序章
「ねえ、美樹は強姦されたことある?」
麗華は普段と変わらない穏やかな表情のままで尋ねた。
「え?ないわよ、と言うか麗華はあるの?」
普段から会話に対する反応が早い美樹は今いる大学にカフェと言う場所故に、誰かに聞かれていないか他に知人がいないかを見まわしながら問いただした。
「ふふ、私もないわよ。いつも兄さんが守ってくれたもの」
麗華はここ半年ほどずっと定着している悲しみをたたえた笑顔で返答した。その一言で美樹はいろいろと察して言葉をつぐんだ。
麗華には四つ歳の離れた血縁や戸籍に繋がりがない兄がいた。
『施設育ち』
治安悪化の進む日本では現在犯罪被害の孤児は元より加害者側の遺児を養育する施設が各都道府県にひとつは造られている。古くからある虐待や育児放棄等から子供を保護する施設とは違い、基本的に加害被害を問わず事件事故で養育者がいなくなった子供だけを引き取る公的施設である。犯罪被害児保護施設と正式には銘打っているが、被害者側の孤児は遠縁の親類など少なくない場合で引き取り先が見つかるのに対して、加害者側は三親等ですら引き取りを忌避される事例も多いとされている。事実上加害者側遺児の保護施設となっている。その現状を揶揄してそこの出身者は施設育ちと言われ至る所で大なり小なりの差別を受けている。麗華とその兄は施設育ちだった。
周りで自分たちの会話に反応した人がいないのを確認した美樹は、対面で紙コップを両手で持っている麗華の手を包むように握り諭すように言った。
「お兄さんのことは残念だったわ。でも麗華はまだ二十二歳なのよ。これからどうするつもり?」
「わからないわ。少しひとりで自分の人生を見つめ直したいの」
同じ大学で同じ学部、新歓イベントでひとり佇んでいた麗華に声を掛けたのは美樹の方だった。施設育ちを明かして距離を取ろうとする麗華に全く気にせず距離を詰めたのは美樹だけだった。二人の付き合いはそれ以来日々親密さを増し、いつしか互いに親友と認識する間柄になっていた。元々社交的ではない美樹でも友人や彼氏は出来たが親友と呼べると思っているのは唯一麗華だけである。一方麗華の方は美樹以外に交友関係はほとんどなかった。まるで大学は勉学のみを修める場であるとでも言わんばかりにゼミ教授やその助手とは積極的に話していたが、先輩後輩同年問わず学生と話すことはほぼなかった。
「何か教授が卒論を院の合格論文扱いしてくれてね。まだ当分は大学で研究できる契約だから自分がいる内ならいつでも戻ってきなさいっておっしゃってくれてるし」
「そ、それなら、いいのかな」
今回の会話は二人とも卒業間近、就職先も決まってよかったと何気ない雑談をしていたところ麗華がいきなり決まっていた就職先を辞退したと告げたところから一変していた。
「でも麗華ってあの倉石法律事務所だったでしょ。よく舩橋教授の逆鱗に触れなかったね」
教授、法律事務所ともにその界隈で名が通っているが一般的に認知されているわけではない。ただその事務所所属の弁護士が数人頻繁に刑事案件でテレビのワイドショーに出たりしているのでその人の所属と言われれば認知度は上がる。麗華を指導した舩橋教授はその倉石氏を一番弟子のように認識しており、卒業生の就職先にそこに推薦するのは五年前後で一人と言われている。麗華は数年に一人の優等生と認識されていたのだ。
「倉石先生とも元々面識もあったし、事情が事情だから落ち着くまで好きにしなさいって」
「そっか。そうだよね。まだ人生長いんだし麗華が納得できればそれが一番だよね」
自分共々順風満帆に見えた親友の人生が若干脱線しかけているように見え不安を感じていた美樹だったが、自分に言い聞かせるように言った。
「じゃあ私行くね」
まだ陰りを残しつつも、先ほどよりかは晴れやかな笑顔で麗華は立ち上がった。
「卒業式は出るよね?」
「ううん。もう証書も貰ってるしいいかなって」
美樹は普通にスーツで出るつもりだったが両親が上京と晴れ着の着付け予約をしたため一大イベントと化している。麗華が居なければひとりぼっちというないわけではないが、それでも親友と一緒に人生の節目を祝いたかったのでその落胆は半端なかった。その雰囲気を察知してか、麗華がハグと呼ぶには濃密過ぎる抱擁で美樹を包んだ。
「ありがとう美樹。あなたのお陰で大学生活は想像以上に充実してたわ」
不意に想定外の行動に見舞われた美樹は四年間ほぼべったりだった親友との別れを急に実感して感情が涙となってあふれ出した。
「ごめんね、あなたを支えられなくてごめんね」
混雑しているカフェでは奇異な行動であったが特に二人を気に留める人はいなかった。あふれた感情の分だけ込められたような力で抱擁を返す美樹の後頭部をなだめるように撫でつつ麗華が言った。
「ううん。今立ち直れているのは美樹のお陰よ。本当にありがとう」
麗華は一分近く美樹の思いを受け止めた後、意を決するように彼女の両肩を掴んで剝がすように抱擁を解いた。
「じゃあ元気でね」
今まで見せなかった晴れやかな笑顔を見せて麗華は小走りで去っていった。
「連絡はしてね。居場所はちゃんと教えてよ」
背中に問いかける美樹に変わらぬ笑顔を半身で見せ、手を振りながら麗華は去っていった。
2DK、各種交通機関の駅や停留所から遠いせいもあり家賃は割安、日当たりは良くないが取り立てて暮らしにくさを感じないマンション。思えば麗華は人生のほぼ半分をここで兄と暮らしていた。少ないながらもいくつかあった家財道具も処分した。最低限の衣料と生活用具、兄の思い出の品は段ボール二箱に収まり先日軽自動車をレンタルして引っ越し先のワンルームへと運んだ。鍵はドアポストに入れておけばいい、契約が切れるのは二日後だがもう不動産屋と直接会わなくてもいい運びとなっている。麗華はそのポストから新聞を取り出し玄関の土間に広げた。シューズロッカーを開けて借りたときから放置されている金槌を握るとスマートフォンを新聞の上に置くと、それを何度も何度も打ち付けた。そこにどの程度の情報が入っているのか、後々どう影響するのか、深く考えていたわけではないが過去と決別する意思表明を込めてまるでプレス機に押し潰された様になるまで叩き続けた。
金槌は契約時と同じ位置に戻し、砕け散ったIT機器はそのまま新聞紙で包んで麗華は立ち上がった。玄関備え付けの鏡を見ると全ての感情を失ったような自分の顔が映っていた。麗華は自分の顔が今まで見たことのないような人に見えてほのかに口角が上がった。静かに退室し、施錠をした後鍵を投函、その扉に軽く会釈して部屋を後にした。マンションの入り口に常備してあるくずかごに新聞紙を静かに投げ入れて麗華は様々な思い出のあるマンションを振り返りもせず、静かに去っていった。