第10話 邪(よこしま)の抜け殻
気が付けば、薄暗い湿っぽい場所にいた。一真が周囲を見回すと、薄い赤色の世界のそこここに、黒い靄の様な物が漂っている。何かが蠢いている気配が、あちらこちらから伝わってくる。不意に、目の前を、ねばっとしたものが滴り落ちていった。
目が慣れてよくよく見れば、周囲は何やらねばねば、ぐちゃぐちゃ、どろどろとしたした世界。背中に寒気が走って、一真は、思わず身震いをした。
――う……わぁ……最低……
――う……何か……吐きそう。
気分が悪くなって、一真はそこにしゃがみこむ。
その頭の上から、黒い靄が侵入者を飲み込もうと、ゆるゆると近付いてくる。何かが、身の危険を感じるセンサーに引っ掛かったのを感じて、一真は顔を上げる。しかし――目の前のものを確認しはしたが、脳の伝達系統が麻痺している様で、体が反応しなかった。
――自分は、こんな所で死ななきゃならない程、悪いことをしたのだろうか。四方を嫌いなものに囲まれて死ぬなんて、あんまりではないか……
はぁ、と大きな溜め息が漏れると同時に、茗梨の顔が浮かぶ。
――キスぐらい、しとけば良かった……
『キスって、なあに?』
――キスっていうのは……へ?何だ、今の声……
『あれっ……聞こえてるみたいだよ。ねえ、雷麒、雷麒っ。繋がったよ』
子供の声が、聞こえた。
一真は、きょろきょろと辺りを見回す。
『あの、突然お邪魔して、済みません』
「えっ……中から……か」
声は、一真の中から聞こえて来るのだ。
『僕、麟輪と言います。あのっ、右手、上げてもらえますか?』
「右手?」
『前、前見て下さい。あれに飲まれると、出られなくなるって、雷麒が言ってます』
言われて一真は、邪気のある霞が眼前にまで迫って来ているのに気付いた。
「げっ……」
ようやく体が反応して身をかわす。と、自分の動作に、何か大きなものが連動して動くのを感じた。
「……何?何だ?」
『右手、右手。早く、早く』
「え……」
『杖を出さないと、力が使えません』
「力って……」
『僕達は今、雷麒の中にいるんです。雷麒の力で、あれを消します。早く右手を』
一真は九嬢がやっていたのを思い出し、右手を上げる。
『聖杖招来……っ!』
麟輪のあどけない声が言う。すると差し上げた手に、杖の重みを感じた。
『再生の杖、輪廻変転』
麟輪の声と共に、頭上の杖から光がほとばしる。それは渦を巻き、眼前の霞を一気に吹き飛ばした。
「初めてにしては、上出来じゃ」
横から睡蓮の声がした。
「いや……俺は何も……」
声のした方を見て、一真が息を飲む。
蒼い聖獣がそこにいた。
「睡蓮……?」
「これは、飛竜。力を使うには、この方が、やりやすいのでな」
聖獣飛竜の中から、睡蓮の声がする。
――僕達は、今、雷麒の中にいるんです……
麟輪の言葉を思い出す。
「もしかして、俺が今いるのは……」
「そなたは、雷麒の中におる」
「何で……」
「雷麒が、そなたを外壁として選んだのじゃ。ここがどこか、分かるか?」
「いや」
「ここは、邪獣の中じゃ。この空間のどこかに、邪獣のもとになっている、獣核というものがある。それを消去すれば、この化物は消える」
「それを、探し歩くのか?この中を?」
一真は思わず顔をしかめる。
「獣核は、聖獣と同じく、保護壁を持っておる。その体に取り込んだ生き物の数だけ壁を持ち、それに守られておるのじゃ。その壁を、外側から一つずつ壊してやれば、いずれ獣核が現われる」
「壁を壊すって……その壁になっている奴は、どうなる?」
「消滅する。が、そなたの杖、再生の杖ならば、それをもとの状態に戻す事ができる。やれるな?」
「さっきのは、麟輪とかいう奴がやったんだ。俺は、何もしていない。……おい、返事しろよ。おいっ」
「麟輪は、まだ聖宮の外に慣れておらぬ故、杖を操る程の力を使えば、しばらくは動けまい。ここからは、そなたがやるのじゃ」
「いやっ、でも……」
「やらねば、ここから永遠に出られぬが、よいか?」
「あ……やります。やらせていただきます」
「上々じゃ。ならば行くぞ」
飛竜がふわりと舞い上がった。一真もそれに続く。
なんとなく……弱みを握られてしまったような……気がする。
そう思って、ふと気付く。
外壁と内壁が共に聖獣を守っているというのなら、茗梨は今、睡蓮の中にいるのではないのか。という事は、茗梨もまた、今までの事を知っているのかも……
「しゃんとしなきゃ、みっともないぜ」
どちらにしろ、もうこれ以上無様な姿は見せたくない。
一真は、杖を握る手に力を込めた。
黒い柱が立っていた。柱と言っても硬質なものではなく、柔らかく粘性のある、ちょうど水飴を長く伸ばしたような代物である。
その柱に人が塗り込められていた。半ば朽ちかけた有様のその体は、間違いなく伊敷のものである。こちらの気配に気付いたのか、醜く崩れかけた顔を上げた。空ろな目が僅かに動いて、その眼球が不快な音を立て落ちた。
「うっ……」
一真は、思わず手から杖を取り落とす。
「あれが、一番外側の壁を作っている者じゃ」
杖を拾い上げた手が、震えていた。
――しっかりしろ、室町一真……
自分に言い聞かせて、一真は杖を頭上に振り上げた。
「よいか」
「ああ」
「消滅の杖っ!」
睡蓮の声と共に、聖獣飛竜が蒼い光を帯びる。一真も大きく息を吸い込んで、叫ぶ。
「再生の杖っっ!」
手にその波動が伝わってくる。二つの光の帯が伊敷の体ごと柱を飲み込んで、これを一気に薙ぎ倒した。
「九嬢っ」
睡蓮が叫ぶと、白い光が柱に落ちる。そして柱は、跡形もなく消えた。
「次、行くぞ」
睡蓮が言い、飛竜が飛ぶ。
「おい、伊敷は……」
追う一真が、飛竜の背中に聞く。
「心配ない。九嬢に転移させておる……あれが、次の壁の主じゃ」
「猫ぉ?」
柱の中にいたのは、猫であった。
「こいつ……見境ないな」
睡蓮と一真は、次々に壁を支えている柱を消していく。そしてついに、目の前に黒い球状の物体が現われた。
「これは……」
睡蓮が息を飲んだ。
「これが、獣核なのか?」
黒く濁った球の中から、獣の目がこちらを見ている。睡蓮はその中の獣と、今、彼女の横にいるものとを、代わる代わるに見る。
『雷麒……』
不意に、麟輪の呟きが聞こえた。
「雷麒?お……?」
足元がぐらりと揺れ、一真は思わずバランスを崩す。
「え?」
目の前に金色の獣がいた。
一真が振り向くと、後ろには黒の獣。
色こそ違え、同じ獣である。
『雷麒っ』
麟輪が呼ぶ声がした。
「聖獣雷麒?」
雷麒が飛んだ。金色の保護膜に包まれた雷麒が、黒い獣にぶつかり、二頭の獣が激しくく絡み合う。
「黒い方が……強い。おい、睡蓮。助けなくていいのか?あれ、やばいぞ」
「雷麒が離れねば、消滅の杖は使えぬ。雷麒め、おのれの邪の抜け殻を見て、感情的になっておる」
「邪の抜け殻?」
「聖獣が内壁を作るときに生じる邪気を、捨てたものじゃ。本来は、聖宮で浄化され、無に帰するものなのじゃが……」
自らの中の、邪悪なもの。
つまり。あれは誰にも見せたくない、その陰の部分。
「聖獣は内壁を持つ事で、『汚れる』。聖宮にいる分には、必要のないものじゃが、邪気を知らなければ、内壁と融合することは出来ぬのじゃ」
雷麒と邪獣の戦いは、どう見ても邪獣の方が優勢である。
「負の感情の方が、強いって事か……」
ただ見守るしか出来ないのか。一真は、唇を噛んだ。
『雷麒っ』
麟輪の叫びが響く。
『戻れ、雷麒っ』
不意に、一真の握っていた杖が消えた。そして小さな少年が、自分の身長よりも長い杖を手に、聖獣に駆け寄っていく姿が目に映る。
「何……?」
「戻れ、雷麒っ」
少年が叫んだ。
「ばっ……何考えてんだっ」
一真は慌てて少年を追った。
「待てっ、麟輪っ」
一真の目の前で、雷麒の体が輝きを帯び、金の球体に変わった。その球に、麟輪が手を伸ばす。光が麟輪の掌に吸い込まれ、消える。
その時、麟輪の小さな腕に邪獣の鋭い牙が食い込んだ。そこから、血が流れ落ちるのが見える。そして、邪獣が容赦なくその腕を食いちぎった。
「麟輪っ」
睡蓮が、悲鳴に近い叫び声を上げた。
「おのれ、邪獣、消滅の杖っ!」
睡蓮の杖から、光がほとばしる。
「再生のっ……杖っ……」
麟輪の、苦しげな声が続いた。
杖から伸びた二つの光が、絡み合う様にして一つの矢となり、邪獣の体を貫いた。邪獣が身をくねらせる。光の中で、それは影を薄め、そして消滅した。
光は麟輪をも包み込み、一真の体へと降り注ぐ。その光の中で、一真は右手に杖が戻っている事に気付いた。
「転移の杖っ」
九嬢の声がして、一真は次の瞬間には、外の世界へ戻っていた。
結界も消えていた。
伊敷達は、それぞれ無様な格好で、辺りに転がっていた。
茗梨が、杖を手にそこに立っていた。
虎丈は、気絶したまま塀に寄り掛かっていて、雅が、それを介抱している。
そして、その塀の上から、太郎丸が一同を眺めていた。
――よく分からないけど、終わった……のか。
一真が安堵の溜息を落とした所に、それはやって来た。
『こんな所にいたんですか。探しましたよ』
後ろで声がして一真が降り向くと、新たなる災厄――白衣姿の男が薄笑いを浮かべて、そこに立っていた。




