2 とある転生者の事情
最低限の人手は掛けられているので樹木が繁り過ぎず、木漏れ日が射し込んでくる明るい森の中、僕は身を忍ばせるようにしながら森の奥へと歩を進める。木々の作りだす新緑のトンネルを潜り抜けた先に、まとめて伐採されたと思しきぽっかりと空いたあまり広くはない場所を見つけた。
下生えが繁っているものの、それほど伸びていないので歩くのにも、そしてこれから僕がやろうとしていることにも支障はないだろう。ちょっとしたルール違反を隠れてこっそりと済ませてしまうにはおあつらえ向きの場所だ。
――仕方ないんだ。転生チートなんてない僕の未来の為に……
自然とため息が漏れる。なんの因果でこんなことになってしまったのかと……
今の僕はモロニダス・アーレイ。アーカン王国ホンマニ公爵領にあるホンマニ魔導院の生徒であり……そして、前世の記憶を持つ、いわゆる転生者にあたる。
かつての僕は田西宿実といって、地球という惑星の日本と呼ばれる国に生まれ、高校生活の3年間を甲子園という夢を追いかけることに費やした高校球児だった。そして3年生の夏、地方大会の決勝戦が行われたその日に、僕は交通事故に遭って死んだ。よくある話だと思う。
断っておくけど、エースである僕が欠場したせいで試合に敗けたなんてことはない。事故に遭ったのは試合の後だったから。もっとも、敗因は僕が相手の打線を抑えられなかったせいだから、僕が出場したせいで試合に敗けたと言われればそのとおりだった。
あと一歩で手が届くというところで夢破れた僕は溢れだす涙を堪えきれず、ただ感情の赴くままに走り出した。涙しながら走るというのはマンガやアニメではよくある表現だけど、実際にやるのはやめておいた方がいい。前が見えなくて危険なんだ。
だけど、その時の僕はそんなことお構いなしに走り続けた。まだ日も高いというのに真っ赤な夕陽に向かって走っているという矛盾にすら気が付かなかった。今にして思えば、僕が夕陽だと思って目指していた赤い光はただの赤信号だったのだと思う。
けたたましく鳴らされるクラクション。振り向いた先には迫ってくる黒い壁。たぶん大型トラック。そして目の前が真っ白になるほどの衝撃……
それが僕の持っている田西宿実の最後の記憶だ。
それが前世の記憶なのだと自覚したのは5歳くらいの時だった。それまでは記憶だか夢だかよくわからない曖昧なものだったけど、記憶だと理解してからは、自分をかつての田西宿実だと意識するようになった。
赤ん坊のころに前世の記憶に目覚めなかったのは幸いだ。僕の母親のオッパイをチュパチュパするのはいろんな意味でアウトだったから。
中世と現代が混じったようなアンバランスな文明レベル。人間以外の知的種族。そして、魔術と呼ばれる不思議パワーの存在。ここが田西宿実の生きていた世界でないことは明らかだったけど、異世界転移や転生モノというのは思い出すのも恥ずかしいくらい大好物だったし、この世界で生まれ育った記憶と、なによりも家族がいてくれたので、前世は前世、今生は今生と受け入れるのに抵抗はなかった。
しいて言えば、エロス溢れる美人の女神様からチートを貰えなかったことだけが唯一の心残りだったろうか。そして、現代知識チートもそうそうに諦めざるを得なかった。おそらく、この世界には僕以外の転生者がすでにいる。……いた。と言うべきか。少なくともひとりやふたりではないだろう。
この世界には味噌も醤油も鰹節もマヨネーズもアイスクリームもラーメンも炬燵も大砲も爆弾も……巫女服や日本刀さえすでに存在していた。
ガテン系なドワーフのおっちゃんたちは丼物で腹を満たし、母親の得意料理は肉じゃがとカレーライスだった。それまで何気なく使っていたトイレが、実は『魔術式温水洗浄便座』だと気が付いた時の僕の絶望がおわかりいただけるだろうか?
もはやこの世界には一介の高校球児の知識レベルで現代知識チートができる余地なんて残されていないだろう。ラノベ主人公にありがちな『特定の分野に関する専門的な知識』なんて、あいにくと僕は持ち合わせていない。
あえて挙げるとすれば野球に関する知識だけど、何の役にも立たないことはわかりきっている。異世界でプロ野球リーグを結成して成り上がり? さすがに無理があるっぺよ。
そんなわけだから、僕はチートなんてすっぱり諦めて生きていくことにした。人間、やっぱり地道な努力が一番だね。だけど、残念ながらどこでも生きていけるってわけじゃない。この世界は魔術があり、異種族がいて、凶悪な魔物が闊歩するファンタジーな世界だったんだ。
僕の父親は人族という、前世での人間。ヒューマン。ホモ・サピエンスにあたる種族だけど、母親はロゥリング族という森に住まう小人族で、僕自身は生まれも育ちもドワーフ国という、ちゃきちゃきのドワっ子だった。
なんでこんな面倒なことになっているのかというと、僕の父親が外交官みたいな仕事をしているせいだ。日本式に言うのであれば、ドワーフ国に置かれたアーカン王国大使館に勤めている書記官といったところか。
問題になるのは僕がどこの国に所属して、どこの種族社会で暮らしていくのかということだ。
ドワっ子とはいえ僕にはドワーフの血は流れていない。ロゥリング族は2千年以上も人族との交流を絶っていた種族で、ようやくドワーフ国を通じて交易に応じてくれるようになったけど、人族がロゥリング族の領域に立ち入ることまでは許していない。つまり、生まれ育ったドワーフ国にも母親の故郷であるロゥリング族の中にも僕の居場所なんてないのだ。
父親の所属するアーカン王国。貴族による封建社会の中で生きていく以外の選択肢はなかった。
だから、僕は10歳になった昨年の春、ひとり故郷を旅立ち、ここホンマニ魔導院に入学した。通称、魔導院と呼ばれるこの学校は、人族の中でもとりわけ魔力に秀でた者しか入学が許されない、いわゆるエリート校にあたる。
全寮制の寄宿学校で生徒は貴族や士族と呼ばれる上流階級の子供たちだけだ。別に平民の子供をお断りしているわけではないけど、魔力と学費の関係で結果的にお貴族様専門校となってしまっている。
僕の父親も子爵家の長男だったけど、自身は魔力に乏しく魔導院に入学できる水準には全然足りなかったそうだ。僕が入学できたのはひとえに母親の血によるものだろう。
ロゥリング族は人族よりも魔力に優れた種族だし、僕にとっては見た目小学生のロリオカンでも国元に戻れば王女様だそうだ。第24王女という腐るほどいるプリンセスの内のひとりでしかないと言っていたけど、ロゥリング族の中でも屈指の魔力を持つ一族の出身であることに変わりはない。
その血を引く僕は、学年首席や次席の子に匹敵するトップクラスの魔力保持者だった。
……ま、ものは言い様ってね。言い方を変えれば、僕が首席や次席に匹敵していたのは魔力の量だけだったとも言える。
なんと言っても学生の本分は勉強だ。学校なんだから魔力よりも学業の成績で優劣がつけられるのは当然のことだった。
自慢じゃないけど、僕の一般教養科目の成績は最底辺と言っても過言ではない。魔術科目はそれなりの成績だったけど、初歩的な内容なので他の生徒との差はつけ難く、最底辺の成績を挽回できるほどではなかった。
所詮、僕は魔力しか取り柄のない落ちこぼれの自律歩行型魔力タンクでしかなかったのさ。
仕方がなかったんだ。高校球児の知識が役に立ったのは、ふた桁の四則演算ができれば満点が取れる『算学』くらいのもので、ドワっ子の僕にはこのアーカン王国に関する予備知識が致命的に足りていない。
『地理』、『歴史』に社会制度などの『社会学』、古典や貴族的言い回しが含まれる『文学』、加えて『礼法』あたりは全滅だった。『生物学』はともかく、物理、化学にあたる『物性学』もお手上げだ。
断っておくけど、現代知識ありで物理、化学がお手上げなのは僕がバカだからではない。この世界の学校では万物が、地、水、火、風の四大元素で成り立っていると教えているせいだ。
原子核とか化学元素の知識なんていくらあっても試験で点は取れず、「水は1つの水素原子と2つの酸素原子が結合した化合物です」などと回答しようものなら間違いなく減点される。
もっとも、この世界でも現代知識が通用するという保証はないし、僕自身にそれを証明する気がないのだから、ここで正しいと信じられている学問こそが正しいのだと受け入れるしかない。地動説を唱えて異端審問にかけられた、え~と……誰かさんの二の舞なんてまっぴら御免だ。命が惜しければ長い物には巻かれておくに限る。
あと、わかってはいたけど『体力』と『武技』に関しては学年最下位だった。ロゥリング族とのハーフである僕は魔力に優れる代わりに体格で人族に劣る。同年齢の人族の子と比べると小学校の1年生と6年生くらいの差があるんだ。そのせいで口の悪い連中からは「ゴブリン」なんて呼ばれたりもする。
小柄な体と細い手足。やや吊り上り気味な大きな目。長く伸びてはいないけど先っちょのとんがった耳。こうしたロゥリング族の特徴を「かわいい」って言ってくれる子もいるけど、魔物図鑑にあるゴブリンによく似ているらしい。
そして、今月の初めに先生から1枚の紙が手渡された。この1年間の成績と順位、新学期からのクラス分けが書かれた成績票だ。
魔導院は教養課程3年間、専門課程3年間の計6年間の学習期間があって、教養課程の内は1学年は3クラスに振り分けられる。すなわち、優等生のAクラス。平々凡々なBクラス。落ちこぼれのCクラスのみっつだ。
新学期から……っていうか、もう来週からだけど、僕が振り分けられたクラスはCクラスだった。
これは非常によろしくない。僕には後ろ盾となってくれる貴族が必要だった。僕の父親は準爵に叙せられてはいるけど、これは領地を持たず世襲もできない爵位。実家の子爵家との仲は険悪で、実家の手から逃れるためにドワーフ国で異種族嫁と結婚したとも言える。
僕の母親とは別にドワーフの酋長の娘とも結婚していて、大使館をクビになっても帰国せずヒモになる気マンマンである。つまり、父親はあてにできないので、僕はどこかに自分を売り込まなければいけない。
功績を挙げて自らが爵位を得るか、好待遇を約束してくれる貴族を見つけるかしなければ、僕に待っている未来は搾り取られるだけの魔力タンクだ。下手に魔力だけはあるせいで、誰にも仕えず生きていくのも難しい。僕がフリーだと知られたら、最悪、父親の実家が僕の『所有権』を主張しかねない。
前世と今生は別と理解はしていても、人は簡単には変われない。休日はちゃんと欲しいし、自宅と職場にはシャワートイレの設置を要求する。魔力目当ての種馬ではなく、自分の好きな相手と家庭を持ちたいと思う。
いくら異世界だからって、ぼっとん便所しかないブラック企業に勤めさせられて、夫を使用人と勘違いしている妻と同居だなんて絶対にお断りだ。
どげんかせんとあかんかった。勉強はこれから頑張るにしても急激な改善は難しい。体力は種族的な問題なので諦めるしかない。順位を上げるためには魔術分野で他の生徒に差をつけるのが一番だ。魔力にモノを言わせて手っ取り早く評価を上げる方法……
僕が思いついたのが精霊との契約だった。
一部の生徒は使い魔と呼ばれるものと契約し使役している。多くは野生動物だけど、中には魔獣の幼生を使役している子もいる。そして、精霊を使役しているのは同学年では首席と次席のふたりだけ。
魔獣のように戦闘で役に立つとは限らないけど、貴族社会でステイタスとされるのは精霊のほうだ。3人目の精霊使役者になれば評価だって上がるはず。精霊は生き物のような食事が必要ないのでエサ代が掛からないところも魅力的だ。
わざわざ人目を忍んでやってきたのは魔導院の敷地内にある森の奥。周囲に自分しかいないことを確認して、背負い鞄――ぶっちゃけランドセル――から取り出した召喚用魔法陣を地面に広げる。とある教師に袖の下を渡して譲り受けた物なので人に見られては困るのだ。
購買で売られている魔法陣はともかく、それ以外の特殊魔法陣は基本自作するのが魔導院でのルールとなっている。共同制作ならともかく、一から十まで他人の、しかも教師の作った魔法陣の使用を許しては生徒同士の競争が魔法陣の購入合戦になってしまうからだとか。
だけど、僕にはそうも言っていられない事情がある。僕の未来のために、ここはあえてフェアプレイ精神には目をつぶっていてもらおう。僕が心を決め、魔法陣に魔力を流し込もうとしたその時、頭の上から大声が降ってきた。
「よ~、け~、る~、の~、で~、す~」