620 消されたプリンセス
山越え作戦は無理と判明したところで、ではどこから攻めるべきかと半ズボン伯爵に尋ねられたものの、西方の地理に詳しくない僕では答えようがない。【暁の女神】様陣営は少数の部隊でも防衛しやすい場所に陣を構え、できるだけ損害を抑えつつこちらを足止めしようとしている。つまり、開けた場所で大軍同士が真正面からぶつかり合うような決戦はしたくないのだろうとだけ告げておく。
「君のような知恵者は相談役として雇いたいのだが……」
「そのようなことをさせぬために、女神様は私を遣わされたのです」
「残念だが、先に女神様が目をつけられたのでは諦めるほかないな」
僕を雇用できないかと半ズボン伯爵が口にしたものの、未だ興奮冷めやらぬオクタヴィアさんがガルルル……と威嚇音を鳴らす。ポチャスキン総司令から情報を得ているだけあって、無理ということは予想できていたようだ。女神様に先を越されてしまったのでは仕方がないと半ズボンをすくめてみせた。
「確認しておきたいのだが、西方における君の目的を聞いても差し支えないかね?」
「【暁の女神】様の神殿まで迎えに行かなくちゃならない奴がいるんです」
足止めするなという女神様の指示は承ったものの、何をやらかすつもりなのかは把握しておきたいと半ズボン様に問い質された。隠し事はバレた時が面倒だから目的地を明かす。僕の主目的はタルトを迎えに行くことなので嘘は言ってない。世界のあり方とか選択権なんて話はあくまでもついでの用件だ。
「それならなぜ、敵の増援を阻止してまでこちら側に来たのかね?」
「目下のところ、【暁の女神】様は僕を疎ましく思っているはずです。手配書が回されていてもおかしくないので忍び込むしかありません」
僕の向かう先を知った半ズボン伯爵が、エウフォリア教国の援軍と一緒に敵陣営へ向かう方が理にかなっていたのではと目を細める。それは破棄せざるを得なかったプランだ。すべてが思惑どおりに進んでいる今、【暁の女神】様はなんとしても僕をタルトのもとへたどり着かせたくないはず。あなた方が不甲斐ないからですという言葉を呑み込んで、援軍と一緒にノコノコ向かったらとっ捕まってもおかしくないのだと説明しておく。
「ふむ、【暁の女神】様にとっておもしろいことではなく、【知の女神】様にとっては好都合。だから、オクタヴィア様を遣わしたわけか……筋は通っているな」
いつ、どこから忍び込んでくるかわからないからこそ警戒を緩めるわけにはいかない。相談役として帝都に縛り付けてくれたなら、それこそ【暁の女神】様は安心できる。なるほど、大切な巫女を派遣する理由としては充分だと伯爵様が半ズボンを揺らす。身長差の関係で嫌でも視界に入ってくるのだから、できれば離れていていただきたい。
「では、オクタヴィア様も【暁の女神】様の神殿まで同行するおつもりですか?」
「もちろんです。それが女神様のご指示ですから」
僕の行き先が判明したところで、最後まで同行するつもりなのかと半ズボン伯爵がオクタヴィアさんを問い質す。それが自分に与えられた使命だとダメ巫女様は意気込んでいるけれど、それはちょっと違う気がする。
「【知の女神】様の指示は僕を足止めさせないことでしょう。連合軍の勢力範囲内にいる間だけで充分ですよ。僕も足手まといを連れていく余裕はありません」
【暁の女神】様陣営の勢力圏は早い話が敵地だ。そんな危険な場所まで連れていくつもりはない。【知の女神】様の権威が通用しなくなったらダメ巫女様は用済みなので、連合軍の勢力圏を離れる時にお別れしようと考えていた。そこから先は足手まといでしかないので置いていくとキッパリ言い渡す。
「あ、足手まといですか……」
「エリザベスではバナナンテについてこれないと、はっきりしましたからね。僕の防御手段はトンズラですから足を緩める要因はない方がいいんです」
ヨセアゲ峠でオクタベスペアの実力は見せてもらった。道の上ではそこそこ手強いものの、スプリンターに崖下りは無理だろう。いざって時に崖を駆け下りて逃げられないのは厳しい。一度競争して負けているせいか、足手まといだという僕の言い分にオクタヴィアさんは反論できず押し黙った。
「彼の申すとおりだと思います。オクタヴィア様の役目は軍のもとにいる間だけでしょう」
僕を手元に置いて活用したいと考えるのは自分だけでないはず。そういった連中に邪魔立てさせるなというのが女神様の指示なら敵地にまで潜入する必要はない。万が一にも僕の足を引っ張ることになれば、それこそ女神様の意に沿わぬ結果になりかねないと、今が好機と言わんばかりに半ズボン伯爵が畳みかける。どうやら、ダメ巫女様の身を案じているようだ。伯爵様なのにまるでオクタヴィアさんの方が目上であるかのように様付けで呼んでいるし、もしかしたらめっちゃ有力な貴族のご令嬢なのかもしれない。
「オクタヴィアさんって相当な家柄の出身なんですか?」
「女神様のしもべに世俗の身分などございません」
実はスーパーお嬢様なのかと尋ねてみたものの、【知の女神】様の下僕であることがすべてだという答えが返ってきた。なんだかごまかされているような気がする。
「彼には伝えていないのですね?」
「私は巫女のオクタヴィアです。他に伝えるべき何があるとおっしゃるのですか?」
教えていないのかという半ズボン伯爵の問いかけに対しても、オクタヴィアさんは伝えることなどないと鼻息を荒くするばかりだ。もしかして、実家と仲が悪いとか、神殿に厄介払いされたといった触れてはいけない過去があるのだろうか。
「実のところ、オクタヴィア様は神聖マリジル帝国現皇帝ザーシー陛下のご息女でね。別に機密でも秘密でもないのだが、認識している者は限られているのだ」
――皇女様キタコレ……
公爵令嬢どころではなかった。正真正銘のプリンセス様である。とりあえず、心を落ち着かせるためにロリオカンとプッピーを思い出す。あのふたりの同類と思うだけで、みるみるうちにプリンセスという呼称からありがたみが抜けていくから不思議だ。
「帝室の籍は抹消されています。陛下に娘などいません」
「帝室録は継承順位を明確にするためのもので、除籍されたからといって親子の絆まで断つ必要はないのですよ」
女神様の巫女となった時に帝室から除籍されたはずだと言い張るオクタヴィアさんに、継承順位を管理するための名簿から抹消しただけで血縁関係がなくなったわけではないと半ズボン伯爵が言い含める。帝国では伝統的に皇帝の一族に生まれた男子が政治を、女子が祭祀を取り仕切ってきたらしい。そのため、皇女様というのは跡継ぎとなる男子がいない間だけ一時的に置かれる位だそうな。オクタヴィアさんにはお兄さんが3人もいたので誕生時点から巫女となることが決定していた。皇女様としてお披露目されることなく神殿へ入ったため、上流階級の中にも彼女の存在を知らないものは多いという。
「籍こそ残っていませんが、帝室録からオクタヴィア様を抹消したと改訂記録にはしっかり記されているのです。陛下にご息女がいなかったことにはなりませんぞ」
もっとも、オクタヴィアさんが皇帝の娘であることを知らないのは、今現在の帝室名簿だけを見てすべてを知ったと勘違いしちゃう無能の証だそうな。本当に仕事のできる人たちはちゃんと改訂記録まで目を通しているから、高い役職に就いている貴族ほど皇帝陛下のご息女という認識を持っているのだと半ズボン様は語る。なるほど、【暁の女神】様の神殿まで同行させるわけにいかないのも納得だ。
「女神様の巫女に俗世の縁など無用のもの。女神様が求めるなら命だって差し出すのがしもべたる者の務めです」
「神様はそんなもの求めないから、代わりにバナナでも差し出しておけばいいよ」
すっかり下僕根性が染みついている先輩下僕のダメ巫女様が、女神様の下僕であることは他のあらゆる関係に優先するというタルト理論を高らかに唱える。覚悟が決まっているのは悪いことじゃないけど、神様が欲しがっているのは信仰であって生贄ではない。バナナをお供えする方がよっぽど喜んでいただけるぞとツッコミを入れたところ、オクタヴィアさんはめっちゃ不機嫌そうに顔をしかめさせた。
「彼の申すとおりです。そもそも、女神様は犠牲なんて求めないとおっしゃったのはオクタヴィア様ではございませんか」
半ズボン伯爵は漢だった。ブッスーとふて腐れたような表情を浮かべているプリンセス様が相手でも、怯むことなく真正面から言葉のブーメランを叩きつける。先ほど口にしたばかりの台詞をそのまま返されたオクタヴィアさんは、さらに表情をしかめさせて般若の如き形相を浮かべた。なんかもう、背後にメラメラと燃え盛る火焔が見えそうだ。
「まぁ、ついてこようとしても置いてきぼりにしますんで安心していいですよ。僕に追いつけないことはもうわかってますから」
「本当かね? オクタヴィア様とエリザベスは競技会で優勝した経験もあるのだよ」
「ヨセアゲ峠ですでに決着はついてます」
「うごごご……」
大切なプリンセス様が敵地へ乗り込むのをどうにか思いとどまらせようと奮闘している半ズボン伯爵に、連合軍の勢力範囲から離れる時は僕の方で逃亡するから心配いらないと告げる。どうやらオクタベスペアの実績を存じ上げているようで、簡単に逃げ切れる相手ではないぞと懐疑的な視線を向けてきた。帝都までの道中でひと勝負して決着はついているのだと安心させておく。オクタヴィアさんが悔しそうに歯をギリギリ鳴らすものの、悲しいかな敗北者に発言権はない。それが勝負の世界の掟である。
「手数をかけるが、ぜひそうしてもらいたい。礼というわけではないが、君たちには情報を包み隠さず伝えるよう命じる指令書を渡しておこう」
ダメ巫女様の身に万が一のことがあったら皇帝陛下に顔向けできないから、もう途方に暮れて諦めるしかないってくらいきっちり置き去りにしてくれと半ズボン伯爵からお願いされる。代わりに、司令本部からの指令書を持たせてくれるという。それを見たすべての連合軍士官、兵士に対し、僕たちに協力する必要はないけど求められた情報は提供せよと命じる内容だそうな。とってもありがたい。
僕たちがグリピィナ夫人の屋敷で世話になっていると伝えたところ、明日にでも指令書を発行して届けさせると約束してくれた。
戦略研究会を催している半ズボン様に暇を告げてグリピィナ夫人の屋敷へ戻れば、お友だちと思われるご婦人方数名と一緒に夫人がショコラータ串鍋とロリヴァを楽しんでいた。ヘチマ棚の作るご機嫌な日陰には、なんかぶっとい尻尾を持ったタヌキみたいな生き物が寝っ転がっている。もしかして、この世界のパンダだろうか。バナナンテが近づくと後脚で立ち上がり、顔の左右に前脚を振り上げて威嚇してきた。とっても可愛らしい。
鞍や轡を外してバナナンテを座らせ、懸命に威嚇してくるパンダを抱き上げてお友だちだよ~とバナナンテの背中に乗っけてやる。羽毛の感触が気に入ったのかゆるキャラのようにゴロゴロし始めたパンダをヨチヨチあやしていると、なんかすっとんできたご婦人のひとりにとっ捕まった。
「あなたねっ。東方から来たお菓子職人っていうのはっ。培養素ってなんなのっ?」
どうやら、グリピィナ夫人から培養素について教えられたらしい。ご婦人方がお茶しているところへ僕を担ぎ込むと、知っていることは洗いざらい吐けとガクガク身体を揺すぶってくる。
「早い話が煮凝りです。不純物をきれいに取り除くと素材の風味が失われて、味気ないプルプルした成分になるんですよ。原料は動物の皮を煮た膠です」
「煮凝りっ? 煮凝りがデザートにっ?」
培養素の正体を説明したところ、これが煮凝りだなんてそんなバナナとご婦人のひとりが食べかけのロリヴァを指差した。一般的な煮凝りは肉や魚を煮たスープが冷えて固まったものだから、基本的にどれも出汁がきいてしょっぱい味付けがされている。プルプルに固まる成分だけを利用したというのが信じられないのだろう。
「どっ、どうすれば膠からいらない成分を取り除けますのっ?」
「それは僕も知りません。培養素の精製を理解するには魔法薬調合に関する専門知識が必要なのですが、僕は専攻が違いましたので……」
ロリヴァに使った培養素は知り合いに原料を渡して精製してもらったもので、やり方をわかっているのはアーカン王国にも4人しかいない。僕は魔術語と術式研究が専門だから精製法に関してはさっぱりだと告げたところ、女神様は帝国を見放したとご婦人方は大袈裟に嘆き始めた。もう二度と味わえないなら、いっそのこと知らない方が幸せでいられたとテーブルをペシペシ叩いて悔しがる。
「今、精製装置を設計しているところですので、数年のうちに工房が稼働を始めると思いますけど……」
「それは本当でございますのっ?」
たかがお菓子で大袈裟なと思うものの、昨日のタイミングでタルトが培養素をよこしたことにロリヴァを西方でも広めよという意図を感じる。チャンスはこれまでだってあったはずなのに、あえて帝都という場所を選んだように思えるのだ。察しが悪いと3歳児からお叱りを受けるのは我慢ならないので、今はまだ実験室で精製している段階だけど大量生産するための装置を開発中だと伝えておく。秋の終わりには設計が完了して、来年には実証プラントの製作が始まるだろうと予想を口にしたところ、ご婦人方は東方諸国との技術交流を推進するべきだと真剣に語り出した。
「また食べられるの?」
「いずれ外国から届くようになるから、その時のためにどんなロリヴァにするか考えておくといいよ。培養素そのものに味はないから、どんな味付けだって工夫次第なんだ」
「本当? お兄ちゃん、だ~い好き」
ロリヴァは今しか食べられないとネルちゃんも薄々感じていたようだ。また作ってもらえるのかと尋ねられたので、外国から買えるようになった時に備えてレシピを考えておくよう伝える。培養素はかさ張らず軽いうえ、湿気を吸わないよう気をつければ長期間の保存も可能だから、交易品としては扱いやすい部類だと思う。自分の好物をロリヴァにできると知ったネルちゃんは大喜びして抱き着いてきた。笑顔が可愛らしい。
「ネル。彼のことをお兄ちゃんなどと呼んではいけません」
僕は今も昔もお兄ちゃんなので、ちっちゃい子が無邪気に喜んでくれるのはそれだけで嬉しい。ヨチヨチとほっぺをナデナデしていたところ、そのような呼び方をしてはいけないとグリピィナ夫人からお小言が飛んできた。全然かまわないと思うのだけど、この国では失礼な呼びかけにあたるのだろうか。
「これからはダーリンと呼びなさい。いいですね」
「5歳児になにを吹き込んでるんですか……」