609 西方の海域
僕たちを乗せイクスブリッジを出港した船団は、25日におよぶ航海の末に西方諸国のある海域へと到達した。もっとも、星を使った測量の結果なので周りを見渡しても陸地はどこにもない。アウドミラル提督の話によれば、もっと北に進路をとれば陸地が見えるはずなのだけど、沿岸を警備している【暁の女神】様陣営の船団と鉢合わせしないよう迂回する進路を取っているそうだ。エウフォリア教国の西側に広がる砂漠を超えたあたりは【暁の女神】様教団の勢力園となっており、【知の女神】様の神殿はさらに西へ向かったところにあるという。
「【知の女神】様の軍勢は海から攻めないんでしょうか?」
「難しいだろうな。そのためにはエーオス海という内海へ入り込まなければならないのだが、南の大洋とは狭い海峡でしかつながっていないのだ。潮の流れが複雑で激しく、私も話に聞いただけだが大渦巻なども発生するらしい」
【知の女神】様の軍勢が近くの港を制圧してくれているのではと希望的観測を述べてみたものの、その可能性は絶望的だとアウドミラル提督にあっさり否定されてしまう。港のあるエーオス海へ通じる海峡は潮の流れを読める慣れた船乗りでなければ通過することすら難しいそうだ。もちろん左右の陸地には砲台が設置されていて、海峡を抜けた先では敵船団が待ち構えている。今の状況なら魔導騎士が配備されていても不思議でなく、そんな場所を力押ししたところで損害を増やすだけだと提督は鼻を鳴らした。
「我々が目指すのはゼック海にあるコーンクワッツの港だ」
【暁の女神】様を信仰する者たちの勢力圏を通り越した先に、【知の女神】様の神殿を参拝する人たちが集まる港町があるそうだ。そこから北へ延びる街道を進めば神殿のある山のふもとにたどり着くという。僕にはハズレジジイという情報源があるので【知の女神】様にお目通りする必要はない。あまり【暁の女神】様の神殿から離れてほしくないのだけど、戦線がどのあたりに形成されているのかも定かでない以上、確実に安全と思われる港を目指すのも仕方のないことだ。ここはプロの判断を尊重しておく。
「右舷前方にペンギンの群れっ。近づいてきますっ」
「迎撃準備っ。船に飛び込ませるなっ。叩き落せっ!」
もういい加減、変化のない水平線には飽きたと空を見上げていたところ、見張りの水兵さんがペンギン発見と報せてきた。すかさず船長さんが迎撃態勢を取れと怒鳴り声を上げる。このペンギンは正式名称をトビハネペンギンと言い、イルカみたいに水面からピョンピョン跳ね上がってかわいらしいのだけど、甲板上に落っこちると胃袋の中身を吐き出すという習性をもっていた。危険な魔物ではないもののゲェゲェやって甲板を汚すので、水兵さんたちからはゲロハキペンギンと呼ばれ忌み嫌われている。
困ったことに、こいつらからは大型の回遊魚やイルカの群れより弱い魔力しか感じられないので、ロゥリングレーダーを駆使してあらかじめ避けるのも難しい。魚の群れを全部避けていたら船はまともに進めなくなってしまうからだ。そのため、出遭ってしまったら跳ねてくる奴を引っ叩いて海に落とすしかない厄介者だった。板や棒を手にした水兵さんたちがズラリと船べりに並ぶ。
「えい、えいっ。こないでくださいっ」
水兵さんたちに混じってモーマンタインさんが樽の蓋を手にペンギンを迎撃していた。どういうバランス感覚をしているのか、あのウシ獣人は船が揺れてもまったくよろめいたりしないのだ。その足取りはまるで平地を行くがごとし。慣れているはずの水兵さんよりもよっぽど安定している。もしかしたら、ヌルヌルの泥んこ足場でも槍が使えたという古の技を本当に体得しているのかもしれない。
「せめて、食用になれば活用方法もあったんだが……」
「美味しくないヤツは始末に負えませんね」
勢いよく跳ね上がっては板や棒でガードされ海へ落っこちていくペンギンたちを眺めながら、あいつらは鳥のくせに美味しくないとアウドミラル提督が顔をしかめさせる。長い航海の途中で新鮮な食材が手に入るのは助かるといろんな調理法を試してみたものの、臭みが強くてとても食べられたものではなかったという。美味しくないから好んで食べる天敵もいないのか、ペンギンどもはすっかり警戒心を退化させた模様。人族の船だろうがおかまいなしに跳び上がってきやがる。しばらく激しい攻防が続いたのち、水兵さんたちの防衛ラインをくぐり抜けた一羽が僕たちの前へ転がってきた。
「オ゛エ゛ェェェ……」
「……僕は君たちの雛じゃないんだよ」
ゲロゲロと胃袋の中身を吐き出すペンギン。迷惑極まりないものの、これはまだ自力で餌を獲れない雛鳥に食べ物を与えるための行動らしい。問題はこいつらが警戒心と一緒に知能まで退化させてしまったことにある。頭が悪すぎて雛鳥のいる営巣地と船の区別がつかず、陸地に着いたらところ構わずゲェゲェしやがるのだ。見た目は愛らしいのだから、もうちょっとどうにかならなかったのかとハズレジジイを締め上げてやりたい。
食べ物はお腹を空かせている雛鳥にあげなさいと、3歳児より少し小柄なペンギンを抱き上げる。船べりにある転落を防ぐ柵の上に立たせお尻にパンチを叩き込んでやれば、迷惑なゲロ吐き鳥は勢いよく跳ねて海へ飛び込んでいった。ふと、田西宿実の妹とペンギンショーを観にいく約束をしていたことを思い出す。今となっては永遠に果たされることのなくなった約束だ。これがペンギンの実態だと知ったら妹はどう感じるだろう。こんなのペンギンじゃないと足をドスドス踏み鳴らす様子が浮かび上がってきたものの、その姿と声はどうしてかマルテンスだった。
――もう、ふとした拍子に記憶の底から浮かんでくることもなくなったか……
かつての家族を思い出せなくなってしまったことは寂しいものの、大切にしなければならないのは思い出の家族でなく同じ時を生きる現在の家族だ。記憶していた姿が今いる妹たちに置き換わっていくのは、きっと正しいことなのだろう。いつか、田西宿実という人物が存在していたことさえおぼろげになっていくのかもしれない。それは少し怖いけど、そうあって然るべきと言われてしまえばそれまでだ。そのために、神様がわざわざイグドラシルという人生リセット装置を用意してくれているのだから……
「くそっ。ペンギンどもめ。ちゃんと片付けていけってんだっ」
昔のことを思い出している間に、水兵さんたちの迎撃をくぐり抜けたペンギンは甲板上に胃袋の中身を投下して南へと泳ぎ去っていった。凄惨な爆撃跡を見た水兵さんが海に向かってバカヤローと叫んでいる。もちろんペンギンが船を襲うはずもなく、これはたまたま進路が交差してしまった結果にすぎない。おそらく今は子育ての季節で、泳ぎ去っていった方向には営巣地の岩礁地帯か無人島でもあるのだろう。
「頭の空っぽな鳥に恨み言をこぼしている暇があったらさっさと片付けろっ」
あんな鳥に文句を言ったって始まらんと船長さんが後始末を命じ、水兵さんたちがため息を吐きながら甲板の清掃に取りかかる。ヤレヤレ困ったもんだとアウドミラル提督が苦笑いを浮かべ、また侵入を許してしまったとモーマンタインさんが肩を落として戻ってきた。この迂闊なウシ獣人はその昔、かわいい鳥さんだとペンギンを抱き上げてゲロまみれにされた経験があるそうな。それ以来、全力で迎撃することに決めたらしい。
「ンモーッ。なんなんですか、あの鳥はっ」
「雛鳥に餌を与えるための習性なんだから仕方ないよ」
嘔吐物を吐き散らして去っていくなんて、嫌がらせにしても悪質過ぎやしないかとプンスカ怒るモーマンタインさん。ペンギンたちは雛鳥に食べ物を届けているつもりなのだと説明したものの、船は巣じゃないってことくらい察しろと悔しがる。
「もおぉぉぉう。ペンギンのせいでお腹が空きましたっ」
「ふむ、少し早いが食事の支度に取りかかってもよいのではないかね?」
余計な労働で消費させられた分の栄養を補充させろと、食いしん坊のウシ獣人は食事を要求してきやがった。そろそろ頃合いではないかとアウドミラル提督までチラチラ僕の方へ視線を送ってくる。このふたりが僕に食事を求める理由はひとつ。調理に使えるほど魔力に余裕のある乗員が僕しかいないからだ。
グレートデキン号はもちろん厨房を備えているのだけど、この世界の船は基本的に木造船で、特に強度が求められる部分にだけ補強材として鋼が用いられている。要するに、可燃物の塊であるわけだ。そのため、火は極めて慎重に扱わなければならない。熾火となった炭はそう簡単に自然鎮火しないので、船が揺れた拍子に床へぶちまけたりしたら目も当てられない惨事に発展してしまう。だけど、魔力の供給をカットすれば消える魔術の炎であればそんな心配も不要。そして、船団指令部が乗船するこの船には当然のごとく魔術を用いるコンロやオーブンが搭載されていた。
「なんで設備はあるのに使える乗組員がいないんです?」
「司令部がティーブレイクを挟んだり、作戦会議の間に冷めてしまった食事を温めなおすためのものでね。それだけで米を炊くことなんて想定してないんだ」
魔導コンロやオーブンを備えておきながら、魔力のある水兵さんがいないのはどういうことだとアウドミラル提督を問い質してやったものの、材料の段階から料理に使うことは想定外だったらしい。それなりに魔力のある乗組員も確保しているけど、肝心な時に魔導推進器が動かせないようでは困るので、調理で魔力を使い果たさせるわけにもいかないそうだ。提督自身から感じられる魔力はアンドレーア級だから、お米を炊くことができないってことはないと思う。ただ、いざって時のために船を動かす魔力は残しておくのが忍者……じゃなくて、責任者の務めと言い張られては反論できない。
「仕方ないですね。モーマンタインさん、土鍋の準備を……」
「やった~♪」
ヤレヤレと諦めてウシ獣人に手伝うよう言いつける。土鍋ご飯だと喜んだモーマンタインさんは僕を抱き上げると、揺れる船上だというのにスキップで厨房へ向かった。よろける様子はこれっぽっちも感じられない。思ったとおり、足元が不安定な状況での戦闘術を身につけているようだ。
イクスブリッジの港を出てからどこにも寄港していないので、さすがに新鮮な食材はもう残っていない。長期保存しやすい穀類の他は塩漬けしてからカチカチになるまで干した肉といった保存食ばっかりだけど、海上でも入手可能な食材はある。少しでも食糧事情を改善しようと、釣り好きな水兵さんたちが獲れた魚を干物にしているのだ。ロゥリングレーダーで探知した魚群の位置を教えたところ、僕も分け前にあずかることができた。本日のメニューは土鍋で炊いたご飯にアジの干物でいいだろう。
「はうぅぅぅ……もうダメ。美味しそうな匂いが……」
土鍋をコンロにセットして、船が揺れても落っこちないよう固定装置で止める。ご飯を炊くのと同時にでっかいアジの開きをオーブンで焼いていたら、早くもモーマンタインさんがまだか、まだかとソワソワし始めた。挙動がどっかの3歳児にそっくりだ。ご飯が炊きあがったら土鍋をコンロから下ろして蒸らし、その間にオーブンで焼いた開きを軽く炙って焦げ目と香りをつければアジ開き定食の完成だ。そろそろ出来上がるというころにアウドミラル提督が金属製のお皿を3人分並べてくれた。
「野営や船旅でも毎日炊き立てのご飯が食べられるなんて……モーしあわせ……」
「確かに贅沢が過ぎるな。航海中の食事に不満を覚えるようになられては困るので、水兵たちには教えられん」
「いえ、めっちゃジロジロ見られてますけど……」
コックさんの他にかまどから目を離さず炭の番をする見張り要員も確保しなければならないので、調理のために火をおこすのは波も穏やかで風が安定して吹いている時だけ。水兵さんたちがカチカチのビスケットをお酒に浸して食べている日でも、魔力の湧いてくる壺が一緒なら炊き立てご飯が食べられるとけしからんウシ獣人は他人を便利アイテム扱いしやがった。これに慣れてしまったら、僕がいなくなった途端に船が動かせなくなってしまうとウムウム頷いているのはアウドミラル提督だ。なお、ご飯と干物を焼く匂いを盛大に撒き散らしたため、部屋の外には水兵さんたちが集まってこっそり様子をうかがっている。
「厳しい航海も乗り切れるよう、船乗りは粗食に耐えられねばならん。贅沢は敵だっ!」
ご馳走の匂いに引き寄せられてんぞとわずかに開いた扉を指差したところ、アウドミラル提督はヒゲをビンビン怒らせ口にしていたご飯を噴き出しながら一喝した。まったくと言ってよいほど説得力が感じられない。もうギャグでやっているようにしか思えなかったものの、あまりの迫力にビビったのか水兵さんたちはクモの子を散らすように逃げていく。屈強なはずの海軍兵があんなチキンで大丈夫なのだろうか。僕は訝しんだ。
「ご飯をひとり占めして、反乱とか起こされたりしませんか?」
「目的の港に着いたら君たちは下船する。一時のことだと彼らもわかっているさ」
海賊に遭ったら逃げ出すのではないかと僕が不安を感じる一方、モーマンタインさんは食べ物の恨みが爆発することを心配しているようだ。美味しいものをひとり占めする輩はロクな死に方をしないぞと、食いしん坊にしか理解できない謎理論を展開している。反乱を企てるかもしれないと告げられたアウドミラル提督は、たとえ首尾よく成功したとしても次の港で僕たちがいなくなることは変わらない。結局、骨折り損にしかならないという結末が予想できないほど部下たちは無能じゃないと肩をすくめてみせた。
「あと5日か6日もすればコーンクワッツの港に到着するだろう。この状況を楽しめるのも今だけだ。それまでの間は特権というヤツを堪能させてもらおうぢゃないか」




