児玉和夫 後半
作戦道具の到着待ち、前回の穏やかなものに比べて今回はピリピリとした緊張感があった。標的5が女性を食い物にしていること、ふたりが女性であることが要因だろう。冷静に考えれば準備が整って執行されるのはあくまで対象の殺害であって、囚われている女性の救出が目的ではない。もしそちらを目的とするなら違法性の所轄の機関に情報提供すればいい。あえてそれをしないのは標的5への計画遂行地点がその被害者が囚われている場所だからだ。
親密さも増して温和な雰囲気が漂うことも多くなった作戦室は、初めて集った日以上に冷たい空気が支配するようになっていた。もちろんそれが相手への感情から生まれたものではないので作戦遂行に向けた下準備は着々と進めていた。
まずはいつもの各所監視カメラを回避した動線の策定だ。対象マンション近辺の設置具合は平均的で、マンション棟内は平均より厳格と言った感じだ。ただエントランスと一階エレベーターホール、五階に設置されている三台は機能を止めている。他が全て正常に動作しているを考えると、単純に故障の放置ではなく標的5が管理側に何かしら働きかけてのことだろう。他派ともかく、エントランスのカメラが死んでいるのはありがたかった。階段を使えば目標侵入地点の屋上まで全く撮影される危険がないからだ。
屋上への扉は当然のように常時施錠されている。スパイ映画に出てくるような差し込めば全ての鍵の形状を再現してくれるような便利グッズはなかったが、硬化性ゴムのような板を鍵穴に差し込んで形取りし、その後いくつかの工程を経て合鍵を作るという技能が志田の方で確立しているらしく、麗華がその第一工程で型を取ってきたものを提出したら三日後に合鍵が出来上がってきた。日程を考えれば国内で完結している作業だろうが、詳細は機密事項なのだそうだ。幸い鍵が旧来仕様だったのでこの工程で済んだが、ディンプルキーだと全くの別工程と倍以上の時間が掛かるらしい。
合鍵が出来て麗華はすぐ屋上の下見に行った。実行時間も考えてバイト前の10時過ぎに忍び込んだ。既に全棟の入居具合、その住人の人柄や系統、その屋上に視線が通る周りの建造物は頭に入っている。深夜帯に出掛けたり、共有スペースでたむろするような住人は確認されていない。それでも麗華は細心の注意を払って音を立てずに階段を上った。
麗華は深夜の活動と言うと標的1を仕留めた山中を思い出す。ほぼ月明かりのみで右往左往したことを思うと、直接照らされている訳じゃなくても都会の明るさがほのかに屋上の構造物を浮かび上がらせるここは作業は楽だろう。まだ納品前だが片側だけの暗視装置も志田が取り寄せてくれている。本番のときはさらにスムーズに動けるだろう。
屋上は全高2メートルほどの貯水槽と保安装置、中身が不明の収納コンテナがある。その他の平地はほぼびっしりとソーラーパネルが30度程度の角度で設置してある。それぞれの間隔は50センチ程度しか開いていないし、至る所に配線が這っている。発電効率を考えれば掃除やメンテの頻度を上げるべきなところ、パネルは土埃がびっしりついているし月単位で人の立ち入った形跡が見られない。太陽光パネルは設置の義務だけ守って維持更新しない業者が多いらしいのでここもその類なのかも知れない。他人の目に振れる可能性が低くなるのはいいが、今付けているものも含め足跡は麗華のものしか残らないだろう。素行調査はいつもオーバーサイズのスニーカーを履いているので、警察が事件性の捜査を始めた場合廃棄予定である。実行時はその日限りの使い捨て、布製ハイカットスニーカーの使用は多分最後まで変わらないだろう。
麗華はマンションベランダ側の端までケーブルや残る足跡に注意しながら進んだ。高さ60センチ、幅50センチ程度の塀があるだけでその上に柵がない。元々一般人の立ち入りは考慮していない設計のようだ。
麗華は標的5が身を乗り出すであろう地点の直上、屋上にへばりつくように這い出して下を覗いてみた。麗華は恐怖症持ちみたいに特段高所が苦手なわけではないが、八階建ての屋上から何の恐怖心もなく地上を見下ろせたら、それはそれで何か必要な感性を欠損しているとしか思えない。麗華の姿勢はごく一般的な反応だろう。
「全く見えないな」
既に何度も下見をしたし、3DCGモデルでシミュレーション動画も見ている。この建造物のベランダ側に外壁面から突き出ている部分がほとんどないない。ベランダ部分は柵も外壁面の内側に設置されているので気合を入れて身を乗り出さないとベランダの設置位置すらよくわからない。恐る恐る上半身のせり出しを増すと、辛うじて線状のようにベランダ開口部が確認できた。麗華屋上の砂を集めて塀の根本、風で飛ばされにくそうなところに目印の山を作った。一応マーキング用のビニールテープを持参していたが、出来るだけ異物を残さないようにとの配慮だ。
一通り下見を終えた麗華は言われていた正面の夜景に目をやった。確かに綺麗なのだが標的5が頻繁に鑑賞していると思うと、何か毒々しいもののような気すらしてきた。
近隣に林立するマンションは高さ制限でもあったのか、望遠装置なしでその地点を見渡せるような建物は見当たらない。違法ドローンや覗き魔が出没するにしても、普段人影のない屋上を重点的にチェックすることはないだろう。
ひとりで素行調査していた時は日を重ねるごと行き詰まり感が増していた。志田が何か妙案を出してくれるかもとは思っていたが、ここまで展望が広がる作戦を提案するとは夢にも思わなかった。
麗華は目印で作った砂山以外の形跡、足跡を不自然のない程度で消しながら屋上を後にした。当然屋内に入る時も人の気配など注意を欠かさない。開かない扉の行き止まりは秘密基地風味な格好の隠れ場所になりえるだろう。近隣の中高生とばったりなんて事態は勘弁願いたいところだ。
下見を終えた麗華はいつも通りバイトに向かった。残るは装備の到着と実行日の確定だ。標的5があのマンションに帰るのは完全にランダムのようだ。確率で言えばほぼ1/2なのでヤマを張ってバイトを休む方向で進んでいた。バイトが休みの日は自動的に張る予定なので休み申請前に実行できる可能性もあるが。
「装備第一陣が揃ったわ」
バイト上がりの定例会合、装備の到着待ちと進展しない現状、標的5が野放しな現状の昨今暗い雰囲気が漂う日が多かったのだが、珍しく志田が明るく麗華を迎えた。
「なにこれ」
麗華はその装備を志田に言われるまま試着した。装備と言われたので麗華は暗視装置でも届いたのかと思ったがただの服だった。上はポケットがたくさんついたベージュのベスト、下もポケットがたくさんで深緑のズボン、顎紐の付いた赤い帽子。サイズはぴったりだが意図が不明だった。
「道具の方は棒状の物に冷凍で強度を増した質量凶器、今の季節でも常温放置で2時間程度は有効性を保てるとされえているけど、ドライアイスを詰めたクーラーボックスで運ぶ予定よ。その運搬姿に違和感を抱かれないための偽装、釣り人のふりよ」
志田は久しぶりの笑顔を見せながら言った。クーラーボックスでの凶器運搬は提案されていたが、深夜にそれを運ぶ人に向けられる視線は特に気にしていなかった。今まで行った深夜の下見で通行人を見た記憶がない。油断が無いかと言われればはっきり否定はできないが、麗華は実行日の移動中に複数の好奇な視線に触れることはないと考えていた。
「そうね、念には念を。これならもし目撃されても釣り帰りの男に感じかもね」
麗華は若干過剰な演出のように思いげんなりしつつも、これでふたりの雰囲気が良化するならその程度は受け入れればいいと軽く考えた。
その翌日、普段延びがちな納期から想定していたよりも早く全ての装備が揃った。暗視装置と落下装置、多少の組み立てを要したが特に工具が必要なわけでもなく簡単に完成した。麗華はそれを操作してみたが機能自体がが単純なだけに不具合があるようには見えない。端的に説明しろと言われればそれはカーボン製のロッドを使用したマジックハンドのようなものだ。平素は高質量の物体を保持し、安全装置を解除した上で持ち手のハンドルを握るとリリースするだけだ。
「どうする?試運転してみる?」
志田が麗華に尋ねた。機能自体は何の問題もなさそうだが肝は命中率だ。手元のモニターに映る落下推定地点、レーザーポインターの位置、角度を変え、向きを変え試行してみるが問題はなさそうだ。
「そうね、落下距離短すぎかもだけど、この部屋で試しましょう」
麗華は段ボールで質量凶器程度の円盤を切り抜いた。その中心に十字の切り込みを入れ1.5リットルの円柱ペットボトルを挟む。それを装置にセットし、床には屋上でのマーキングには使わなかったビニールテープで×を作る。一段の伸縮機能があるロッドを50セントほど伸ばして固定、片付けたテーブルに乗るとそのロッドの先を天井ぎりぎりに近付けた。
「即応性がいいとみるのか、安定性が悪いのか」
先に着いた重量物が実際の1/4程度のせいか、揺れの収束に時間が掛かった。ポインターの示す点は×印から20センチ弱手前だ。ポインター設置位置が中心からそれだけオフセットされているためだが、手元のモニターは混乱を避けるためか赤い点は消されて照準の十字だけが示されている。それはビニールテープの印と重なっている。
「じゃあ着地点よく見ておいて」
麗華はそう告げると安全装置を解除し手元がブレないようにゆっくりハンドルを握った
『べこん』
鈍くて軽い音を立ててペットボトルは落下した。麗華は命中精度を高めるためモニターを凝視していた視線を落下地点を一瞥、すぐ志田を見やった。
「うん、大丈夫そうね」
志田は笑顔で応えた。
これですべての準備が整った。
実行日はなるべく早く、その意を天が汲んだかのように翌日バイトの休みに標的5がマンションに向かったと志田から連絡がきた。麗華は作戦室で合流すると準備に取り掛かった。
「これでやっとアイスのストックが置けるようになるわね」
事前にドライアイスを買ってきた志田がそれを詰めたクーラーボックスに凶器が入るような空間を作った。冷凍庫で既に2週間近く鎮座していた焦げ茶色の塊を取り出すと、軽く衝撃を与えて型を剥がすと作った空間にそれを押し込んだ。あふれんばかりのドライアイスを凶器の上にも被せ、静かに蓋を閉じた。
「じゃあ車を回すから下でね」
志田はそう告げると普段着のまま手ぶらで出掛けた。設定は夜釣りに出掛ける麗華を送る友人ということで統一している。麗華は釣り人の服装に着替え、釣り竿収納用らしいカバンの中のロッドを確認、それを肩にかけると同じ側の肩に更にクーラーボックスを掛けた。想像通り、それはずっしりと重たい。普段から鍛えている麗華はそれを階段で8階建て屋上まで運ぶのは当然可能だが多分志田なら途中で棄権するレベルの重労働だ。エレベーターで下ろし、近くまで車で運んでもらえる間だけは楽させてもらおうと麗華は思った。
「じゃあここで、成功を祈ってるわ」
街灯と街灯のちょうど中間あたり、マンション近くに車を止めた志田は荷物下ろしを手伝った後、運転席に戻るとそういって車を出した。その車は10分ほど深夜徘徊をした後、近くのパーキングから標的のベランダ監視という役目に着く。
麗華は10キロは優に超える荷物を事も無げに運んでいる。もし馴れ馴れしい酔っぱらいに絡まれて箱の中身は何かと問われたとき、釣果ゼロで空と言い張れるようにの配慮だ。もっともそんな面倒が起きたら多分順延を選びそうだと荒い息を隠しながら薄暗い道を麗華は歩いていた。
音を立てないよう静かに屋上の重厚な扉と閉め、鍵をかけたところでやっと自然に息を荒げて呼吸を整え始めた。光が漏れないようベージュのベストの内側でスマートフォンを使い志田に連絡を入れる、屋上到着と。監視継続中、動きはまだなしとの返答がすぐ入った。
太陽光パネルの狭い隙間を通ってまずはクーラーボックスだけを目的地点に運ぶ。時間的余裕はまだ十分と推測されたし、急いて事を仕損じる気はない。パネルにぶつけぬよう、ケーブルに問題を生じさせないよう、ゆっくり確実に運ぶ。高さ3センチ程度の目印の砂山は暗視装置を使うと5メートル手前からでもしっかり確認できた。
もうひと往復するだけで全ての荷物は運び終えた。今から凶器を常温にさらしても多分実行の時まで性能は維持できるだろうが、ふたりはギリギリまでドライアイス漬けにしておくことで一致していた。行動開始から実行までの時間は多分1分程度しかない。ふたりは事前に何度も訓練してその手順と正確性を高めていた。
麗華は行動開始以前に済ませられることをすべて終え、その場で身を屈めて目を閉じ、深呼吸した。身体は休ませつつ精神は研ぎ澄ませておく、そんな心境だった。
「部屋の窓、動き有り」
志田からの連絡で麗華は静かに準備に取り掛かった。ほぼ瞑想状態だった彼女は月が随分傾いていることに気付いたが、待機してからどれだけ時間が経っているかわからなかった。
クーラーボックスを開け凶器を取り出し器具に装着する、クーラーボックスは塀に載せてロッドの視点にする。その伸縮機能はロック前だ。標的5が身を乗り出すのはベランダの左右中央特に定まっていない。待機は中央真上でしているが、左右にぶれた場合、ロッドを伸ばして支点は動かさず、力点である麗華が動いて落下地点を調整する。その場合凶器が支点からより遠くに移るのでテコの原理で保持が厳しくなる。それでも必要な命中率は確保できるつもりだが、出来たら集中力はロッドの保持より照準合わせに多くを割り振りたい。標的5の出現地点、これが今作戦最後の乱数だろう。
「出現、中央ちょい右」
麗華のスマートフォンに志田からの情報が届く。ちょい右のオーダーだが基本は中央だ。ロッドは10セントほど伸ばし固定、麗華は掛け声を出さないようにゆっくり凶器を持ち上げてマンション外側に吊るす。カメラやモニター類を起動させると既にほぼ成功許容範囲に人の頭が写っている。麗華は音が出ないように深呼吸をして最後の連絡を待った。
「目標確認、階下に問題なし。実行です」
最終連絡の確認のためクーラーボックスに立てかけたスマートフォンにメッセージが入った。麗華は静かに安全装置を外しグリップを握った。
「ぱきん、ぐしゃ」
眼下で変な音が響いたが、麗華は全く関知せず撤収に取り掛かる。まだ固形を保っているドライアイスを塀から転げ落とすようにしてクーラーボックスから全て出す。ロッドをたたみバッグに収納、素早さより確実性を重視し、手跡足跡などの痕跡を隠匿しつつ荷物をまとめた。一カ所移動中にクーラーボックスをソーラーパネルにぶつけたが、傷や破片が残るような強度ではなかった。もしこの案件で事件性を見つけ、この接触からクーラーボックスの製品を断定、購入者の志田までたどり着けるならもうそれは初志撤回して警察に全面降伏してもいいやと先々のことに思いを馳せて笑った。
ドア向こうに人の気配はない。久しぶりな気がする素手での作戦実行。このドアノブを触る時だけ袖を伸ばして手を覆っている。静かに、周りに神経を配りながら階段を下りる。重量物を肩に掛けて上った数時間前のことを思うと足取りが軽い。麗華はダサい帽子を目深にかぶって慎重に歩みを進めた。
マンション構内から外に出ると、志田のバンがハザードを点けて停まっているのが見えた。はやる気持ちを抑えるべきと一瞬考えたが、友人との合流に浮かれるのは自然だろうと思い、麗華は小走りでそこに向かった。運転席側の窓をノックしてからリアハッチを開け荷物を積載、静かに閉じてから助手席に乗り込んだ。
「おつかれさま、見た限り成功よ」
そう志田は告げると静かに車を出した。速度を上げつつある車から見える街並みは深夜帯ゆえ言え全く人影はない。目撃されたいと思ったわけではないが、麗華は釣り人のコスプレが実際一般人に違和感がないのか今になって少し気になった。