第3話 いにしえの約束事
夕刻――
人で賑わう中華街に足を踏み入れた時、一真は女の目的地を察した。そして、その予想通り女は中華街の中程にある一軒の店に入って行く。――ここは、茗梨の家である。
「いらっしゃいませ」
若い店員が、明るい声で応対する。が、その愛想のいい顔が、何かに気付いて困ったような顔に変わる。
「あのう……お客様……?」
店員の視線を辿って、一真は自分の足元に、太郎丸が付いて来ているのに気付いた。
「主はおるか?」
女は店員の表情を気にもせず尋ねる。
「はぁ……お待ち下さい」
自分の手に余る客だと察して、店員はそそくさと奥に引っ込む。程なく厨房から、主人――即ち、茗梨の父が現われた。
「お、何だい。一真くんじゃないか」
一真は言われて頭を下げた。
「と……こちらの女性は?」
聞かれて一真は、先刻の女の自己紹介を思い出し、どこまで言えばいいものかと考えた。
「そなたが、ここの主か?」
一真が答える前に、女が言った。
「ええ」
茗梨の父が訝しげな顔をする。すると、女が右手の甲を見せた。女の薬指に例の指輪を見つけて、茗梨の父は驚いた様な顔をした。
「あ、あなたが……そうなんですか?いや、こりゃ驚いたな。まさか、本当にいらっしゃるなんて……」
「来たくはなかったのだが、あちらで面倒が起きたのでな」
「ま、とにかく、お上がり下さい」
女は頷くと、茗梨の父の後に付いて奥へ入っていく。佇む一真を追い越して、太郎丸がそれに続く。
「おい、お前」
一真が呼び止めると、太郎丸が振り向いた。
「わしも、客じゃ」
「お前……」
――その猫喋るんだから。
茗梨の言った事を思い出す。
「お前、名は?」
「わしは、幻蛇。こいつは太郎丸。どちらで呼んでくれても構わんがな」
「こいつ?」
「ふわふわまるまる、ぷりてぃな、こ・い・つ」
太郎丸が、短いしっぽをぶんぶんと振った。
「……意味不明」
「今に分かるさ。嫌でもな」
太郎丸はすたすたと店を横切って行く。一真も仕方なくそれに続いた。
その女――睡蓮が、正座をして茉莉花茶をすすっていた。
一真は合い向かいに座って、その動作を見ている。
太郎丸は、睡蓮の隣に丸くなっていた。
茗梨の父が、その父親――つまり、茗梨の祖父を呼んでくると言って部屋を出ていってから、部屋の中には沈黙が下りている。
やがて、廊下をどたどたと走ってくる音がして襖が開き、待っていた人物が姿を現わすと、睡蓮は茶托に湯飲みを下ろした。
「いやいやいや……いや、驚いたねぇ」
睡蓮の姿を見、老人が誰にともなく言う。
「もうかなり昔の事ゆえ、どうかと思ったが、あの者は……玉霞は、ちゃんと約束を守っていた様じゃな」
睡蓮の言葉に茗梨の祖父が襖の前に正座し、ふかぶかと頭を下げた。
「それはもう、確かに。代々、その様に言い継がれております故」
睡蓮は指輪に目を落とし、ふと思い出したように笑う。
「元々あの約束は、冗談の積もりだったのだがな……この指輪は、戦で立てた手柄の褒美として、玉霞に与えたもの。実を言うと、力を授けると言いはしたが、私は何もしなかった。あれが仙人になったは、当人の努力の賜物だったのじゃ。よもや、我等が二度と人宮へ下るとは、思いもよらなんだからの」
「もう千年も前の話。今更、事情は問いませぬ。その指輪を継いできた者として、伝えられた約束を果たすだけでございます」
「お陰で助かる。この指輪と相性の良い者を探すのも、なかなか難儀なのでな」
「茗梨は、お気に召しましたかの?」
「うむ。相性は良い様じゃ。拒否反応も出ておらぬし」
「おい」
一真の声が、二人の会話に割り込んだ。
「話が、見えない」
「そう急くな、若いの」
太郎丸がそう言って、大きく伸びをした。茗梨の祖父は怪訝そうな顔をして太郎丸を見、睡蓮を見た。
「これは……」
「聖宮で寝ておったのを、叩き起こして来たのでな。ちと、機嫌が悪い様なのだ。これは、聖獣幻蛇」
「ええと……確か、玄天神水瑪様の?」
「いや、水瑪はすでに消滅しておる。故に、幻蛇は新たな内壁を形成中で、聖宮を出られぬ。ここにいるのは、精神体だけじゃ」
「そうまでして、こちらへ下りられたというのは、一体、何事でございますか?」
「黄天神が、聖獣雷麒を連れたまま姿を消した。我等は、それを捜しに来たのじゃ。そちらの御仁には、その手助けをしてもらう積もりでおる」
睡蓮が、一真を見て言う。
「訳の分からない事にかかわるのは、御免」
一真が立ち上がろうと腰を浮かせる。
「まあ、待て。今から説明してやるからに。いや、“百雲は一軒に敷かず”というでな」
「……?“百聞は一見に如かず”か?」
「あ……おお、そうじゃ……いや、日本語は難しいのう……コホン。とにかく、これを見てもろうた方が話が早かろう……」
睡蓮が指輪を外してテーブルに置いた。
一同の間にしばし、沈黙が流れる。
「………で?」
一真が尋ねる。
「すぐじゃ、大人しく待っておれ」
そして、又、沈黙……
一真がおもむろに立ち上がり、襖に手を掛けた。
「見かけによらず、せっかちな男よの」
太郎丸の声が背中から聞こえる。一真は、構わず襖を開けた。
が、外へ足を踏み出そうとした瞬間に、鼻先で勢いよく襖が閉じられた。茗梨の祖父が青ざめた顔で一真の横に立っていた。
「他に知れては、厄介なものじゃ。茗梨が、嫁に行きそびれてしまうかもしれん」
年寄りが大仰に溜め息をついた。
「茗梨?」
一真が、何気なく、振り返る。
「………?!」
その光景に息を飲んだ。
睡蓮の体が歪み、蝋が熱で溶ける様に、溶けてどろどろになっていく。
一真はその光景に血の気が引いた。誰にも知られていない、師匠の雅にも知られていない、一真の唯一といっていい弱点。それは、この手のぐちゃぐちゃどろどろなもの、なのである。こめかみの辺りから、汗が音もなく滑り落ちて行った。
それが、あと一分も続いたら、一真は無様に倒れていたかも知れない。だが、そのどろどろは、雪が陽の光に溶けて消える様にみるみる内に消えて、彫像が大理石から彫り出される様に、その下から少女の姿を浮かび上がらせた。
「茗梨……」
睡蓮の座っていたその場所に茗梨が座っていた。名前を呼ばれて、茗梨が不思議そうに周囲を見回す。
「じっちゃん……あたし……」
「蒼天神様が、お下りになられたのじゃ」
「蒼天神様って……うちの守護神様の事?」
「守護神じゃと?」
太郎丸が口を挟んだ。
「睡蓮姐さんは、ちゃっかりとそんな都合のいい話をでっち上げたのかね」
「……ちゃっかり……とは、随分な言い様だねぇ」
今度はさっきの半分ほどの時間で、また睡蓮が戻ってきた。
「ふん。この外壁は、我等を守る為のもの。我等のほうが、守られるものであろう?」
「神様は何でも守ってくれるもの。そういう解釈を勝手にしたのは、こっちの者達じゃ。私は、守るなどと言った覚えはない。我等、内壁が守るのは、聖獣のみじゃ……ふう、全く、なんて汚れた空気なのか。話すだけでも、息が切れる」
言いながら、睡蓮が指輪をする。
「ほう……」
睡蓮がほっとした様に、溜め息をついた。
「説明」
一真が元の位置に戻って、鋭い目を向けていた。
「説明?今の、見たのじゃろう?」
「見たけど。分からない」
「……じい」
睡蓮が救いを求める様に、茗梨の祖父を見上げた。
「紙と筆を持て」
「紙と筆……はい、はい、ただいま」
茗梨の祖父は、あたふたと部屋を出ていった。