下川秀兵 後半
「チキン&ドラッグって知ってる?」
進展のない日々は鬱屈とした雰囲気に飲まれがちだった朝のミーティング、久しぶりに志田が何か掴んだようで明るい口調で麗華に尋ねた。
「兄さんから聞いたことがあるわ。何かチキンレースとドラッグレースを合わせた反社集団での白黒の付け方とか」
チキン&ドラッグ、海に向かってのドラッグレースで、ゴール先150メートル程に岸壁がある。その制動区間で停止できなければ海へダイヴと言うレースだ。ゴール手前には速度センサーが設置されてそこで150㎞/hを越えていなければ無条件で敗北。その条件をクリアし先にゴールした方が勝ち。海への転落は勝敗に影響なしとされ、制動区間でのハンドル操作はありとされる。港湾地域で毎週末自然発生的に行われている暴走行為と違い、相応の組織間で決着が必要な場合のみ開催される裏社会のレースだ。
滅多に開催されないが、実施される日は主催側が若者の暴走行為を締め出すため巡回警官の仕事が減るらしい。本来はそのレースも咎めるべきなのだが。
「二週間後の土曜日にそのレースがあるんだって。それに下川が出るって」
志田はウキウキしながらパソコンを操作し始めた。
「てっきり全ての解決は筋肉で、ってキャラだと思ってたからかなり意外なんだけどね。ここを攻めない手はないかな」
「確かに今までの行動ルーティンを考えると狙いやすいイベントだと思うけど、準備間に合うかしら」
麗華は期待と不安が入り混じった表情で志田の肩越しからモニターを覗いた。既にレース環境の3Dマップが出来上がりつつあった。
「何かね、下川は禁じ手ってわけじゃないけど、奥の手使うらしくてね」
「奥の手?」
「うん。喧嘩では格闘家上がりのせいか基本正々堂々だけど、これは手段選ばずみたい」
チキン&ドラッグは複数の反社組織が仲介を重ねても結論が出ない抗争に決着をつける手段のため、ルールは厳格でその勝敗は組織の威信に関わる。多くがエンジンの高出力化と車両の軽量化で海中転落上等で勝ちを狙いに行く。そんな中、下川はバッテリーEVで挑むとのことだ。
「相手の車、馬力50%重量10%マイナスでざっと計算しても下川の新車カタログスペックで余裕っぽいのよね」
ガソリン車がゴールまで加速を続け急制動を掛けるのに対し、EVの強烈な加速はコース中盤までで十分、それ以降は速度を維持でセンサー前を指定速度で通過後即減速。その走り方でゴールラインは3メートルほど先着、岸壁20メートル手前で停止可能と出ている。
「実際のレースではさすがにゴール前から減速はないと思うけどね」
相手の車の性能は固定で様々なシミュレーションをしてみる。ゴール最速通過を目指すと止まり切れずに水没はほぼ確定のようだ。5メートル手前停止の設定でもゴールラインでは15メートル程度のアドバンテージが表示されている。
「どうやら性能を押さえつつ、しっかり先着するのが要点みたいなのよね、EVだと」
速さは圧倒的だがその重さ故に制動距離が長くなる、それが下川の使うクルマのようだ。
「要するに腕次第だけど下川の勝利はほぼ確定ってこと?」
麗華が未だ要領を得ないようで不思議そうに志田に尋ねた。
「どうだろうね、ここで出てるのは相手側車両の性能は推測、下川の車は新車性能。シミュレーションの正確さは本部と並列して出てる結果だから高いと思うけど、そもそもその入力データは実際の数値と確実に違うからね」
志田はそう言うと相手側の性能を向上、馬力100%アップで計算しだした。
「ウチほどじゃないにしろ、勝負する側もそれなりに解析して挑むらしいからね。今負け確定側もここで考慮したエンジン出力と軽量化以外にいろいろ手を加えて来るでしょうし」
それでも結果はおよそ7:3でEVの勝利と出ている。
「タイヤのスリップとか、細かい制御は車がしてくれるだろうけど、結局操作するのは人だからね。その要因で結果が覆ることもあるでしょうし」
いろいろ相手側の車の性能を盛ってみたが、純正ノーマル仕様の下川相手に勝率4割をわずかに超えるのが限界のようだった。
「で、ご存じの通り、わたしたちの目的は下川の敗北でなく事故死なわけで」
志田はそう言うとシミュレーション動画を一時最小化し、何か箱状の物体の画像を出した。
「小型電磁パルス照射器、ウチの秘密兵器扱いされてる逸品よ」
「電磁パルス?」
「そ。出力を上げるとちょっとヤバいらしくて射程や有効範囲はかなり絞ったモノだって。現状その対策が施されている軍事機器以外のほぼ全ての電子機器をダウンさせられるらしいよ」
志田は再びシミュレーション動画を広げた。
「下川が最も安全にレースを終える設定の速度変化、ブレーキング直前でこれを照射します」
シミュレーションではそれ以降ゆっくり速度を落とし、岸壁から海へ突っ込んでいった。入水時の速度は90㎞/hを少し割った程度、ほとんど減速していない。
「多分ハンドル操作なども操作不能になると思うけど、仮にできたとしても」
ゆっくり方向を変えた動画は右左どちらも100㎞/hで建造物に激突、急ハンドルを切ると横転を何度も繰り返しながら海へ落下。どれも大惨事だ。ただ運転手の生存率はそれぞれ30~60パーセント程度を表示している。
「一番無難っぽい直進落下だと生存率60パーセントもありますけど大丈夫なんですか?」
麗華は不満そうな表情を見せた。
「うん、これはあくまで車の速度がゼロになった時点での生存率だからね。エアバッグ展開や衝突軽減車体で事故単体から搭乗者を守るのは徹底されてるらしいから」
そう言うと志田はいくつかのネット記事を表示した。
「いま日本で流通している同格のEVは性能自体に極端な差はないけど、下川が使う車両ね、衝突後即炎上するって有名なのよ」
世界各国で5件、運転手焼死の記事を羅列した。それが起きた衝突事故のどれくらいの割合で発生しているのかまで取材しきれていなかった。
「急な勝負で即納できるのがこの中古車だけだったらしくてね。あと海水も結構危険らしくて炎上誘発の要因になるそうよ」
そう言いながら志田はさらに情報を検索、収集していた。
「それぞれの生存確率事故直後でが30~60パー。それに炎上の確率が相乗、電子制御系が死んでるとこの車種はドアを開けるのに特殊な機械的操作が必要になるとか。パニック下でそれができるか、そもそも緊急退避の手段を押さえているか」
志田は元が高くない死亡確率がその後上がりそうな要因を続々積み重ねた。
「海中なら溺死の可能性もあるからね。まあどれだけ積んでも死亡確率90パーセントを越えるまでは行かないと思うけど」
志田は操作を止め、椅子を180度回して麗華に向き合った。
「現状観客下での暴力行為、舎弟数名引き連れて運転手付きの市街地送迎、休むのは稀に組事務所で基本奥さんの家。作戦の起点になりそうなものすら見当たらないんだし、まずはやってみない?」
志田は諭すような口調で麗華を説得した。
「わたしからみたらこの死亡確率は賭けるに十分値する数値だと思う。仮に仕留めそこなっても全治一週間程度の入院は狙えるんじゃないかな。そこでの作戦の前段階と捉えるとか、ね」
元々麗華ひとりで始めたこの稼業は逆襲の危険性を考慮し、常に一撃必殺のように実行即成功完遂となるよう追及してきた。志田の助力が得られえてからもその姿勢は変わらなかったが、ここまで停滞している以上、新たな道も模索すべきだと麗華は決心した。
「そうね、やってみましょう」
「よかった。最悪返送も視野に入れて照射器もう申請しちゃってたよ」
重く淀んだ空気が長く支配してきた作戦室に久しぶりに微風が吹いたような雰囲気になった。
実行当日、夕方からふたりは作戦室で準備に取り掛かった。電磁パルス照射器は電磁調理器としての区分で税関を越え、届いていた。作戦室から車で十数分、小高い森を含む自然公園でその試射を済ませている。志田が提供した使わなくなったが正常に機能するスマートフォンは一瞬にして何の応答もしない板切れへと変わった。照射器は大型バッテリー搭載のせいでずっしりと重いが照準を定めるのに適した持ち手が付いている。照射中は小さな音でピッピッピと電子音が鳴るが当然衝撃も反動もない。フル充電で最大照射時間は15秒、有効射程に入る時間は数秒だろうがレース中終始照射していてももつくらいの時間だ。
「そうそう、今回は追手から逃走する事態もあり得るし、護身用で持っとく?」
照射器を不格好だが辛うじてショルダーバッグに見えるよう偽装し終えた麗華に向かって志田が出を差し伸べた。その上には小さな拳銃が乗っている。麗華は一瞬それに手を伸ばしたがすぐに思いとどまって首を横に振った。
「目的が完遂出来なくても、作戦だけは完璧にこなすから大丈夫」
「そう、じゃあしっかりね」
そう返すと志田は拳銃をパソコンデスクの引き出しに収めた。
「じゃあちょっと早いけど出かけましょうか」
麗華は志田の後を追って外に出た。エレベーターで地下駐車場まで行く志田に対し麗華は階段で地上階まで下りる。マンションの区画の端まで歩いた麗華を志田が車で拾う。二人同時に出掛ける時の決まりごとになっていた。
すっかり日も落ちオレンジ色の街灯が辺りを照らす港湾区画は人通りはない。いつもの暴走車両はおろか、一般車両すら滅多に通らない。チキン&ドラッグの開催日はこんなものなのだろうか、早めに送ってもらってよかったと麗華は目的地点へと歩いていた。
開催場所の二区画離れたところから裏道に入り、麗華は黙々と歩く。日中下見に来たときは危険なほど大型トラックやトレーラーが行き来していた道路はその制御する対象もいないのに信号だけが自動で切り替わっている。倉庫街は人の気配もなく偶に遠くで聞こえる船舶の汽笛を除けば静寂そのものだ。
『この辺りでいいかしら』
麗華はうず高く積み上がった空のパレットの山の間に身を潜めた。遠くに関係者らしい車が三台、広さゆえか人柄がなせる業か、バラバラの向きで離れて停めてある。数名の人影がその車の間を行き来しているのが見える。
『やっぱりきついわね』
現在の麗華の潜伏位置はレースコースのゴール地点から50メートルほど離れている。有効射程は30メートル、照射地点はゴールより手前なのでレース開始前に25メートルほど物陰から出て待機しなければならない。幸いその地点近辺までは駐車場を照らす街灯の陰になっているため若干薄暗く視認しづらそうではある。
人の目が多くなる前に、と麗華は少し身を乗り出して周りを見渡してみた。また揃えるや並べるという概念を持たない車が一台到着している。観客を多く連れてきているのか、それともレース判定用の資材が積まれているのか、ワンボックスカーだ。コース終点の岸壁に設置されている車止めは何台もそれを突き破った証と言わんばかりにそこら中がボロボロに欠けている。今日も最低一台はそこを通してくれと麗華は祈った。
「おいお前、そこで何してる」
不意に真後ろから怒鳴り声が轟いた。元来気弱な麗華は一瞬身体が凍り付いたが、すぐに冷徹な暗殺者に戻り、最適な回答を捻り出そうと考え始めた。
「今日チキン&ドラッグが開催されるって噂で聞いて、車が海に突っ込むところが見られるかと思って」
そう弁明しながら麗華は声の方に振り返った。いかにもな風貌の男が三人、逆方向に逃げればレース開催前の観客集団に囲まれる、三人の方に逃げる方が安全だが捕縛される可能性も低く無さそうだ。最悪の場合、装備一式は破棄して海への逃走が選択肢に上がる。着衣のまま、肌寒い季節と条件は厳しいものの、東西どちらに逃げても200メートルも行けば上陸に適した場所があるのは下調べ済みだ。しつこく捜索されることを考え、逃げるのは東方面、約一キロ先の海浜公園付近の浜辺だ。
「その噂、誰から聞いたんだ」
三人組は間隔を開けてゆっくりとにじり寄ってきた。
『あ、これ最悪の場合だ』
不穏な空気を察した麗華は照射器をかなぐり捨てて海へと走り出した。その二歩目に何かが引っ掛かり転倒してしまった。それでも這うようにして海へ向かうと、間髪を入れず麗華の腹を強烈な衝撃が襲った。一瞬の呼吸困難と共に湧き上がる激痛で麗華が腹部を押さえて転がると、その視線の端にあの男が入った。標的6、下川秀兵だ。もし麗華を蹴ったのが別の男なら、まだ最後の根性を振り絞り海へと逃げ切る目もあったかも知れない。麗華はその顔を認識した時点で完全に抵抗する意思を失ってしまった。