5 その名はタルト
「なっ――!」
バラバラになった茨を驚愕の表情で眺めていた【真紅の茨】だが、3歳児に向き直ると忌々しげに口を開いた。
「このような横槍をされるなど、【忍び寄るいたずら】様といえど、少々ご無体が過ぎるのではありませんか?」
……不機嫌な態度を隠さないにもかかわらず言葉遣いは丁寧で3歳児の事を様付けで呼んでいる。3歳児ってもしかしてかなり偉い精霊なの? 僕、大丈夫かな?
魔力を吸われ過ぎて干物にされた自分の姿が脳裏に浮かぶ。
「お前には申し訳ないのですけれど、お前が呼び出される前からわたくしとこの者との間で契約が保留となっていたのです。この者はわたくしと契約することを選んだようですので、ここはわたくしが優先権を主張するのですよ」
身長も身幅も自分の倍以上はある相手に睨まれても、3歳児は動じた素振りさえ見せずに「自分の方が先だもんね」と主張する。あれだけ頑丈なのだから、めったなことでは傷付けられないという自信があるのだろうけど、僕がか弱いゴブリンだってことを忘れないで欲しい。あのゲイ霊がその気になったら僕の小さな体なんて簡単に貫かれてしまいそうだ。
お願いだから、あんまり相手を刺激しないで……
「【忍び寄るいたずら】様にそのようにおっしゃられては致し方ありません。ですが……」
……ひぃっ! 【真紅の茨】がギロリと猛禽類が獲物を狙うような視線を僕に向けてくる。あの目はまだ僕の『初めて』を諦めていない目だ。僕の体を嘗め回す殺気(?)のようなものを感じて全身に鳥肌がたった。太ももをきつく閉じて、思わず失禁しそうになるのをグッと堪える。
「お前の言いたいことはわかっているのです。この者の呼びかけに応じたお前には、わたくしに次ぐ二番目の優先権を認めてあげるのですよ」
ゲイ霊と3歳児はなにやら僕の身柄に関する取り決めを、まるで僕がここにいないかのように勝手に進めてゆく。
「ならば抵当権の設定を……」
「契約が成立していたわけではないのですから、優先的契約交渉権で……」
「せめて、排他的な担保権を主張できる内容で……」
「仕方ありません。独占的契約交渉権に……」
「先取特権の適用は……」
「バカを言うものではありません……」
……これって人身売買じゃ?
さすがはファンタジー世界だった。僕の人権なんてまったく考慮されないまま、本人に発言が求められることもなく交渉がまとめられてしまった。
「……では、ここにサインをするのですよ」
「いちおう、内容を聞かせてもらってもいいかな……?」
僕の知らない文字でしたためられた契約書らしきものと万年筆のようなペンを渡してくれた3歳児に尋ねてみた。
「最終的に停止条件付契約強制権で手を打っておいたのです」
「ちょっ! それって身売りとどう違うのさっ?」
「逆指名の権利は放棄しましたが、一定期間のプレイを条件にFA権は保証してもらったのですよ」
「それ逆でしょっ! 逆指名の権利こそ確保してよっ!」
もっとも大切な権利を勝手に放棄してしまったくせに、やり遂げたような顔でVサインを送ってくる3歳児に「こんなものにサインできるか」との意思を込めて契約書とペンを突き返す。
「こんなのっ! 僕の人権はどうなるのさっ?」
「オールドゴブリンのお前にどうして人権があるのですか?」
「やめてよっ! その『お前、何言っちゃってるの』みたいな顔で僕をゴブリン扱いするのっ!」
「……その内容に同意できないと言うのなら、わたくしとの契約もなかったことにしてお前を【真紅の茨】に引き渡しても良いのですよ」
「ん? 外泊証明かな? ここにサインすればいいんだね」
僕は弱かった……このファンタジー世界では弱いことは罪なのだ。弱者には何の権利もありはしない。
3歳児からドスの利いた声で無情な宣告を受けた僕は、目から涙を溢れさせながら笑顔で契約書にサインすると、僕自身の未来と一緒に3歳児にそれを手渡した。
「交渉成立なのです。さっ、お前はこれを持ってさっさといなくなるのですよ」
3歳児は【真紅の茨】に契約書を渡すと、「早くどっかいけ」とばかりにシッシッっと手を振っている。【真紅の茨】は契約書を確認し、「今日のところはこれで引き下がりましょう」と言って僕に背を向けると、未だに真紅の光に包まれている魔法陣へと戻っていく。
「モロニダス・アーレイ――」
唐突に、助かったと安堵していた僕にその大きな背中から声がかけられた。
「――お前に対して閉ざす尻を俺は持っていない。俺の【月工のゲート】は常にお前のために開かれている。寂しくなったらいつだって飛び込んできてくれていいんだぜ」
「永遠に閉ざしてくれていいからっ!」
なに永遠の友情を誓い合った親友キャラみたいな台詞を吐いてるのさ。さわやかな横顔で歯を煌めかせながらサムズアップなんかしちゃって、僕でも見惚れてしまいそうな男の背中が台無しだよ。
「……だが覚えておけ、お前はいつの日か後悔することになるだろう。我ら精霊ではなく、……との契約を選んだことを……な」
――え? 何との契約?
よく聞き取れなかったけど、【真紅の茨】は魔法陣の中に消えてしまっていて聞き返すことはできなかった。ただ、あのゲイ霊が最後に見せた表情は……
契約できなかったことに対する口惜しさではなく……
契約を邪魔されたことに対する苛立ちでもなく……
……まるで、捨てられた子犬を見るかのような憐みに満ちていた。
「これで邪魔者はいなくなったのです。ちゃっちゃと契約を済ませるのですよ」
真紅の光を失ってただの巻物に戻ってしまった魔法陣の前で、言いようのない不安に囚われていた僕は3歳児に袖を引っ張られて我に返った。
そうだった。アイツが最後に言い残したことは気になるけど、3歳児と契約しなければ再びゲイ霊が現れて、今度こそ僕の『初めて』は奪われてしまうに違いない。もう後戻りなんて出来ない。
召喚用の魔法陣を背負い鞄に仕舞って、代わりに契約用の魔法陣を取り出す。羊皮紙ではなく錬金術で作られた魔術用紙に描かれた魔法陣で、購買で普通に売られている物だから人に見られても大丈夫。
だけど、契約用の魔法陣を見せたとたん、3歳児の顔が怒ったような、嫌悪したような、軽蔑しているような、落胆したような、呆れたような、諦めたような、「ダメだこいつ、はやくなんとかしないと」みたいな、いくつもの感情が複雑に入り混じった何とも言えない表情になった。
「やっぱりお前はヴァカなのです」
ため息を吐きながらとんでもなく失礼なことをストレートに口にする3歳児。お母さんに「バカという者がバカだ」と躾けられていないのだろうか。
僕が反論しようとすると、3歳児は無言で魔法陣が描かれている魔術用紙のすみっこを「ここをよく見ろ」と言うかのようにチョンチョンと指さしてくる。そこには黒い楕円の中に白抜きで文字が書かれていた。
『ペット用』
「うぇぇぇぇぇ……」
これはヤバイ。3歳女児をペットにしましたなんて人に知られたら、僕は袋叩きにされたうえ最低の性犯罪者として投獄されてしまうだろう。だけど、購買で売っている契約用の魔法陣はこれだけだった。ということは、自作の特殊魔法陣を用意しなければいけなかったということだ。
3歳児が言うには、この魔法陣は言葉を扱えない鳥や獣との契約に使うもので、感覚はおろか意識の共有まで可能とするけど、何の護りもなく精霊の意識に触れようものなら僕のちっぽけな意識なんて一瞬で消し飛ばされてしまうらしい。
3歳児は「自我を失った廃人になるくらいなら、ヒキガエルのほうがマシだと思いませんか?」とヒキガエル推しの姿勢だ。
「でも、精霊との契約に使う魔法陣なんて僕知らないよ……」
「お前さえよければ、この魔法陣を使えるように書き換えてあげるのです」
頭を抱えた僕に3歳児が助け舟を出してくれた。「そんなことできるの?」と尋ねる僕に向かって、「わたくしの手にかかればチョチョイのチョイなのです」と小さな胸を張る。
「よかった。お願いするよ。もうダメかと思った」
僕がお願いすると3歳児は魔術用紙に描かれた魔法陣に手をかざし撫でるように一振りして、「これで良いのです」と宣言した。そんな簡単でいいのかと思ったけど、3歳児に自分が信じられないのかとふくれっ面で睨まれたので深くは考えないことにする。
ダメ出ししてきた3歳児が大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろうし、僕には魔法陣を見ただけでそこに描かれている術式を読み取れるような技術も知識もない。自分で判断できない以上、3歳児を信じるしかなかった。
実習で自作した魔法陣などを描くために使う特殊なペン――使い手の魔力で線を引く魔導器――で自分のサインを入れて3歳児に渡すと、やっぱり僕には読めない文字でスラスラとサインする。
3歳児がサインを入れると魔法陣が輝きだし、そしてクシャクシャと勝手に丸まってゆく。しばらくたつと、3歳児の手の中で金属にも磨いた石のようにも見える素材で出来た1個の飾り気のない指輪になった。契約が問題なく成立した証だ。
おもむろにその指輪を手に取った3歳児が左手の中指にそれを嵌めると、魔導器でもある指輪は3歳児の指に合わせてぴったりの大きさに縮む。
「ちょっ! なんでっ?」
もちろん、僕が驚いているのは3歳児が指輪を左手の薬指に嵌めなかったからじゃない。僕は変態でも紳士でもないし、僕の知る限りこの世界にはエンゲージリングという習慣がない。結婚の贈り物はするし、それが指輪であることはあっても左手の薬指に特別な意味はないのだ。
僕が驚いたのは、その指輪は契約を行使するために主が身に着けておくものだからだ。3歳児ではなく僕が身に着けるべき物で、どうしてもと頼まれるのなら左手の薬指に嵌めることを考慮してやらんでもない。
「わたくしが主、お前が下僕だからに決まっているのです」
「どうして? あの契約は?」
「下僕がわたくしの意識に触れれば消し飛んでしまいますけれど、わたくしの側からなら下僕に耐えられる範囲で意識を共有することもできるのです。ですから、手っ取り早い方法として、主と従僕の位置を入れ替えたのですよ」
「また僕を騙したのっ!」
「わたくしが魔法陣を書き換えると言った時に、『よかった。お願いするよ』と下僕は答えたではありませんか。まさかわたくしに嘘を吐いたのですか? 悪い下僕は四肢を引っこ抜いた後にオタマジャクシに変えてしまうのですよ」
なんてこった。3歳女児にペットにされましたなんて人に知られたら、僕は石を投げられたうえ最低のマゾ野郎として吊し上げられてしまうだろう。これは、僕がルール違反をしようとした罰なのか。精霊との契約を望むことはこれほどまでに罪だと……
自然と涙が溢れてくる。どうしてこうなった……
僕が立ち上がることもできないまま地面にうずくまって泣いていると、3歳児が慰めるように肩を叩いてきた。
「いつまでもメソメソするのはやめるのです。わたくしが主では不満だと言うのですか? わたくしに仕えることが許される者など決して多くはないのですよ」
「……それって、僕みたいに簡単に騙されるバカなんて少ないって言ってるの?」
「捉え方が後ろ向き過ぎるのです。言葉どおり、希望しても叶わない者の方が多いという意味なのです」
「……つまり、従僕は間に合ってるのに、面白半分に僕を騙したんだね」
「いじけるのも大概にするのです。【真紅の茨】に『初めて』を捧げる方が良かったのですか?」
ううっ……それを言われると辛い。確かに騙されて呼び出してしまった精霊とはいえ、自らの保身のために3歳児との契約を望んだのは僕の方だ。何でも言うことを聞くとも約束してしまったのだから、下僕にされたって文句が言えた筋合いじゃない。
でも、こんな騙すようなやり方でペットにされるなんて酷すぎるっ!
「言っておきますけれど、わたくしとの契約の解除が【真紅の茨】の契約強制権を行使できる条件になっていますから、契約の解除を口にするときは覚悟を決めておくのですよ」
終わった……
3歳児との契約を解除した瞬間に僕はあのゲイ霊に『初めて』を奪われることが確定していた。あの契約はこのために?
いや、それだけじゃない。最初から計算され尽くしていたんだ。この3歳児はあまりにも手際よく、僕自身がそう望むように仕向けたうえで、一切の逃げ道を残さない冷酷さで僕を追い詰めてしまった。まるで詰将棋のように……
きっと、「お前の『初めて』でも捧げたら――」と言われた時に僕はすでに詰んでしまっていたのだろう。すべては3歳児の掌の上、僕には自由に選べる選択肢なんて残されていなかった。
「わかったよ……約束したしね。下僕でもペットでも君の言うことを聞くよ。え~と、【忍び寄るいたずら】様」
「むぅ……その呼ばれ方はあまり好きじゃないのです」
「じゃあ、なんて呼べば……マイレディとか?」
僕が尋ねると3歳児は「悪趣味なのです」と苦々しげに呟きながら考えを巡らせていたけど、なにか思いついたのかポンと手を打つと僕に向き直り左手を胸に当てて高らかに宣言した。
「わたくしのことは――タルト――と呼ぶのです」




