ミケの一日
ちりりん,ちりん。夏の夜風に吹かれ,どこからか涼しげな風鈴の音が聞こえてきます。一体何処から音がするのか,誰にも分りません。ですが,確かに,風鈴の音は聞こえてくるのです。
ミケははっと,目を覚ましました。隣にはミケの主人である,おばあさんがすうすうと寝息を立てています。暑い夜ですから,ミケはのどが渇いたのです。ミケは二階の寝室から,一回の台所へ水を飲みに行きました。それから再び二階に上がってきて,寝室とは別の部屋に入ります。月明かりの差し込む,どこか寂しい部屋です。開け放たれた窓に,レースのカーテンがひらめいて,白い幽霊のようです。ミケはそこから月を見ました。青い夜空に,くっきりとした三日月です。ちりりん,ちりん。何処からか風鈴の音が流れてきました。ミケはつんとした耳を少し動かしただけで,両目はじっと夜空に向けています。そうして思い出したように寝室に向かい,おばあさんのそばに丸くなりました。ちりりん,ちりん。静かな夜に,孤独な音が響きます。
ミケは公園のトイレの裏に生まれた野良猫です。五匹の兄妹と共に拾われました。それからそれぞれに貰い手が見つかりました。ミケもそのうちの一匹です。古本屋を一人で営む,今のおばあさんに貰われたのです。
空が白んできました。おばあさんは一人,目を覚まし,布団を畳みます。ミケはまだ気持ちよさそうに,ぐっすりと眠っています。おばあさんは朝の支度を始めました。お味噌汁を作り,卵焼きも作り,トマトを切って――ミケは朝の音に耳を探らせ,鼻をすんすんとさせ,ぱちりと目を覚ましました。台所に朝日が溶け込んでいます。ミケは猫らしく,静かに階段を降り,台所へ向かいます。カンカラカン。ミケの朝ご飯がお皿に盛られる音がします。
「みゃー」
ミケは必ずおばあさんに,おはようと,ありがとうの気持ちを込めて挨拶します。おばあさんは
「おはよう。良い子ね」
と言って,頭を撫で,それからいただきますと言い,手を合わせ,ご飯を食べ始めます。ミケはおばあさんが食べ始めてから,自分のご飯を食べ始めます。静かな朝に,食器の擦れる音だけが響きます。ミケも負けじと,カリカリ音をたて,おいしそうにキャットフードを食べるのでした。
おばあさんは朝ご飯を食べ終わると,食器を洗い,洗濯物を乾かします。お日様はいつの間にか,立派な位置にギラギラとして,夏の一日を知らせます。ミケはおばあさんの足元をすっと横切って,外へ出ます。狭い裏庭は日陰となっていて涼しいのです。ミケはそこで毛繕いをします。お腹を舐め,足を舐め,それから前足で顔をごしごしと洗い,すっかり綺麗になると,ごろんと横になります。
おっと。忘れていました。大切な日課です。ミケは立ち上がり,スタスタと歩いていきます。この時間は小学生たちが登校する時間です。ひょいと塀の上に登り,道向かいの,小学生たちを見下します。
「あ! ミーちゃんだ!」
「おはようミーちゃん」
ミケに気付いた子が一人,声を上げると,波紋のように連なって,他の子たちも,口々にミケのことを呼びます。
「みゃあお」
ミケも大声で答えます。にぎやかな朝はこうして過ぎていくのです。子供たちは楽しそうに手を振っています。ミケも長いしっぽを,右に左に垂らすのでした。
ガラガラガラ。シャッターを上げるけたましい音が,あちこちから起こります。町が目覚める時間です。おはようございます。ええお早うございます。今日も暑いですねえ。そんな声も生まれてきます。朝の息吹が町を走り,人々の一日の始まりです。
ミケは大きな欠伸をしました。朝の涼しいうちに,もうひと眠りしようか。いやいや。ミケは一つ用事を思い出しました。塀の上から飛び降ります。お日様はまた少し高いところへ昇って影を塗りつぶしていき,ミケは隠れるように影から影へ縫うように進みます。おや。見事なアジサイがあります。ミケはその下を通ることにしました。ひんやりとして,土は湿っており,毛皮でこもった熱が,そこいらへ逃げていくような心地よさがあります。やわらかく甘い香りが,夏の青草の匂いにまじり,なんだか懐かしい気持ちにさせます。ミケはしばらくアジサイの下にじっとして,それからまた強い日差しを避けながら進みます。
そうして着いたのは,とある床屋さんです。赤,白,青のリボンがぐるぐると廻って,ミケはそれを眺めるのがお気に入りです。ですが今日は暑い初夏の日。素早く用事を済ませようと思い,
「みゃー」
と,ガラスのドアに向かって鳴きました。
ドアの向こうでは一匹の猫が足早にやってきて,しきりに鳴いています。この子は銀蔵。銀蔵はミケの弟で,ミケのことが大好きです。ドアの前でじれったそうに右往左往してミケを見ています。すると主人の奥さんがやってきて,ドアを開けました。銀蔵は開けるが早いか,さっとミケに寄ってきて,頭をミケの首元に何度もすり付けながら,何度も鳴きます。元気にしてたか? 暑くないか? 昨日も暑かったな。銀蔵は家族思いです。一方ミケは行儀よく座ったまま,弟の熱烈な歓迎もなんでもないかのようにすましています。
「まあまあミケちゃん。よく来たわね。上がってくかい?」
奥さんがそう言うと,ミケは
「みゃー」
と目を細めて返事をして,お店の中に入ります。
お店の中では既に,一人のおじさんが髪を切ってもらっています。
「今牛乳を出すからね」
奥さんは店の奥に消えました。残されたミケは,銀蔵とじゃれています。主人と客のおじさんは,昨日の野球について話しています。時折響くカシャンカシャンというはさみの音と,コッ,コッ,という時計の音。静かな時間が過ぎて,奥からパタンという音が聞こえると,ミケと銀蔵は動きを止め,奥さんの帰りを待ちわびました。
「はいお待たせしました」
大きなお皿がミケと銀蔵の前に置かれます。中身は良く冷やされた牛乳です。二匹とも頭をくっつけて,必死にぴちゃぴちゃと甘い牛乳を飲みます。
「にゃあおん」
奥からチャリチャリと,安い鈴の音をたてながら,真っ白な猫がやってきました。この子はミルク。ミケと銀蔵のお母さんです。何を隠そう,公園で拾ってきたのは他でもないこの床屋の主人なのです。貰われていった兄妹とは別に,ミルクと銀蔵はここの世話になっています。ミルクは二匹の元へやって来て,少しだけ牛乳を飲むと,待ち客用のソファに登り,全身を伸ばしてくつろぎだしました。
ミケの用事とは,お母さんと弟に会うこと,それから牛乳をご馳走になることでした。ミケはお母さんに挨拶して,それから鼻をちょんとくっつけました。お母さんはみゃおと鳴き,しっぽをパタパタとさせ,元気な娘の姿を喜びました。
用が済んだミケはドアの前に行き,
「みゃー」
と鳴きます。
「あら,もう行くの?」
ミケは真っ直ぐに奥さんの顔を見ます。実を言うと,昨日もここに来て,二匹と会っていたので,目的のほとんどは牛乳だったのです。あんまり長くいても,銀蔵がしつこいので,少し早めに帰ることにしました。
「またおいでね」
「みゃす」
ミケはお礼を言って,再び町へ繰り出しました。
お母さんも弟も元気で,ミケは安心しました。お日様は頭の真上を少し過ぎ,一日のうちで一番暑くなり出しました。二匹に会って元気になったミケも,この暑さには参ってしまいます。
少し考えて,ミケは裏道を行くことにしました。ブロック塀が並び,近くには用水路が流れており,建ち並ぶ家々がつくる影が一日中陽を遮る涼しい道です。苔むした土の通りは,人々の行き交う空間とは隔絶され,忘れ去られたような昏さがあります。
のんびり歩いては横になり,また歩いてはひんやりとした地面にお腹をつけて体を冷やしたり。そうしてゆっくりゆっくり進んでいくと,赤い屋根の家の門前に出ました。
「わん! わんわん! わん!」
この家に飼われている柴犬のバニラです。ミケを見るなり立ち上がり,ガチャリガチャリと繋がれたリードを引っ張って,一生懸命に吠えてきます。バニラはミケから絶対に目を離しません。しっぽをぶんぶんと振って,飛び掛かるようなポーズで,近所に響く大声を出します。ミケは,会う度に吠えられます。何度も何度も飽きないのかしら。ミケはバニラを眺めているとそういう気持ちになります。そしてバニラの前で欠伸をし,毛繕いをし始めます。ミケは知っているのです。どれだけ吠えられようと,こちらには来られないことを。そんなバニラを,しっぽで地面を叩きながら眺めて相手してやるのが,いつの間にか日課となっているのでした。
「あ! ミケが来てる!」
ミケとバニラは,同時に声のする方へ向きます。声の主はバニラの飼い主である,小学生のユカちゃんです。バニラは大好きな飼い主の帰宅に大喜びです。一方ミケはユカちゃんを見ると,一目散に逃げだします。
「あー。待ってよう!」
ミケは子供を見るのは好きですが,触られるのは好きではありません。みんな撫で方が荒いのです。素早く塀に登ると,奥へ奥へどんどん進んでいきます。
すると,ちょろちょろと,水の音が聞こえてきます。公園の池まで,いつの間にか辿り着いたようです。疲れたミケは池の水を飲むことにしました。水際は涼しい風が通ります。水を飲もうと水面に顔を近づけると,鏡のように,ミケの顔がぷかぷか浮かんでいます。じっと自分の顔を見つめ,それからある考えが浮かびました。もし私が水を飲みに来なければ,この私はずっと一人であった。もし私が気付かなければ,この時間は止まっていた。では今この瞬間,私以外の時は止まっているのだろうか。私の知らない時は,忘却の砂漠に埋もれ,塵のように堆積し,二度と知覚できず閑却の彼方に死んでいくのだろうか。
水面は揺れ,ミケの顔もゆらゆらしています。ミケが前足でちゃぽりと水を叩くと,ミケの顔は崩れ,光が乱反射して,きらきらとしています。ようやくミケは水を飲むことが出来ました。
ミケは不安を水と一緒に飲み込みました。そしたら急に一人が怖くなり,古くからあるお寺に向かうことにしました。ざわざわと裏の林が騒ぎます。暗く,背の高い木々が,ミケにはいつもより恐ろしく見えました。林の外が明るいのも,かえって不気味に思えました。
いそいで林を抜けると,ミケの求めていたものがありました。猫の集会です。何匹もの猫がくつろぎ,じゃれあい,鳴きあっています。ホッとしたミケは辺りを見渡しました。すると二匹の猫が並んで座っているのが目に入り,ミケは嬉しくなって駆け寄りました。茶トラの一匹がミケに気付き,
「みゃーお」
と声を掛けます。すると隣にいた白黒のブチ猫も同じように鳴きます。茶トラは名をトラといい,ミケのお父さんです。白黒は豆大福といい,ミケのお姉さんです。ミケは二匹に思い切り甘えました。頭をすりすり,鼻をくっつけ,上に乗っかり,また頭をすりすりとこすりつけました。豆大福はミケをぺろぺろと舐めてやり,顔をぴかぴかに磨いてやりました。トラはそんな二匹の横で大きな欠伸をしました。
やがて一匹の猫が大きな声で,にゃーご,と鳴くと,バラバラだった猫たちは再び集まり出しました。それから,にゃごにゃご,とたくさんの猫による会議が始まります。今日の議題は,熱中症対策と,人間との共存でした。ミケは何も言わず,豆大福とトラの間に挟まっていました。
寺の鐘が鳴り,空はオレンジに染まり,少し冷たい風が吹き出しました。集会は終わり,みな帰っていきます。ミケはトラと豆大福にお別れを言って,町の方へ歩いていきます。商店街では帰路に就く人々が流れ,晩ご飯の良い匂いが漂ってきます。一人のおじさんがミケに気付き,舌を鳴らして気を引こうとしてしてきましたが,ミケは無視をしました。ミケには会いたい人がいたのです。
ミケはあるアパートの一室の前に座り,
「みゃーん」
と鳴きました。ガラガラガラ。アパートのガラス戸が開かれ,中からパンツとシャツだけの,薄着の青年が出てきました。そしてちくわを一本差し出し,
「また来たのか,お前は」
そう言ってミケを力強く撫でました。この青年は大学生のタクマ。ある日ミケがここで雨宿りをしていると,タクマがミケにちくわを与え,雨が止むまで遊んでやったのです。以来すっかりミケになつかれてしまい,ほとんど毎日のようにミケがちくわを貰いに来るようになったのです。ミケはタクマの力強い撫で方を少し痛いと思っています。ですがミケはタクマの優しいことを知っているので怒らず撫でさせてやります。またタクマも猫が好きですから,ミケが遊びに来るのを毎日の楽しみにしていました。ちくわを食べ終わった後も,タクマがひもを使ってミケと遊び,時にはひざに乗り,互いにとって良い時間を過ごしました。
そうしてひとしきり遊ぶと,ミケはおばあさんを思い出し,
「みゃおん,みゃおん」
と別れを惜しみつつも,家に帰るのです。
辺りはすっかり暗くなり,今まで見えていたものも見えなくなりつつありました。ミケの両目が暗闇に浮かびます。
ガタン。ガラゴロガラゴロ。ガシャン。シャッターの閉じる音です。
「みゃおーん」
大きな声でおばあさんを呼びます。
「おかえりおかえり」
頭をぽんぽんと叩くように撫でます。
「今日はマグロの切り身が安かったからね,一緒に食べようね」
「みゃあ」
嬉しくなって思わず声が上ずります。
こうしてミケの一日が終わろうとしています。古本屋には一人のおばあさんと,一匹の猫が楽しく暮らしています。闇夜の中,台所の蛍光灯がぽつり。永遠に幸せが続くことを誰が約束できましょうか。町の一角に寂しい明かりがぽつりぽつりと灯されては消えていきます。
ちりりん,ちりん。何処からか,風鈴の音が聞こえてきます。何処から音がするのかは,誰にも分りません。