第2話 祠で煙を浴びるとか、ヤバイ感じしかしない
その雑木林の中に、何を祀ったものか、古びた祠が建っていた。
人を招く様に、敷石が祠へ続いている。鳥居も駒犬も見当たらないから、神社という訳ではなさそうだ。ただ、祠だけがそこに建っている。
――何か、祀ってあんのか。
一真が考える内に、茗梨はその敷石を踏んで走っていく。そして息を切らせながら、その祠の前で止まった。
「……この中、入っても平気だよね?」
振り返って茗梨が一真に聞く。
その必死の表情を見て駄目とは言えず、一真は、「多分」とだけ答えた。
茗梨がそっと祠の扉を押すと、扉は音もなく中へ開いた。
遠くで、人の怒鳴り声がした。
後ろにくっついてきた虎丈が、怯えて息を飲んだ音が聞こえた。
それを合図に、茗梨は意を決した様にその中へ足を踏み入れた。一真は黙ったままそれに続く。虎丈も数秒のためらいの後、前門の狼と後門の虎を天秤にかけ、一真たちの後に続いた。
中は、埃っぽかった。
扉の小さな格子窓から入る光だけが、闇を退けている。歩く度に、床がきしむ音がした。何時の間にか、茗梨は一真の腕を掴んでいた。
「どこへ行きやがったんだ?あいつら」
近くで人の声がする。三人は息を殺して外の気配を伺う。
「たくっ、伊敷さんをあんなに怒らせるなんざ、いい度胸だぜ……あいつも……ちょ……と……」
また別の声が聞こえたが、それが次第に小さくなっていったのに、茗梨は安堵の溜め息を付いた。
薄闇の中に静寂が下りた。
殺した息の小さな音が、やけに大きく耳に付く。
――カタン。
不意に音がした。虎丈が反射的に音のした方を見たとたん、派手に尻餌をついて悲鳴を上げた。
「だっ、だめよ虎丈くん」
茗梨が慌てて虎丈に駆け寄り、その口を塞ぐ。
「……なっ、何かいる」
怯えた様に虎丈が天井近くの闇を指す。そちらへ視線をやった茗梨は、そこで金色の小さな光が二つ光るのを見た。
「やあね、猫じゃない」
茗梨が立ち上がって、その光の主に近寄る。梁の上にでも乗っているのか、その猫は暗闇の中で天井近くに浮いて見えた。
「お前、太郎丸」
名前を呼ばれて、猫が身を翻して飛んだ。
トン、と軽い音を立て、床に着地する。そして、茗梨の手から逃れる様にまた飛んだ。
「捕まえて、一真」
「え……?」
猫は一真の肩を踏台にして、また天井近くへ飛び上がる。
「その猫、喋るんだから」
「喋る?」
一真が訝しげな顔をして猫を見上げる。
「ねぇ、下りてらっしゃいよ。た、ろ、う、ま、る」
茗梨が呼ぶが、猫はその金色の瞳を下に向けて、そこにいる者達を観察するだけで、動こうとしない。
「肩車してよ、一真」
「……いや、俺がやる。虎丈……」
一真が、虎丈を呼ぶ。
「肩、貸してくれ」
虎丈の巨体が一真を肩に乗せ、軽がると持ち上げた。
「虎丈、も少し、右だ。ほら、こっち来いよ」
一真がそっと猫に手を伸ばす。
と、猫が飛んだ。
同時に、何かが床に落ち、派手な音を立てた。
「やだ、何よこれ……」
下から、茗梨の狼狽した声がする。
「どうした?」
問うた声に返事はない。
「茗梨……?」
一真が視線を下に向けると、白い煙が立ち上って来るのが見えた。
「はっ?何なん……って、うわっ」
不意に虎丈がバランスを崩した様にふらりとして、膝を折った。虎丈はそのまま前のめりにどうっと倒れ込む。一真は虎丈の肩から飛び降りて巻き添えを逃れたが、床に立った途端その煙に巻かれた。
――うわ……何だ、これ……
手足がしびれていく。
自分の意思に反して、一真もまた床に倒れ込んだ。
すぐ側に茗梨が倒れている。その手を掴もうと、一真は手を伸ばす。その時一真は、茗梨の指に蒼く光るものがあることに気付いた。
――指輪?……こいつ、こんなのはめてたっけ……
そう思った所で、一真は気を失った。
「一真さん……一真さん……」
体を揺すられて、一真は目を覚ました。青白い顔の虎丈が、一真を覗き込んでいた。一真は体を起こす。起きた途端、鈍い頭痛を感じて、一真は眉をひそめた。
どの位、気を失っていたのだろう。
外はまだ明るかった。
腕の時計に目をやる。蛍光塗料で緑色に光っている針が、三時少し過ぎを指していた。
立ち上がった一真は、軽い目まいを感じて頭を振った。
「虎丈、お前、何ともないか?」
虎丈がこくんと頷く。
「そうか……お前、もう少しここにいて、茗梨を見ていてくれないか」
「一真さんは?」
「俺は……」
「伊敷の所に行くって言うんじゃ、ないでしょうね」
意識の戻った茗梨が、一真を見上げていた。
「決着付けてくる」
「駄目よ、喧嘩は。どうしても行くって言うなら、あたしも……」
茗梨が立ち上がって、一真に詰め寄る。
「さっき恐い思いしたのに、まだ懲りないのか?」
「恐くなんか……」
「お前に手出ししない様に、話を付けてくるだけだから」
「だめ。だめ、だめ、だめっ。喧嘩なんて、校則違反じゃないのよ。雅くんみたいに、停学で留年なんて事になっちゃったら、一緒に卒業出来ないじゃないの」
「……雅のは、そういうのじゃない」
「……ごめん……あたし」
ふと、一真の手が茗梨の右手を取った。その薬指に、龍の形をかたどった指輪があった。
「珍しい指輪だな。これは、校則違反じゃないのか?」
「……こ、これはっ……お守り。そう、お守りなのよ」
「お守り?」
「普段はしてないわ。持ち歩いてるだけ」
「成程。ああいう場面に乱入するには、お守りが必要だった訳だ」
「あれは、偶然……たまたま、だし」
茗梨は言いかけて言葉を切った。あれは偶然だったが、この指輪はそもそも、虎丈を探しに出る時に、気合いを入れる為に指にはめたのだ。恐らく、虎丈と伊敷が同じ場所にいるだろうと思っていたから。心の奥の恐怖心を消すために、それが必要だったのだ。
「あまり無理はするな」
そう言って、一真は茗梨の頭をぽんと叩くと、外へ出ていった。
足音が遠ざかっていく。茗梨は指輪をはめた手をもう片方の手で包み、そこから力を得る様に手を固く握り締めた。
「虎丈くんは、ここに居て。あたし、やっぱり、止めてくる」
茗梨は祠を飛び出して、一真を追った。
一真がどの位強いのか、茗梨は知らない。茗梨は一真が喧嘩をしている所を、見た事はなかったからだ。
茗梨の前では、一真は授業をサボって昼寝ばかりしている。そんなことをしているから、伊敷なんかとゴタゴタと問題を起こすのだ。あれは、要するに縄張り争いの様なモノなのだろう。一真のお気に入りの昼寝場所が、伊敷の縄張りだった。最初のイザコザは、そんな些細な事だったのだ。
――ほんっと、男子って、これだから……
茗梨が高校に入学して初めに覚えた男子の名前が、室町一真だった。いつも何だかだるそうにしていて、クラスの中に入ろうとしない。協調性がない。学級委員長だった茗梨が最も手を焼かされた男。それが、一真だった――
成績は普通。
運動神経もそこそこ。
初めはあまり目立つ存在ではなかった。
だが、初めの月が過ぎ、それぞれが友人を作り、クラス内が落ち着いて来ると、一真という存在は、いつの間にかクラスで浮き上がっていた。寡黙で愛想がない。それに、何より問題なのは、人を寄せ付けたがらないことだ。何事においてもどこか投げやり。茗梨はそれに腹を立て、事あるごとにお節介を焼いていた。だって、委員長だから。クラスを纏めなくてはならなかったから。そうこうしているうちに、気付けば好きになっていた。
我ながら自覚はあるのだが、自分は思い込んだら突っ走って止まれない方だ。間違ったことは、見過ごせない方だから、間違った事をしている方々からは、鬱陶しがられているのも分かっているし、そのせいで巻き込まれるトラブルも枚挙にいとまがない。そのトラブルに一真が関わっていることが多かったせいもあるのだが、気がつけば一真に助けられていたということが多い。心細かった時に、手を取ってくれたのは、一真だけだったのだ。
だからこそ彼には、詰まらないことで傷ついて欲しくないと思う。一真が傷付く所など見たくない。そう思うのは、自分のワガママなのかも知れない。それでも……
木々の向こうに見え隠れする一真の背中を、茗梨は必死に追いかけた。だが、その姿は一向に近くならずに、遠ざかるばかり……茗梨は走っていると思った自分が、いつの間にかよろめきながら歩いている事に気付いた。息が苦しかった。
「なんで……どうして……」
体が自由に動かない。茗梨は、膝を付いた。あの煙のせいだろうか……体が熱かった。へたりこんで両手を地面に付く。地面に、汗の雫が次々に落ちていく。
「いっ……」
体中に激痛が走った。息が出来ない。
――何これ。こわい……やだ……
「助け……て……かず……ま……」
霞む視界の中で、一真の姿は消え掛かっていた。
頭の上から何かを被せられた様な感覚があった。
そして、その中に飲み込まれていく。水に浮いている様に、自分の体がやけに頼りないものの様に思えた。