491 ヘカテリーナの決断
子育てをしている間はただでさえ気性が荒くなっているというのに、それが手負いになったらもう危なくって仕方がない。人族の匂いを嗅ぎつけた途端、すっ飛んで襲い掛かってくること間違いなしだ。たまたま隠れ家の近くを通ったという理由で、運の悪い猟師のおっちゃんは頭をガリガリ齧られてしまうだろう。
「タルト。母熊の方を従僕にできる?」
「あんなに気が立っていては契約に応じるわけないのです」
最後の希望を託してタルトに尋ねてみたものの、現実は非情だった。話を聞くような理性が残っていないのでは契約なんて無理だと3歳児が首を横に振る。となれば、採れる解決法はひとつだけだ。こいつはそれを見越してついてきたに違いない。
「僕と黒スケで母熊をおびき出すから、その間に小熊の方を保護してくれないかな」
「わたくしにど~んと任せるのです」
最初からそのつもりだったのだろう。あの母熊が戻ってくることはもうないからと小熊の保護をお願いすれば、タルトは快く引き受けてくれた。黒スケからペイッと飛び降りると、ガサガサと茂みの中へ分け入って姿を消す。【明日へと続く道】とかいうインチキを使ったのだろう。すぐにロゥリングレーダーでも魔力が捉えられなくなった。僕と黒スケはまず周囲の地形を把握すべくコソコソ移動する。おあつらえの場所が見つかったのでそこにおびき出すことに決め、慎重に隠れ家へと近づいていく。
格好の地形が近くにあったので、使うのは弓でなく『エアバースト』の魔導器だ。冬を越すためのクマ穴として使っていたのであろう隠れ家に20メートルほど離れた位置から打ち込んでやれば、もんの凄い吠え声を轟かせて紅葉した葉っぱのように真っ赤なクマが飛び出してきた。クマネストと同じモミジグマのメスだった模様。ロックオンされたことが魔力から伝わってきたので、黒スケに拍車をいれ予定の場所へ向かって駆けさせる。隠れ家が知られた以上、僕を生かしておいては小熊に危害が及ぶと理解しているのだろう。母熊が全力で追っかけてきた。
――悪いね。手負いのクマに追っかけられるのは初めてじゃないんだ……
もちろん、僕もドワーフ国にいたころは何度もクマを仕留め損ねている。そして、手負いにしちまった時の対処法もロリオカンから仕込まれていた。クマはビックリするほど足が速いうえ、この辺りは相手のホームグラウンド。グイグイ距離を詰められるものの、すべて計算どおりだ。よくもまぁ、こんな状況で落ち着いていられるものだと我ながら呆れてくる。
隠れ家を見つけやがった小癪な奴を引き裂いてくれようと母熊が数メートル後ろまで迫ってきた。だけど、もう目標のポイントは目の前だ。見通しを悪くしている木立を抜けた瞬間、僕たちの上下左右に何もない空間が広がる。僕が目指していた場所は、アキマヘン嬢との崖下り特訓で使っている斜面とは比較にならない。僕からしてもザ・崖と呼ぶしかない切り立った崖だった。黒スケに続いて母熊が、不埒者を追いかけてきた勢いを殺しきれずに崖っぷちから飛び出す。
長く飛行できないとはいえコケトリスは鳥類だ。バサバサ羽ばたいて減速し、尾羽を使って落下する勢いを水平方向の推進力に変換することができる。だけど、クマには逆立ちしたって不可能。空中で姿勢を変えた黒スケが落っこちる勢いを殺しながら斜面へ着地する一方、かわいそうな母熊は自由落下に近い勢いで40メートルほどの高さを転げ落ち、谷底の岩畳に叩きつけられた。
――まだ動けるのか。でも……
ゆっくりと斜面を下った僕たちが谷底に着いたとき、母熊がヨロヨロと立ち上がってきた。だけど、もう目も鼻も利いていないようだ。近くにいる僕たちに反応することもなく、最後の力を振り絞ってどこかへ……いや、向かう先なんてひとつしかない。大切な小熊のもとへ戻ろうとする。
落っこちてきた崖を登りきる体力なんて残っていないとわかっているだろうに……
こいつにはなんの罪もない。それでも、意味もなく手負いにしやがったど素人連中はお咎めなしで、ただ子供を守りたかっただけの母親は危険だからと始末される。僕自身が決めたこととはいえ、そう考えるとなんだかやるせなくなってきた。残された命を吐き出しながら身体を引きずるように進む母熊の姿を眺めているのがつらい。僕の下した判断は、本当に正しかったのだろうか。
「結局は僕のエゴでしかないんだ。なら、最後まで押し付けてやるよ……」
弓を左手に構え、右手で矢筒から大物用に貫通力を重視した矢を引き出す。人の命と獣の命を天秤にかけることはできない。身勝手な価値観だとわかったうえで、僕はこいつにそれを押し付けたのだ。このまま力尽きるまで好きにさせてやることもできるものの、始末すると決めたのだからとどめまできっちり刺すことにした。
それが正しい行いかと問われて、イエスと答える自信なんてないけど……
どうしてか滲む視界に悪戦苦闘しながら母熊のこめかみに狙いを定める。この一発でなにかを感じることも、考えることもできなくしてやろう。弓を引き絞り、刻まれている魔法陣へ魔力を送り込んでいく。発動に足る魔力が充填された時、ロゥリング族でも引ける弓に強烈な反発力を生じさせる術式が――
「あれっ?」
――発動しなかった。魔法陣が壊れているわけではない。実行不能な術式だと精霊たちが魔力を受け取ってくれないため、その場合はそもそも充填されなくなるはず。魔法陣に必要十分な魔力が供給されたにも関わらず、まるでオアズケされているかのように何も起こらない。
「下僕、弓を下すのですよ」
どうやら、タルトの仕業だった模様。近くの茂みから小熊を連れた3歳児が姿を現した。弓を戻して矢を外した瞬間、術式が発動したようで充填されていた魔力が失われる。小熊が甲高い鳴き声を上げて満身創痍な母親に駆け寄り、後からタルトがゆっくりとした足取りで歩み寄っていった。声と匂いで自分の子供だと理解したのか、母熊が愛おしそうに小熊の顔を舐め最後の毛づくろいをする。
「お前の赤ちゃんはこの【忍び寄るいたずら】が引き受けたのです。なにも心配することはないのですよ」
小熊は無事に成長するだろうと3歳児が約束すれば、それで安心したのか母熊が地面に身体を横たえる。別れを告げるかのように小熊の額をひと舐めすると、静かに目を閉じて動かなくなった。ロゥリング感覚に伝わってくる母熊の魔力が急速に弱まっていく。それを感じ取ったのだろう。小熊が精一杯の鳴き声を上げていっちゃヤダと訴える。
「下僕、ドクロビッチを呼んでくるのです」
ヨシヨシと小熊の背中を撫でさすりながら、ドクロワルさんを連れてくるよう指示するタルト。ワルキューに母熊の魂を回収させるつもりのようだ。手負いのクマはいなくなったと山小屋を管理しているおっちゃんに確認してもらう必要もあるので、3歳児と小熊をこの場に残して僕と黒スケは山小屋へ向かう。
狭い谷から出て声が届くはずのないところまで離れても、二度と帰ってこない母親を懸命に呼び続ける小熊の鳴き声は、いつまでも、いつまでも僕の耳に残り続けていた。
山小屋のおっちゃんに事情を説明し、ドクロワルさんたちを連れて戻った時、そこにタルトと小熊の姿はなかった。手乗り死神に魂を回収してもらい、猟犬部門のアホタレに手負いにしたのはこのクマであっているか確認させる。紅葉の葉みたいな真っ赤な体毛と、背中に魔導砲で撃たれた跡が見つかったことから、こいつで間違いないという結論に至った。自分たちで仕留められるはずだったのにと呑気にタラレバを口にしている連中を、ひとり残らず母熊と同じ崖から突き落としてやりたい。
状態が悪く肉も毛皮も利用価値はないと判断された母熊の屍は、このまま谷底に捨て置かれることになった。埋めてやりたいものの、足元は岩盤が露出した岩畳なので『ヴィヴィアナピット』が使えない。屍肉を漁る動物の餌となり、遠からず土に還るだろう。
「お前、どうやって仕留めたの?」
「わざと後を追いかけさせて、一緒に崖から飛んだんだよ」
「なんでお前は平気なの?」
「コケトリスは鳥だからね。信じられないなら特別に体験させてあげよう」
帰り際に今回の惨事を招いた元凶のひとりがどうやったのだと尋ねてきた。あそこから一緒にダイブしたのだと崖上を指さす。上手いこと口車に乗せて突き落としてやろうと思ったものの、ブルッたチキン野郎に正気の沙汰ではないと逃げられてしまう。沈んだ気分のまま山小屋まで引き返せば、姿のなかったタルトと小熊が先に戻っていた。
「おびえたままなのね~。これじゃ食べ物もあげられないのね~」
山小屋に残っていたロリボーデさんによれば、僕たちが出発してしばらく経ったところでタルトが小熊を連れてきたらしい。見慣れない人や魔獣に囲まれ酷く怯えていたので、今はタルトと一緒に乳母車の中。雨除けの幌をかけて周りが目に入らないようにしているそうだ。下手に近寄れないから水も食べ物も与えられないのだと【ジャイアント侯爵】が困ったように両手をパタパタさせる。
「あの小熊どうしたの? あんた知ってるんでしょ」
「猟犬部門のど素人どもが子育て中の母熊を手負いにしやがったんだ。気が立っていて危険だから殺すしかなかった」
「みなしごになっちゃったのね……」
どうせお前の仕業なんだろうとアンドレーアに問い質されたので、小熊を保護することになった経緯を説明しておく。話を耳にしたロリボーデさんはあんまりな話だとオイオイ涙を流し、なんて迷惑な素人連中だとアンドレーアとイモクセイさんがまなじりを吊り上げた。
「タルト、小熊の様子はどう? 落ち着いたかな?」
「今はおやすみしているのです。家まで覆いをかけたまま曳いていくのですよ」
乳母車に近づいて声をかけてみたところ、おやすみ中との答えが返ってきた。小熊を怖がらせないよう幌をかけたままコテージまで曳いていけとの指示なので、乳母車に黒スケをつないで帰り支度に取りかかる。食いしん坊どもがきれいに骨だけ残してイノシシを平らげたので、オオカミにあばら骨を1本ずつやって残りは回収。コテージに戻ってからオーブンでよく焼けばダシ骨として保存しておけるだろう。
仕留め損ねた後の始末ができない素人はクマやイノシシといった危険な獲物に手を出すなと猟犬部門の連中に言い渡し、僕たちは魔導院への帰路につく。タルトの乳母車はサスペンション機構が備えられているうえ、フルフラットになるリクライニングシートはスプリング式で弾力のある座面と背もたれが採用されたビジネスクラス仕様なものの、衝撃で小熊が目を覚まさないよう速度を抑えてゆっくり進む。コテージに到着して乳母車を曳いた黒スケを離れのウッドデッキにつければ、優雅な昼下がりのティータイムにいったい何事かと首席が寄ってきた。
「くまぁぁぁ――――うごふっ?」
ペドロリアンの領紋に使われているモミジグマの小熊と耳にして正気を失う首席。おとなしくさせるようタルトが命じたようで、モチカさんのスカートの裾からニョロリと巻きつく精霊が伸びてきて騒がしいデカ女をグルグル巻きにする。
「さっき母親を失ったばかりで、まだ新しい環境に慣れてないんだから脅かしちゃダメだよ」
「どういうことでございますの?」
まだ人に慣れていないから抱き上げたり頬ずりするのはご法度だと告げたところ、どうして親がいないのだと説明を求められる。猟犬部門の素人どもが母熊を魔導砲で撃って手負いにしやがったのだと話したところ――
「あんの穀潰しどもっ。このままで済むと思ったら大間違いでございますわよっ!」
――首席は激怒した。次の予算会議で銅貨1枚に至るまでむしりつくし財布を干上がらせてくれると、全身から怒りに満ちた魔力を噴き上げ豪華絢爛な金髪を逆立てる。なんだろう。僕自身も猟犬部門の連中には許し難い感情を覚えていたものの、目の前でこうも爆ギレされるとかえって頭が冷えてくる。
「下僕。ゾルビッチをあっちへ連れて行くのです。小熊が怖がるのです」
まだ幌をかけたままの乳母車から、首席を遠ざけろとタルトが指示してきた。気配に敏感な小熊が荒々しい魔力を感じ取って怯えてしまったようだ。ロリボーデさんにお願いしてグルグル巻きのまま離れの奥へ運び込んでもらう。
「なにかしら食べさせないと。身体が小さい分、衰弱するのも早いわよ」
ペット部門で小動物の扱いに慣れているアンドレーアが、身体に蓄えている栄養が少ないから食べ物を口にしなければあっという間に衰弱してしまう。食事をとる体力までなくなったら手遅れだと不安そうな表情を浮かべていた。まだドングリが生るには早い時期。野生の小熊がそんなに太っているはずないので、この心配も杞憂とは言えない。どうしようかと頭を悩ませているところへ、庭でゴロゴロしていた怠け者パンダ野郎がやってきた。食べ物が欲しいのかと思ったら、小熊の乗っている乳母車をユサユサ揺すりだす。
「ちょっと、大丈夫なのっ?」
「こいつは小熊と同じモミジグマなんだ。仲間の匂いを嗅ぎつけたのかもしれない」
はた目には大熊が乳母車を襲っているようにしか見えないため、止めなくていいのかとイモクセイさんが僕の腕をつかんできた。同種のクマだからしばらく様子を見ることにすれば、タルトが内部から操作したようで雨除けの幌が開いていく。最初はプルプル震えていた小熊だけど、クマネストにペロペロされているうちに仲間であることに気づいた模様。鼻先をこすりつけて匂いを確認し始める。
「下僕、トウモロコシに蜜をたっぷりかけてくるのです」
まだ完全に警戒を解いたわけではないけれど、クマネストとは打ち解けたようだ。食べ物を用意せよと3歳児に命じられたので、エサ桶に飼料用のトウモロコシを盛って蜜の精霊にこれでもかと蜜をかけてもらう。クマネストに身を寄せて丸まっている小熊にそっと差し出してみたものの、まだ警戒されているようで口をつけようとはしない。そして、小熊のために用意したのに食い意地の張ったパンダ野郎がムシャムシャ始めやがった。
「お前、意地汚いにも程があるぞ……」
お腹を空かしている小熊の食事を横取りするなんてけしからん。主共々おやつ抜きにしてやると告げようとした時、さっきまで全身で警戒感を表していた小熊がクマネストの食べる様子を凝視していることに気がついた。蜜をかけたトウモロコシがとっても気になるようで、僕を威嚇することも忘れている。仲間が平然と口にしているのを見て、これは食べても大丈夫なのだと察したご様子。クマネストに勧められると、よっぽどお腹が空いていたのかわき目も振らずモシャモシャ食べ始めた。これでひと安心とロリボーデさんが小躍りして喜んでいる。
トウモロコシを平らげただけでは飽き足らず、一滴も残さないときれいに蜜を舐めとる小熊。自分の分が残ってないと意地汚いパンダ野郎が情けない声で吠えるので、仕方なくおかわりを用意してやる。お腹いっぱいでまた眠くなってしまったのか、小熊はクマネストに寄りかかってウトウトし始めた。
「クマは契約しないと置いておけないわよね。この子、私が使い魔にしてもいいかしら?」
そのままでは生徒を襲いかねない危険な生き物は、誰かが契約して使い魔にしない限り放し飼いにはできない。檻に入れるのはかわいそうだから自分の使い魔にしたいとイモクセイさんが口にする。
「いいの? クセーラさんの時と違って、実は精霊でしたなんてことはないよ」
ベコーンたんのように精霊が化けていたのであれば、タルトは連れて行けなんて言わなかっただろう。これは疑う余地のない小熊だぞと、今一度確認しておく。
「もちろんよ。この子を放っておきたくないって感じるの。それに、精霊と契約できなくなるからって理由でこの気持ちを塗りつぶす私を、精霊は好きになってくれないと思う」
だけど、イモクセイさんの意思は変わらなかった。素直な気持ちを理屈で塗り替えるような人間なんて、精霊は相手にしてくれないだろうと微笑む。言われてみれば、クセーラさんがまさにそうだった。理屈ではない魂の判断にベコーンたんは応えてくれたのだ。
「イモビッチもわかってきたではありませんか。いつか、お前の前にも精霊が姿を現すかもしれないのです」
どうやら、それが正解だった模様。理屈を積み重ねて自分をごまかしているような嘘つきと契約したがる精霊なんていないと3歳児がニッコリ笑う。それが本心からの望みならよかろうと、人がいる環境に慣れたら小熊はイモクセイさんと契約させることに決まった。




