幼少期、ラヴィアンローズ!5
ざわざわ、ざわざわ。
背筋をピンと伸ばした私を取り囲むように、たくさんの人々が騒ぎ立てる音が聞こえる。
私の目の前では6歳の時に婚約した一ノ瀬冬威がこちらを睨みつけ、その彼に寄り添うようにして憎い憎いあの女が立っていた。
冬威は彼女の腰を抱きながら、私に向かって口を開く。
『上条野菊、お前が彼女をいじめていたという証言が多数上がっている。彼女にも確認し、監視カメラや痕跡から証拠も押さえた。言い訳は無駄だ。…認めろ。お前は終わりだ』
私は胸を張り、真っ直ぐ前を見据えてその言葉を受けた。淑女はどんな時も落ち着き、微笑むものだ。どんなに心の内が荒れていようとも、それは変わらない。
『そうね、彼女をいじめたのは私よ。もとより否定するつもりもない。でも、…酷いわ、冬威は私の婚約者なのに、私の肩を持ってはくださらないのね。その女は私からすれば横恋慕の女狐なのに。私は私の敵を攻撃しただけに過ぎないわ』
『お前というやつは…! 白々しくよくもそんなことが言えたものだ。お前は俺の顔と家柄にしか興味がなかった。結局、お前は自分しか見えていなかったんだ!』
鋭い言葉が私の心に刺さってくる。そうだ、どうせこの婚約は親同士の約束に過ぎない。冬威が一ノ瀬家の影響力に潰されそうになっていたことを私は知っていた。そして、家の束縛の最たるところである私との婚約に乗り気でなかったことも。
私は上条家の権力に縋って、みっともなくこの関係にしがみついていたのだ。
私は、馬鹿だ。乗り気でない彼に自分の気持ちを素直に表すのが怖くて、憎まれ口しか叩けなくて、世界の何も見えていなかった愚か者。
“私との婚約は、一ノ瀬家にとって必要な政略なのよ”
“あなたと婚約できてよかったわ。だってあなた、顔は美しいもの”
私が言い放った言葉は、どれだけ彼の重圧になって、そして絶望になっていただろう。
『冬威君。もういいよ、私は気にしてない。そりゃ、怖かったし辛い思いもたくさんしたけど…』
彼女は健康的な肌を少し粟立たせて、冬威の腕にそっと手をのせる。ひまわりみたいな雰囲気の彼女。病的に白い私は絶対に出せない、キラキラとした生命の輝き。女性らしい逞しさ。
『ああ、お前は本当に優しいな…。俺は、お前となら幸せを想像できるよ。みんなが笑う、美しい世界…』
うっとりとした様子の冬威。彼の言う『幸せ』に、私はかけらも含まれていないのだろう。
『野菊。お前との婚約は破棄する。上条との婚約がなくても、俺は一ノ瀬を支えてみせる』
冬威の言葉を皮切りに、黒い服の男たちが現れて、私を拘束する。いじめなどと柔らかい表現をしているが、私のやったことは要するに犯罪なのだ。これから警察に引き渡されるのだろう。
連れていかれる間際、わずかに振り返って二人の姿を目に収めた瞬間に、私の意識は暗転した。
〇×
「―ぎく、野菊、起きて。早く準備をしないと冬威君が来てしまうよ」
「お兄様?」
体を揺すられる感覚に目を開いてみれば、兄のきれいな顔が視界いっぱいに広がった。
なんだか嫌な夢を見たせいで、体が重い。のっそりと起き上がって、兄に手伝ってもらいながら身支度を整える。といっても、よそゆきではない家用のワンピースだから、そこまで手間はかからないのだけれど。
「なんだかうなされていたみたいだけれど、どうしたの。怖い夢でも見た?」
「怖い夢というより、嫌な夢だった。実際に起きてしまいそうな感じがしたの」
「そっか。でも、悪夢は脳が前向きになろうとしている印だって図書室の本に書いてあったよ。野菊は今、前向きになろうとしているんじゃないかな」
へええ。兄は小学3年生にして既に本の虫だ。たまにびっくりするほどの博識ぶりを披露してくれる。
脳が前向きになろうとしている、か。
あの夢は一つの可能性として考えたほうがよいだろう。主に行動する私が別人な以上、全く同じ展開というのは起こり得ないはずだ。
「じゃあ、僕は行くね。一ノ瀬家から連絡が入ったら、また呼びに来るから」
「わかった。ありがとう、お兄様」
にっこりと微笑んで部屋から出ていく兄を見送って、改めて考え事を再開する。
夢の中での冬威を現在の冬威に当てはめるのは少し乱暴かもしれないが、一ノ瀬家の束縛から派生した婚約を嫌がっていたのなら、現時点で既に彼は嫡男としての責任に圧し潰されそうになっているのではないだろうか。現在の冬威は気弱そうな様子だった。きっと、両親に何かを命じられれば素直に言うことを聞いてしまうだろう。しつけの行き届いた所作も、そういった印象に拍車をかけていた。
最初から別人という可能性を除外して考えるならば、原作の冬威は抑圧された反動の、反抗期の成れの果てということになる。
「それなら、私は冬威の負担を軽くできるように動いてみましょう。そうすれば、巡りめぐって私の一生も変わってくるかもしれないわ」
そうと決まれば、さっそく行動だ。今日の見舞いの時にでも、それとなく現在の彼の状況について聞いてみよう。
頑張れ、私。できるだけ幸せな人生を送るために!
ガチャッ。
「野菊、もうすぐ一ノ瀬家の皆さんが到着するよ。玄関でお出迎えしよう」
拳を振り上げたところでドアが開いた。顔を出したのは兄。そして固まる二人。
…天丼!