第4話 黄天神行方不明事件
テーブルの上に白い紙を広げ、睡蓮が円を描く。
「よいか、これが聖宮。聖獣の住まう場所じゃ。そして、これが……」
その外側に、一回り大きな円を描く。
「天宮。我等、天人の住まう場所」
そして、その外にもう一回り大きな円を描く。
「これが、人宮。そなた達、人間のすみかじゃな。宮と宮の境界には、結界が張られておる。中から外へ出ることは出来るが、逆は簡単ではない。分かるか?」
「つまり、天人はこっちに来られるが、俺達は、そっちに行かれない、という事か?」
一真の答えに、睡蓮は頷く。
「そういう事じゃ。ただし我等も、こちらへ下りる事は不可能ではないが、容易ではない」
「普通は下りようなどと考えんわい。こんな汚れた場所に」
太郎丸が言う。
「さよう。この世界は汚染がひどいのでな。ここで生まれ育ったそなた達は何も感じぬ様だが、我等はここでは呼吸も出来ぬ」
「天宮の汚れも、そうとうなものだがな」
太郎丸の台詞に、睡蓮は苦笑する。
「同じ理由で、聖獣は天宮に下りることは出来ぬ。ましてや人宮など、問題外なのだ。聖獣は、聖宮の澄んだ空気の中でしか生きられぬ」
「ならば何故、ここにいる?」
「世が平穏で何事もなければ良いのだが、そういう時ばかりではないのが問題でな。聖宮、天宮、人宮、この三つの宮は、互いに繋がっておる。三つがそれぞれに平穏であれば、良い。だが、どこかで異変が起きると、他へも影響が及ぶのだ」
「ま、たいがいは、人宮が異変を起こさねば、異変などないわな……」
太郎丸が軽蔑した様に呟き、更に続けて言う。
「人宮で異変が起こったものを放っておいては、我等にも害が及ぶ。だから、異変があれば、これを正さねばならぬのだ。面倒でも、わざわざ人宮へ下りねばならない……全く、厄介なことじゃわ」
太郎丸の説明に、睡蓮が続ける。
「そしてじゃ。聖獣が聖宮の外に出るためには、その体に保護壁を作らねばならない。まあ、鎧の様なものじゃな。それを内壁と呼んでいるが、その内壁の役目を果たすのが、我等、天神の力を持つ者なのだ。だが、それだけでは、この人宮へは下りられぬ。内壁の外に、更に強固な保護壁が必要なのじゃ。それが、外壁。そして、人宮の者がその役目を負う……」
「茗梨が、その外壁とやらなのか?」
「さよう。聖獣飛竜の外壁が、この娘。この指輪には、小さな聖域を作る力があってな、これがあれば、内壁の私が、外壁の外に長時間留まる事も出来る。指輪がなければ、外にいられるのは、数分……といった所か」
「その指輪の継承者が、外壁になると?」
「だと、面倒が少なくて良いのだがな。生憎、他の聖獣の指輪は、行方が分からぬ始末。全く、人宮に下りる用がなければ、外壁など必要ないのだがな」
「つまり、何か異変があったってことか?さっき、黄天神が居なくなったって言ってたな」
「そうなのじゃ。あれには、まだ外壁を作る力がない。にもかかわらず、人宮に下りてしまった。最悪の場合、あれは聖獣諸共、消滅してしまうかも知れぬ」
「聖獣って、何体もいるんだろう?一体ぐらい消えたって……」
「聖宮の聖獣は全部で五体。五聖獣の力で、世界を支えておるのだ。一頭でも欠ければ、世界は崩れ落ちる」
「話がでかすぎて、よく分からないんだけど」
「とにかく、黄天神を一刻も早く探し出さねば、大変な事になるという事じゃ」
「その黄天神って奴。その事を知ってて、こっちに下りて来たのか?」
「いや……多分、知らぬ。あれは、聖宮で生まれた者だから、外の事は、何も知らぬのだ」
「聖宮で生まれた?天人とは、違うのか?」
「聖獣が内壁を作るのには、二つの方法がある。一つは、天人をその体に取り込み、これと融合してしまう方法。私は、そうやって、聖獣飛竜の内壁となり、蒼天神の力を与えられた。だが、これには問題があってな、相性とでも言うのか、融合が難しい。融合に失敗すると、取り込まれた天人は消滅し、聖獣にもダメージが大きい」
「もう一つは?」
「聖獣が自身の体を分裂させて、内壁を生み出す方法。幻蛇が今やっているのが、この方法だ。幻蛇は、消えてしまった玄天神水瑪の代わりに、今、新たな玄天神を作っているところじゃ。そして、聖獣雷麒も、この方法で、黄天神麟輪を生み出した。麟輪は、生まれてまだ十年程の若い天神。聖宮を出る事の意味など……」
睡蓮は、麟輪の幼い顔を浮かべて、言葉に詰まった。
一体、聖宮で何があったのか。
麟輪の無茶な行為を、聖獣雷麒は何故止めなかったのか。
全ては、謎のままだった。
あの日――
「すっ、睡蓮姐さまっ。大変ですぅっ」
執務室に飛び込んで来た女官、九嬢の髪を取り乱しての姿に、睡蓮はうんざりした様な顔を見せた。
九嬢は、麟輪の世話係をしている女官である。まだ、十二才という若さであるが、聖獣剛虎との融合によって、白天神の力を得、聖宮へ入る資格を得た、数少ない一人であった。
九嬢のこの“大変ですぅっ”は、最早この天宮では名物となっていた。日に数度は、少女のキンキンとした声が、この“大変ですぅっ”を叫び、その度に睡蓮の人差指がこめかみを押える、というのは、ここではもう鉄板のやり取りだ。
「九嬢、陽が落ちた後は、もっと声を落とす様にと……」
「だって、すごぉく、大変なんですっ」
「今度は何じゃ。亀が金魚の池に落ちたのかい?麟輪の夜具を、天橋の下へ落としてしまったのかい?」
「違いますもん。麟輪ちゃんが、いないんですもんっ」
「ほう……麟輪が……」
繰り返そうとして、睡蓮が言葉を切った。
――この娘は、今、何と言ったのか。
「いないっ?いなくなった?」
「そうなんです。これって、すごぉく、大変でしょぉ?」
「よく探したのか?また、寝台と壁の隙間に落ちていたとか、ふとんにくるまったまま、洗濯場に運ばれてしまったとか……いうことは……」
「ありません。聖宮中、隅から、隅まで探しましたもん。そしたら、剛虎がね、“気”が消えちゃってるから、ここにはいないって、そう言うの……あ、睡蓮姐さまっ」
睡蓮はみなまで聞かずマントを翻すと、執務室を飛び出した。
回廊を駆け抜け、天橋を渡り、物見の塔を回り、そこへ急いだ。
――封印の宮。
そこへ飛び込んだ時、残っていた僅かな気を感じた。黄天神麟輪の気だ。
「飛竜、どこに飛んだか、分かるか?」
睡蓮が聖獣に問う。
『時間は、ほぼ。場所は……人宮は、広いですからねぇ』
「馬鹿な……人宮へ下りたというのか?」
『……の様ですな』
睡蓮は唇を噛み、拳を柱に叩きつけた。
それからの睡蓮の対応は早かった。僅かな時間の内に、四体の聖獣と三人の天神を封印の宮に召集した。
封印の宮の中に足を踏み入れた途端、白天神九嬢は、その内側の冷気に思わず身震いをした。
封印の宮は八角形の建物で窓がない。
九嬢は初めて入ったその内側に、目を見張る。
壁から天井から、そして床に至るまで、全てが数え切れない程の朱塗りの扉で埋め尽くされていたのだ。
この扉の一つ一つが、天宮、人宮にある、数え切れない程の封印物に繋がっているという。
それは、石窟の廟かも知れない。村外れの古びた祠かも知れない。神が棲むという巨石かも知れない。海底に沈んだ古代の神殿の跡かも知れない……そういう話である。
「これより、我らは黄天神の捜索へ向かう。麟輪が下りた時間は分かっている。場所を特定するために、我らは麟輪よりも前の時間へ下りる。麟輪が人宮へ下りると同時に捕まえるのじゃ。白天神九嬢……」
きょろきょろしていた九嬢を、睡蓮がたしなめるように呼んだ。
「はいぃ」
「下に下りて、初めにやることは、分かっているな?」
「はい……えと……外壁となる者を見つけて、融合する、でしたね?」
「そうだ。朱天神翠炎、そなたも良いな?」
「あ、はい」
不意に話を振られて、翠炎は口ごもりながら答える。
「聖獣幻蛇」
睡蓮が、宙に向かって呼びかける。
『わかっておるわい……面倒くさいがのお』
天井から幻蛇の声がして、九嬢が驚いた様に頭上を仰いだ。
「お願いします。では参るぞ」
睡蓮が、床の扉の一つを開けた。
睡蓮の肩越しにその中を覗き込んだ九嬢は、その向こうに又、無数の扉が浮かぶ空間を見て息を飲んだ。
「はぐれると、迷うぞ。ちゃんと付いてくるのじゃ」
「はぁい」
睡蓮が扉に飛び込み、九嬢がそれに続く。その後ろに翠炎が続いた。
三人は扉を幾つも潜りながら進む。
そして、最後の扉――
睡蓮がくぐり、九嬢がくぐった。
――その、最後の扉。
朱天神翠炎は、一瞬ためらった後、その隣の扉を開けてくぐった。
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その日――
聖宮では、いつもと変わらぬ一日が終わろうとしていた。
麟輪が長い眠りの合間に目を覚ました時、何かの声を聞いた様な気がした。
――取り返しの付かない事を……
怯えた様な震えた声が、そう言った。
麟輪は身を起こして辺りを伺う。今ここには、自分しかいないはずなのに。聖獣幻蛇は、新しい内壁の形成で頭が一杯。聖宮の奥の聖域へ籠もったまま、もう何年も姿を見せていない。
「ねぇ、今の……聞こえた?」
麟輪は、自分の中に住む聖獣雷麒に向かって呼び掛ける。
『……下で何か、起こるかもしれない』
心の中から、静かな声が返って来た。
「下って?何かって?」
『下とは、人宮。何かとは……そう、お前の力を使わねばならぬ事』
「僕の力?」
『生まれてはいけないものが、生まれてはいけないものを生み出す』
「どういう事?」
『恐怖が狂気を生み出し、人宮の魂を食い尽くす。放っておけば、やがて世界は崩れ落ちる』
「他の天神に教えて、下に下りて貰う?」
『……いや……お前の力でなければ、事態はかえって悪くなるだろう』
「だって、僕は……まだ、ここから出られない」
『そう……護衛官は任務に忠実だ。だが、一つだけ方法がある。難しい事だが、やらなければならない』
「そう……」
麟輪は、ためらう様に俯いた。
『黄天神』
再び中から呼ばれる。
『聖宮の外にあるものを……』
麟輪の意思とは別に、雷麒の意思によって、その瞳に天宮の光景が映しだされる。
「あれは……??」
『朱天神翠炎。蒼天神睡蓮の配下の者で、聖宮の護衛官の一人……』
「朱天神って、聖獣火翼の守護者だね……あれは……?」
翠炎の後ろに見えたもの――
麟輪はそれに意識を集め、その姿を見ようと試みる。が、染みの様に浮かんだそれは、すぐに霧のように四散して消えてしまった。
『こちらの気を感じ取った様だな。かなりなものだ』
「今のは、何?」
『あれは、闇邪』
「あん……じゃ?」
『あれも、生まれてはいけないもの。あれは、聖獣火翼と朱天神が生み出した魔物。あれは、世界を食らうもの』
「……取り返しのつかない事って、この事かな?」
『いや……あれ自体は、天宮にいる限り、何もできはしない。人宮に下りなければ、別に問題ではない。いずれ消滅する』
「じゃ、何が問題なの?」
『魂を持たぬ聖獣の話を、存じておるか?』
「抜け殻の獣の事?聖獣が、内壁を作る時に捨てる外皮から生まれるものでしょう?」
『抜け殻の獣は魂を持たぬ。ただ、生存する本能のみの獣。それを、邪獣と呼ぶ』
「邪獣……でもそれは、この聖宮の中では、生まれてすぐ消滅するのでしょう?」
『邪獣は、聖宮では生きられぬ。だが、天宮へ出れば、生き長らえる。人宮へ下りれば、増殖さえ出来る様になる』
「もしかして……雷麒が僕を作った時の、抜け殻が……?」
『天宮で生きていたようだ。そして、その邪獣を人宮へ下ろした者がいる』
「……そう……なんだ」
『我々は、人宮へ下りなければならない』
「そうだね」
『行くか?』
「行く」
そう言って、麟輪は立ち上がった。
そうして、麟輪は聖宮から姿を消すことになった――