第7話 邪気ほど甘美なものはない
朝の通勤通学の人々で込み合っている桜木町の駅の改札を、白衣姿の男が通り過ぎた。
その、一見して怪しい出で立ちに、人々は例外なく肩越しに振り返って視線を向けたが、男は急いでいる風に雑踏の中に消えていった。
「ねえ、今の見た?」
やはり足を止め、振り向いた女子高生が、隣にいた友達を肘でつついた。
「あの人、黒猫連れてたわよ……やぁねぇ、春は、あぶないのが多くて……」
「え?犬だったでしょ、あれ……」
「え〜あたし、あの丸いの、狸かと思った」
三人は、互いに顔を見合わせた。
その男――Dr.真柴の連れていたのは、邪獣であった。
足元の獣がふと足を止め、丸くうずくまったのに気付き、Dr.真柴は足を止めた。
『何だ、もう食べ終わってしまったのか』
闇邪の声が言う。
『猫ごときでは、大して持ちはせぬか』
呟きながら、辺りを見回す。
『やはり、人がいいな。それも、邪気が強ければ強いほどいい』
近くに邪気を感じて通りの向こう側を見れば、学生服の若者が歩いているのが目に止まった。
『ほほう。あれはいい。邪気に溢れているぞ。どうだ?』
Dr.真柴がほくそ笑み、獣に言う。
獣が、のっそりと起き上がり、獲物を目掛けて駆けて行った。
邪獣は若者が裏道に入った所で追い付いたらしく、その裏道から、短い悲鳴が聞こえた。
『これで、間違いなく聖獣の所まで案内してもらえるな』
Dr.真柴は、満足そうに笑った。
黒い獣に襲われたその若者――伊敷マサトは、裏道で無様に倒れていた自分に気付いて、舌打ちをした。
何かが頭に当たった様な気がしたが、そこには何の痕跡もない。不可解な出来事に伊敷は腹を立て、そばにあったごみ箱を蹴飛ばした。と――
そのごみ箱は思いかげない高さに跳ね上がり、中のごみを路上に雨の様に散らした。
「……?」
伊敷が首を傾げる。
何だろう、これは……?
拳を握り、コンクリートの壁を力任せに打った。壁にひびが入り、離した拳の先で壁が丸く崩れ落ちた。
「力が……」
力が強くなっている。
それも、半端じゃない程に。
「ふふ。こいつは……おいしい。おいしすぎるぜっ。ふははははっ」
伊敷は狂喜して走り出した。
この力があれば、あの生意気な一真をぶち倒せる。頭の中でその光景を妄想しながら、伊敷は邪悪な笑みを浮かべた。
佐伯虎丈。
心優しく温和な彼は、少し臆病な事だけが欠点である。その些細な欠点の為に、どうやら不運が好んで彼の方へ寄ってくるのだ。
強くなりたい――
一真と出会って感化された虎丈は、近頃前向きにそう願いながら生きている。強い、と言っても、そんな大袈裟なものではなく、ごく、ささやかなもの。一真に見捨てられない位の強さ。それだけでいいのだ。
そう願う事で、なんとなく勇気が沸いてくる。強くなれる様な気がし始めていた。暗かった人生に、少し明るさが出てきた様な気がし始めていた。
その朝も、虎丈は、なんとなく良い気分で、学校までの道程を歩いていたのである。
しかし不運の方では、まだ彼を取り込むのに積極的だった。虎丈と同じその道に伊敷という災厄を登場させ、冷ややかな目でその成り行きを見守っていた。
伊敷は前を歩いていた巨体に目を止めると、いやらしい笑いを漏らした。
途中で落ち合って、一緒に歩いていたいつものメンバーが、それに気付いて、互いに視線を交す。中の一人が言った。
「やりますか?」
伊敷が目で頷く。取り巻き連中は、昨日、一真と謎の女にやられた憂さもあり、嬉々として虎丈を取り囲んだ。
しかし、世の中捨てる神あれば拾う神あり。虎丈の前向きの意識改革を評価してくれたのか、そこに救いの神が現われた。
「てめえらっ、朝っぱらから、うざったい事やってんじゃねぇよっ」
勢いよく啖呵を切ったのは、久我隆也である。だが、鋭い視線の十字砲火を浴びて、慌てて視線を隣に立っている雅の方へ反らして、
「なあ?」
と、同意を求める。
「さあ……」
雅はと言えば、そらっとぼけた風にその視線をかわす。
「やかましいわ」
伊敷が怒鳴り返す。
「口は、わざわざなぐられるの元って言葉を……」
「口は災いの元」
雅が、そっぽを向いたまま口を挟む。それが、かえって伊敷を逆上させた。
「じゃかぁしい」
「おやっ……?火に油になってしまいましたか」
雅がにこやかに言う。
「てめえ……馬鹿にしてんのかっ」
その場違いな微笑みに、伊敷は更に怒りを募らせた様だ。
そんな伊敷の様子を察して、虎丈を取り囲んでいた者達が、今度は雅と隆也を取り囲む。
「もしも〜し……雅さん、雅さん」
隆也が焦った様に雅を呼ぶ。
「私は僧籍に身を置く者、そして平和を愛す者……」
「雅、まさかとは思っていたが……お前、本当に……坊主……」
「故あって、今は俗世に身を置いていますが。仏経界の救世主とは、何を隠そうこの私」
雅の口上に、一同あっけに取られ、言葉を失っている。
「御仏と共に歩む人生、暴力沙汰などもっての他です。が、世の中には、それはそれ、これはこれ、という先人の教えもある事ですし、ふりかかる火の粉を払うのは、やぶさかではありません。という訳で、合掌」
両手を合わせて丁寧なお辞儀をした雅に、一人がおずおずと尋ねる。
「つまり、やる気は、あるってことか……?」
雅がにっこりと頷き、
「……そういう事になりますね」
と答えた時には、質問した者はもう殴り倒されていた。
「お前……こういうの、ふりかかる火の粉っていうのか?」
隆也が呆れたような顔をする。
「どうも、殺気に体が勝手に反応してしまう様で、困りましたね。修行が足りない様です」
ふふふと、雅が笑った。
「野郎、ふざけやがってっ」
仲間が殴り倒されたのを見て、残りの者達が元の調子を取り戻し、一斉に雅と隆也に殴りかかる。
「ひょえっ」
変な悲鳴を上げ、それを器用に避ける隆也。喧嘩は弱いが、逃げることにかけては一品の様である。
隆也が鞄を振り回しながら、飛んでくる拳を避けまくっている間に、雅は相手を確実に、一人ずつ倒していく。決着は、数分で、あっけなくついた。
成り行きを見物していた伊敷が、雅の前に立った。その目付きの異様さに気づいて、雅は眉をひそめた。
伊敷のパンチが飛ぶ。
それを紙一重で避ける雅――
だが、その風圧が雅の頬に一筋の傷を付けた。
――こいつ、速いな……
勢い余ってブロック塀に激突した伊敷が、派手な音を立てて、あろうことかそれを砕いた。
「おい、雅」
隆也がその異様な破壊力に、顔をひきつらせて後ずさった。
「隆也、虎丈を連れて逃げろ」
雅の言葉に隆也が頷いて、そこに座り込んでいた虎丈に駆け寄った。
「だめだ、こいつ、気絶してやがる」
「仕方ないな……一真、呼んできてくれ。この時間なら、その辺にいる筈だ」
「わかった」
隆也が慌てふためいて走っていった。
「伊敷、お前……」
雅が、崩れたブロックの中から身を起こした伊敷の異変に気付いて絶句した。
その体は、醜く歪み、溶け落ちていく。
体の中から触手が四方に伸び、それが、何かを探す様に無気味に蠢く。触手は、そばに倒れている者を探り当てると、しゅるんと巻き付く。すると、触手が触れた場所から体が溶けていく。そしてまた、溶けた落ちた伊敷の体の中から、何かが現われようとしていた。
四肢が伸び、そこに邪気を帯びた獣の顔が形作られる。雅は虎丈に駆け寄ると、これを庇う様に立った。
その獣――邪獣の触手が触れた者からも、半ば溶けた体を食い破る様に別の化け物が姿を現わした。
こちらは蜘蛛を思わせる様な、足の長い甲虫である。溶けた体の体液に、ぬめぬめとしたツヤを見せながら、獲物の存在を心得ているかのように、ゆっくりと雅の方へと歩き出した。
その数が、一匹、二匹と増えていく。雅は、生まれて初めて、身の毛がよだつ思いというものを感じた。




