていた意識が覚醒し始めていた。地面に転がされており、それを数人が取り囲んで見下ろされているようだ。身体をまさぐられる感覚もある。性的な触られ方をしているのは理解できても、それに嫌悪感を抱く以前にまだ前後不覚の状態だ。
「武器は持ってないです。あと、ホントに女みたいです」
唯一奪い取ったスマートフォンをボディチェックした男が差し出した。受け取ったのは長身の女性だった。その女を中心に、手下らしい男たちが2メートルほど下がって控えている。
「何だいこれ、文字化けみたいだけど、新手の暗号化か何かか」
志田とのやり取りは念のため全てあるソフトを噛ましてある。ハッカーが仕込むような立て込んだものではなく非大手が提供してい、のちょっとしたお遊びサービスソフトだ。そのスマートフォンのアクセス履歴を辿れば特に専門知識がなくても解除方法が分かるのだが、その専門知識がない人を煙に巻くのが主たる目的である。幸いそれに気付く人材はここにいないようだ。
「なああんた、あたしのこと覚えてるかい」
しゃがんで麗華の覗き込む顔、組長の三島与志子だ。麗華はやっと自分の置かれている状況を把握した。ボディーチェックが終わった後、両手首は結束バンドで結ばれている。締めたときの姿勢のお陰か、手首を抜くことは出来そうにないが、鬱血するほどのきつさがないのは幸いだった。
「いえ、どこかでお会いしましたでしょうか」
麗華は偶然の通行人など無関係を装って離脱できないかと思案していたが、どうやら組長は麗華のことを記憶しているような声の掛け方をしたのでその手が通用しないのを悟った。彼女はとりあえず時間を稼ぎつつ何かしら脱出の糸口を探ろうとした。
組長は裁判で参考人として出廷したし、傍聴することもあった。その時杓子定規の謝罪を受けた記憶も朧げに残っている。当時の麗華は実行犯に対する憎悪が大きすぎて、後々その対象に含まれる組長への認識は疎かになっていた。
「まあいいや、それはそうとこっちもそれなりに調べは付いているんだからね」
組長はそう言うと立ち上がり二歩三歩と下がった。すると控えていた男が一人歩み寄ってアウトドア用らしいちょっと凝った椅子を組み立てた。組長はそれに深々と座ると大きく息を吐き、上半身を前のめりにして再び麗華と対峙した。
「しかしあの時のお嬢ちゃんがこんなになるとはね」
組長は即刻報復するわけでもなく、何かしら思案しているように見えた。
「あんた確か法律家だったろ。あんたの兄を死なせたのは悪いと思っているが、ありゃ不運な事故ってことで結審したの覚えてるだろ」
組長はここまで麗華が起こしてきた5件の事故を知らないのか、敵意や怒りの感情はほとんど見せずに困惑しているような雰囲気だった。
「ウチが反社の指定組織認定受けてるのは知ってるが、ウチは他に比べたらまだ人道的な方なんだよ。先々代の身内が薬物で命を落としたからウチは違法薬物の取引はご法度になってる。まあその一点で多めに見ろとは言わんが…」
組長が一息ついて煙草をくわえると真後ろで控えていた手下が素早く近寄りそれに火をつけ、すぐに元の位置に戻った。
「シノギが同業他者より低くなるのは想像つくだろ。なのに悪徳警官は取り決め以上の賄賂要求しやがって」
ここに来て初めて組長が怒りの表情を見せた。しかしはっと思いついたように懐からコンパクトを取り出し目元をチェックした。表情の変化で崩れるような化粧には見えなかったが、組長はまた元の落ち着いた表情に戻った。
「タカってくるのは末端の雑魚ポリばかり、上の方へ苦情を出すと言っておくというばかりで全然改善しやがらない。で、ちょっと思い知らせにゃならんとしてやったのがアレなんだよ」
麗華は意味不明というような感じで呆けていた。兄が死んだのは偶然事故に巻きこまれたという下りは判決文で聞いている。ただ事件の発端自体は警察と反社の抗争が原因だったはずだ。警察内部に腐敗があった旨は全く明らかになっていない。
「あんたの兄さん、少なくともウチからは賄賂取ってないよ、安心しな」
組長は表情は穏やかだが心中はまだ落ち着いていないのか、煙草を地面に落とすと思い切り踏みつけた。それを何度も踏みにじると新しい煙草をくわえた。着火係の動きは先ほど同様だ。
「マジでね、延焼して火事になるとは思ってなかったんだよ。当然事前に無人なのは押さえてたし、ガス管とかなさそうな場所で壁をちょっと吹き飛ばして終わりってはずだったんだがね」
組長は煙草の煙の溜息を吐きながら続けた。
「話を付けている上の方は知らんと言い張っているが、実のところ汚職に気付いた正義漢を事故ついでに消そうと動いたんじゃないかとさえ思ってる」
「兄さんは同僚にはめられたって言うの?」
麗華は関係者であることは伏していたのを忘れて声を荒げた。組長も言質が取れたとの反応は示さなかった。既に麗華に関する詳細は確信が持てていたのだろう。
「あくまで憶測だよ。ウチらだってちょっとした圧力のつもりで適当に事前情報流したのに実行は出来るわ、死亡案件になるわでマジで縁切りしたいんだよ、あのクソどもとは」
実際裏は取れていないのだろう。下手に掘り起こして更なる関係性悪化も避けたいところなのかも知れない。大体組長がどこまで麗華の関与を知っているのか不明だが、現在圧倒的優位な立場にいるのに彼女の心象を気にする必要もない。もし本気でそれを気にするなら警察側の関与をもっと確定的に臭わせればいい。このあくまでも憶測で留めたところに信憑性が宿っていた。
「まあやっちまったもんはしょうがない。世間様は気付いてないみたいだけど、ウチら界隈では何かの人為性を疑ってるのが出ててね。当初はせっかくお勤め果たしたのにはしゃいで事故ったバカみたいな扱いだったけど、こうも続くと謎の暗殺者に次々殺される端場武組って噂がね」
麗華は話を聞きながらも現状把握に努めていた。組長と自分を中心にして手下連中が綺麗に円陣を組んでいる。いきなり立ち上がり、後ろ側で一番弱そうな一人を人質にするため飛び掛かろうにも届きそうにない。そもそもその目算一番弱そうなチンピラの隣に標的6が腕組みして見下ろしている。麗華は既に自分が絶体絶命、詰みの状態なのは理解していたがまだ全てを諦めたわけではなかった。
「ウチみたいなところが他に飲み込まれずにやっていけるのは筋はきっちり通し、手を出せば確実に報復が返ってくると認識されてるからなんだよ」
手下がどれだけ現状を把握しているかは不明だが、組長だけは何件かに麗華が絡んでいることを確信している様だった。
「ごめんね、尾行途中で見つかっちゃって」
聞き覚えのある声が組長の後ろから聞こえてきた。組長の後ろの方から男二人に脇を抱えられた志田がやってきた。いつもと変わらない笑顔、口調だった。
麗華は志田の救援を期待していない。もしかして窮状を察し警察へ通報してくれるかも知れない程度の淡いものだ。仮に通報されても元々暴走集団の喧嘩が頻発する週末の港湾地域、迅速な対処は期待できない。
「そう、残念だったわね」
麗華は特に驚いた様子も、裏切りに憤る様子も見せずに静かに応えた。その様子を見て組長が目を見開いた。
「なああんた、あたしのモノにならないかい。それを飲めば手打ちにしてやるよ」
組長は腰を上げ、麗華ににじり寄り、顎を掴んで顔を改めた。組長は麗華に対して性的な興味を抱いている様だった。
「組長、勘弁してくださいよ」
煙草の着火係がやれやれと言ったふうに組長を諫めた。
「何言ってんだい、この場のセッティングのためこちとらあの小汚い糞爺共の相手をしてきてるんだ。これくらいの褒美があってもいいだろうに」
組長は拗ねたような表情を着火係に見せた。歳はまだ二十代に見えるその若者は参謀のような立場なのかもしれない。
「ねえ麗華、怒ってないの?」
麗華と組長の会話に間が出来たのを見計らって志田が尋ねた。若干申し訳なさの表情も交じっているようには見えるが、終始いつも通りの微笑みを湛えている。
「そうね、こんな事態は望んでなかったけど想定していなかったわけではないの」
麗華もそれを倣うかのように落ち着いた口調で答えた。麗華は自分の悲願成就に役立っているから特に深く考えていなかっただけで、志田を信用していたわけではない。弁護側の尽力もあったにせよ、殺人ではなく過失致死で裁かれた人を複数、例え暴力団構成員とは言え刑期を終えた後に死なせるのに異議を唱えない志田が、後々天誅殺人を是とする行動をとっていいのかと。そんな人間が非公表とは言え、国連から権限を与えられているのかと。
様々な疑義、謎があったのにそれを全く追求せず、麗華は志田をただ自分の仕事を手伝わせていただけだった。
「ホントかどうか知らんが、こっちを手に掛けるとICPOとか国際刑事系が動く可能性があるっていうじゃないか。で、手打ちにする相手を貢ぐって交換条件でこいつは釈放するってわけさ」
組長は元の椅子に戻って腰を下ろし、新しい煙草をくわえた。
「で、どうするさね。断れば、あんた美人だしここでウチの連中に適当に遊ばれた後、ちょっと本筋から離れたお店で客が取れる間延々働いてもらう。そんな予定だが」
周りの手下どもは既にそのつもりなのか、麗華に卑猥な視線を向けている。
「あなたのものにはならないわ。好きにしたらいい、できるならだけどね」
麗華は変わらなかった表情のまま、冷静に返答した。