第1話 昼寝の邪魔されたのはこっちなんだが
――プロローグから、少し時間が戻っています。
空を渡る穏やかな風に、桜の花弁が舞い上がっていく。校庭の隅の八重桜は、すでに若葉に色付いている。あれは、散り終えた花弁の最後の一枚だろうか。
そんな事を思いながら、室町一真は、目を閉じた。
昼休みは、間も無く終わる――
だが、そう思いながらも、一真はそのまま眠りに落ちていく。
そして、安らかな午睡のひとときが、彼の上に訪れようとした、まさにその時、不快な怒鳴り声と共に屋上の扉が、これもまた、ぎぎぃ……という不快な音を立てて開いた。
大勢の足音が、屋上になだれ込んで来る。
「これは、妙な所で会うじゃないかぁ、室町ぃぃ」
一真は起き上がって、軽い溜め息と共にその粘っこい声の主を見た。この学校の素行の残念な生徒たちのリーダー的存在である、伊敷マサトだ。
昼寝を邪魔されたばかりか、寝起きにこんな美しくもない男の顔を見てしまった。
「別に、待ち伏せしてた訳じゃないから」
自分のお気に入りのお昼寝場所が、伊敷くんの幾つかあるお気に入りのたむろ場所のひとつと被ってしまっただけだ。運悪く。
一真は起き上がってそのまま立ち去ろうとしたが、扉の前に伊敷がいるせいで、校舎に入れない事に気付いた。
「伊敷……そこ、どいてくれないか」
「けっ、気取りやがって。ここで会ったが百年目……」
「今朝も会っただろう?」
「セリフの間に、茶々をいれるなっ!飛んで火に入るなんとやら……」
「夏の虫?」
「だーっ、ぐちゃぐちゃぬかしてんじゃねぇ。こいつ共々、たった今ここでっ、料理してやる!」
伊敷の後ろにいた取り巻きの一人が、大きな塊を一真の方へ転がして寄越す。
「お前の料理……まずそう……」
呟きながら、転がってきた塊を冷ややかな目で見る。
捨てられた子犬のような目で、一真を見上げたその塊の名は、佐伯虎丈。
「まずそ……お前には、言葉のあやというものが分らんのか」
「生憎、国語は苦手なんだ」
「むっ、室町……さん」
下から、虎丈が、蚊の鳴くような声を出す。
「一真」
一真が言い直す。
「あのっ……一真さんっ……」
「虎丈、用件は簡単明瞭に」
「たっ、助けて下さいっ」
虎丈は、そう言って一真の足にすがりついた。
佐伯虎丈は、柔道でもやったら似合いそうな体つきだが、めっぽう気が弱い。身長は百九十近くあり、一真より頭一つ大きかった。
その巨体と、それに似合わない気の弱さ。それ故か、虎丈は、伊敷の目の敵にされ、事あるごとに苛められていた。一度、一真が通り掛かりに、袋叩きにされていた虎丈を助けてやった事があった。
以来、虎丈は一真に尊敬の念を抱いており、逆に、伊敷は敵がい心を燃やしていた。どちらも一真の望んだ事ではなく、一真にとっては鬱陶しいだけの事である。
「立て、虎丈……」
一真の言葉に虎丈が顔を上げる。
「前にも言ったはずだ。俺は、弱い奴は嫌いだ」
「………」
「立て、虎丈」
一真の鋭い声に、虎丈は慌てて立ち上がった。目の前にそびえ立った壁に、伊敷達は思わず半歩引いた。
「両手に拳を作れ」
虎丈は、言われた通りに拳を作る。
「目を閉じて、肘を引け。反動をつけて、右手を前へ……」
「うわっ」
一真が言い終わらない内に、伊敷の取り巻きの一人が虎丈の拳に触れてふっとんだ。それを見て、伊敷達は左右に割れて数歩下がった。
「上等だ。行くぞ、虎丈」
一真が割れた人垣の間を通って、扉を潜る。
何が起こったのか分からず、きょとんとしていた虎丈は、立ち去っていく一真の姿を見、これを追った。
少々の間――
殴り倒された者の呻き声に、伊敷は我に返った。
「待ちやがれ、この野郎っ!ふざけやがって」
伊敷が慌てて一真を追い、階段を駆け降りる。残った者達も、瞬間顔を見合わせた後で、またその後を追いかけた。
予鈴が鳴ったのを合図に、中庭のベンチに座っていた新宮寺雅は、開いていた読み物を閉じ、顔を上げた。と、ちょうど向こうから、知った顔が渡り廊下を走ってくるのが見えた。
「慌ててどうしました?委員長」
声を掛けると、委員長と呼ばれた少女が足を止めた。
「虎丈くん、見なかった?」
「さあ……見てませんが?」
「伊敷達と、どっか行ったって……もう、肝心な時に、一真はいないし」
「ご一緒しましょうか?」
「いいわ。もう授業始まっちゃうから、教室に戻って。あたしも、体育館見たら戻るから」
そう言って立ち去る少女の姿を、雅はしばし見送った。
「可憐だな……」
「横恋慕は、駄目ですぜ、旦那」
唐突に後ろから声を掛けた者を、雅は迷惑そうに見上げる。同じクラスのお調子者、久我隆也だ。
「隆也、君に情緒を求める積もりはないけどね……」
「学園一かわゆい、チャイニーズハーフの茗梨ちゃんは、一真のお手付きなんだもんな。もったいないやら、悔しいやら……」
「茗梨は、ハーフじゃなくて、クォーター。それに、お手付きなんて下品な言い方、彼女に失礼じゃないか」
「あっあぁーー彼女にはぁーー可憐という字がよく似合うぅーー」
妙な節を付けて隆也が歌う。
「馬鹿言ってんじゃないよ。師匠が弟子の持ち物、欲しがったりするか」
雅が笑いながら言う。
「……そうでした」
塩を掛けられた青菜の様に、隆也が急に神妙になる。雅は、その変化を気にも止めずに立ち上がり、すたすたと歩いて行く。
「あれが、一真の喧嘩の師匠って言うんだから、世の中わっかんねぇよな」
クラスメートの新宮寺雅が、一年だぶっていると聞いた時には、その色白な美少年的外見のせいで、病気で長期欠席でもしたんだろうと、勝手な解釈をしていたが、どうも、そういう訳ではないらしい。隆也は、近頃そう確信するようになっていた。
「おい、待てよ、雅」
振り返りもしない雅を、隆也は小走りに追いかける。追い付きながら、雅の手にしていた冊子に目が止まり、これをひょいと引っ張った。
「何、お前、中庭で読書なんかしてたのか?」
言いながら、中を開く。
「風が心地良かったんでね」
中には、読めない漢文が並んでいた。
「何、これ」
「経典です」
雅がにっこり笑って答える。
「きょ?」
絶句した隆也の頭の上で、始業のチャイムが鳴った。
「……姐さん」
茗梨は、不意に呼び止められて足を止めた。声の主を探すが、辺りに人影はない。
「姐さん」
再び声がした。
足元で――
茗梨が下を見ると、白い猫が座っている。
「お前、太郎丸?」
この界隈を縄張りにしている猫だった。
「姐さん」
猫が喋った。
「な、何よ、お前っ」
茗梨が猫を捕まえようと、勢い良く屈んだ。が、猫はひらりと身をかわす。
「あ、しまった。人違いじゃったか……」
そう言って、猫ながら脱兎のごとく走り去る。
「お待ち、太郎丸っ」
訳も言わずに逃げられれば、追うのが人情。ましてそれが、喋る猫ならば。
「待ちなさい、餌をやった恩を忘れたの?」
追う茗梨。
逃げる太郎丸。
恩などと、お猫様には分かるまい。……犬ならともかく。
中庭を抜け、校舎の横を抜け、ひょいと飛び乗った塀の上。猫は追ってくる少女を一瞥するように振り返り、おもむろに向こう側へ消えた。
塀の高さは、二メートル弱。茗梨は、瞬間的に計測すると、塀に飛び付いた。運動神経は悪くはない。難無く塀によじ上り、何も考えずに、飛び降りた。が――
「え……」
そこにいた先客は、白猫ではなく制服姿の男子生徒たち。
「一真?……あ、虎丈くんも」
「何をやってるんだ、お前は……」
一真の不愉快そうな口調に、茗梨はようやくその場の緊迫した空気に気が付いた。
伊敷のグループの者達が、一真と虎丈を取り囲んでいたのだ。
「何って……探しに来たんじゃないのっ」
茗梨は、一真と伊敷の間に割って入る。
「伊敷くん、それにあなた達もっ、戻りなさい。もう授業始まっているのよ」
茗梨が、伊敷を睨みつけた。
「委員長さんも、お役目ごくろうな事だなぁ」
伊敷が馬鹿にしたような口調で言った。
「下がれ、茗梨」
一真が茗梨の肩に手を置いて、引き戻そうとする。
「成程なあ……『一真』、『茗梨』って、呼び合う仲ってか」
伊敷が、いやらしい笑いを浮かべた。
「それが、てめえの泣き所って訳だ」
伊敷が茗梨の二の腕を掴んで、自分のほうに引き寄せる。
「ちょっと、何すんのよっ」
「暴れるんじゃねぇぞ……かわいい顔に怪我させたくねえからな」
「え……」
茗梨は頬に当てられた金属のひんやりした感触に、絶句する。
――やだっ……ナ、ナイフ?……
視線の先の一真は、無表情のまま微動だにしない。
「俺は、貸し借り作んのが嫌いでね。てめえにゃ、こないだ貸した分があったよなぁ……そいつを今ここで、きっちり返して貰うぜ。おっと、抵抗はするなよ。彼女の顔に傷が……」
一真が唐突に屈んだのに驚いて、伊敷が言葉を切る。一真は何かを拾い上げ、無造作に伊敷目掛けて投げつけた。
「なん……」
避ける間もなく、伊敷の顔面には立派なガマガエルが張り付いていた。その隙に茗梨は、伊敷の手から逃げ出す。
「伊敷さんっ……」
その場で硬直している伊敷に、取り巻きどもが駆け寄った。
「蛙……本当に嫌いなんだな」
感心した様に、一真が言う。
「何ぼけっとしてんの。逃げるわよ」
その一真の手首を掴んで、茗梨がぐいぐいと引っ張って行く。
「おい、茗梨……」
怒った様に俯いて歩いていく茗梨。一真の手首を掴む手に、信じられない様な力がこもっている。その足は、次第に早歩きになり、ついには走り出した。
――そっか、こいつ。恐かったのか……
一真はそう思い、引っ張られるまま黙って茗梨の後ろを走る。
「置いてかないで下さいよぉ……」
後ろから、虎丈の情けない声が追ってくる。
「馬鹿やろっ、追いかけろっ、にっ、逃がすんじゃねぇっ」
その更に後ろから、蛙ショックから復活したらしい伊敷の努声が聞こえた。