幼少期、ラヴィアンローズ!3
玄関で私たちを待っていた父は、私の姿を認めるとそれはもう蕩けるような笑みを浮かべた。
知っていたけれど、デレッデレに甘いな…。若干引き気味で父に近づく。
「ああ野菊、とっても可愛いよ!婚約なんて勿体ない、よし、今すぐ破棄してこような」
「わっ、お父様!降ろして、た、高…」
しゃがんで目線を私に合わせた父は、流れるように脇に手を入れたかと思うと私を高く持ち上げた。3歳くらいまではよくしてもらった抱き上げ方だが、最近は私も重くなってきてもうされないと思っていたのだが。
というか、体が大きくなったぶん目線も高くて、シンプルに怖い。
「毎日顔を合わせているとあまり気付かないものだけど、大きくなったなあ。娘の成長は早いものだね…」
な、涙ぐんでいる!早くも娘を嫁に出す父親の心境になっているらしい。婚約がスムーズに続いたとして、実際に結婚できる年齢になるまであと10年もあるので、せっかちもいいところだ。落ち着いてほしい。
「お父様!あんまり野菊を振り回したらせっかくのドレスにしわがついちゃうよ」
遠い目をしていたであろう私のことを見かねた兄に咎められ、ようやく父は私を地面に降ろしてくれた。裾を払ってチュールスカートのしわを伸ばす。兄は実にイケメンだと思う。
それを眺めていた母は楽しそうにくすくすと笑っている。恨みがましくジト目で睨んでみたら、ますます笑われてしまった。
「さあ、私が言えたことでもないがそろそろ時間だよ。車を待たせてあるから、早く行こう」
父が時計を確認し、母の手を取って私たちに声をかける。はい、と兄妹揃って返事をして玄関を出た。
〇×
上条家を出て約30分後。ホテルのカフェでひとまずの顔合わせをするらしく、私は緊張した面持ちを隠すこともなく静かにオレンジジュースを飲んでいた。
実は、ここまでお読みの読者各位はおわかりかもしれないが、私は婚約者の情報を覚えていないのである。原作の私が婚約することで辿った末路については覚えているのだが、肝心の主要なキャラクターについての記憶はかなり曖昧だ。名前も思い出せない。
私にできるのは、婚約者と初めて顔を合わせる普通の6歳児よろしく体を縮こまらせることだけなのだ。
上品なデザインのシャンデリアに見下ろされつつ、ストローに小さく歯を立てた。お行儀が悪いって怒られるかな。
「野菊、婚約者殿がお見えになったよ。ほら、挨拶をしよう」
父に肩を叩かれてハッとする。考え事に没頭してしまっていた。慌てて、しかし粗雑にならないように椅子から降りる。失礼のないように伏し目で向き直った。大人びていて優雅だと評判の上条野菊は態勢を立て直すのも早いのだ。
目の前にいる婚約者が一歩前に進み出る。そこで私は顔を上げて、初めて目を合わせた。
「初めまして。僕は一ノ瀬冬威です」
瞬間、私の頭がぐわんと歪んだ。
「だ、大丈夫、ですか」
「は、はい…。ごめんなさい、ありがとう」
思わずふらついた私の肩を支えながら、冬威は心配そうに声をかけてくれた。その様子は品行方正そのもの、といった感じだ。
違和感が私の背中を駆け抜ける。うなじがチリチリと痛い。そっと彼から離れて姿勢を正す。
「私は上条野菊です。よろしくお願いします」
「うん。よろしくお願いします」
ぺこりと会釈をした私に倣ってお辞儀を返してくれる。とても良い子だ。良家の子息らしく、きちんとしつけられている様子は、とても好感が持てる。
だが、しかし。
原作の一ノ瀬冬威は、『品行方正な良い子』などではなかった。
…ならばこれは、誰なのだろう?
礼儀正しくこちらを見続ける柔らかい視線を受けながら、私はただ、困惑していた。