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脳の精密検査の結果、特に異常は見当たらなかった。記憶に関しては時間とともに自然に戻るのを待つしかないと、医師は諒に語った。
だが諒にはどうでもいい話だった。医師の言葉は的外れでしかないからだ。だからといって本当のことなど言えるわけがない。何しろ諒自身さえいまだに信じられないのだ。他人に話したって信用されるはずがない。悪ければ『頭の病気』扱いされて心療内科に移され、必要性のかけらもない治療で無為な時間を過ごすはめにもなりかねない。
ここは記憶喪失だと誤解させたままの方がいいだろうと、諒は判断した。
怪我そのものは医師の言う通り軽いもので、明日にはもう退院できるとのことだった。
とはいうものの、重大な問題は解決されずに残されている。
諒の体が、赤城祐二の体に変わっているということ――。
当然だがどう調べたところで答えはどこにもない。諒が自分で何とかするしかないが、このような突拍子もない異常すぎる事態にいきなり放り込まれても対処のしようがない。 誰に訊ねても分かるはずがない。それ以前に誰も理解しないだろう。
これからの生活を考えると、諒の気持ちが重くなる。見た目はまったくの別人だ。共通してるのは性別と年齢ぐらいだ。それ以外の環境は一変するはずだ。そんな状況でどうやって過ごしていけばいいっていうのだろう?
もしかすると現実の自分は事故で昏睡状態になっていて、今の体験はすべてそんな自分が見ている夢ではないかと疑いたくなる。だが諒にも夢と現実の区別くらいはつく。
これは、現実――受け入れたくはないが、それが事実だ。
自分の先行きを思って悶々としながら、諒は病院での最後の夜を過ごした。
そして退院当日になった。
病院には見たことのない中年女性が迎えに来た。おそらく、赤城の母親だろう。
医師からおおよその事情を知らされているんだろう。記憶喪失の誤解を撤回しなかったことがプラスに働いたようだ。諒一人だと、とてもではないが家には帰れない。
母親の運転する車に揺られ、諒は家に帰ってきた。
帰ってきた、とはいうものの、諒からすればあくまで他人の家に過ぎない。不自然に見えようと居心地の悪さは誤魔化しようがない。
家の中を見て回り、どこに何があるかを一通り確認する。これからここで暮らさないといけないとなると、まず最初にやっておくべきことだ。何かあるたびに家族にきいてはいられないだろう。
赤城の部屋に入る。ギターや壁に貼られたロックバンドのポスターから、彼は音楽が趣味らしい。棚に収められてあるのは洋楽のCDばかりだ。
諒は音楽をほとんど聴かない。普段は本やゲームばかりだ。部屋には漫画の単行本が四五冊あるが、巻数がとんでいるため順番に読んでいくこともできない。
ここは自分の家ではない。自分のいるべき場所ではないという思いが強まった。
それにそう遠くないうちにぼろも出てくるだろう。いくらなんでも生まれてから同じ屋根の下で住んでいる家族なら違和感に気付くに違いない。
おそらく諒の体には赤城が入っていることだろう。彼も困惑してるだろうし、早く互いに元の体に戻る方法について話し合いをしたい。
そんな方法があれば、の話しだが。
それでも、いつまでもこのままではいられない。何もしないよりはずっとましではある。
憂鬱ではあるが、そのためには明日から学校に通うべきだろう。赤城も来るかも知れないし、もし元に戻ったときに登校日数が足りずに留年になってしまったら彼に申し訳がない。
明日以降は、諒にとって試練の連続になりそうな予感がしていた。
朝になり、学校に行く。登校中に見知った顔に会うこともなく、道のりが違う以外はこれまでと変化はない。
幸い赤城のスマートフォンにはロックがかかっていなかったため、問題なく使えた。アドレス帳に登録されている名前の多さに、彼の交流の広さがうかがえる。事故についてこちらの容態を気遣うメールが溜まっていて、諒はいちいち読んで返信するのが億劫だった。
これが諒自身ならともかく、彼らにとって今の諒は赤城祐二以外の誰でもない。赤城が友達に普段どうやって接しているかは知らないが、いい加減な対応はできない。
元に戻るまでの辛抱だ。
メールに関してはとりあえずぼろが出ないように当たり障りのないものを返したものの、直接となるとそうはいかない。
頭の中で赤城がどんな振る舞いをしていたか思い出そうと努力してみてもうまくいかない。これまでの諒は周りがどうしていようと興味なんてなかった。そのことが少しばかり悔やまれる。こんなことになるなんて夢にも思うはずもないため、仕方がないと自分に言い聞かせる。
今朝のニュースでは事故によってコンビニにいた六人が重軽傷を負ったものの、死者は出なかったという。命に別状はないということでひとまずは安心した。
クラスメイトへの対応策を検討しているうちに、もう教室についてしまっていた。
昨夜から頭の中で何度もシミュレーションはしたものの、そんなものが役立つと考えているほど諒も楽観していない。ただの気休めだ。こちらが予想してない行動をとったりするのが現実の人間だ。
だが、ここまで来たからには腹を括るしかない。迷いを断つように、諒は勢いよく戸をあけた。
おのおので駄弁っていたクラスメイトの目が、諒に向く。
おどおどしたら負けだ。無理矢理にでもテンションをあげなければならない。
「よ、よおっ!!」
緊張のあまり、声が裏返ってしまう。慣れないことはするものではない。
「ちょっ、おま――何だよ今の声」
クラスの男子の中でも体格のいい滝沢和也が笑いながら突っ込みを入れてくる。諒もとりあえず笑みを作ってみる。
「災難だったなぁ赤城。あれじゃね? 日頃の行いが悪いんじゃね?」
また別の男子――山内圭太郎――が話しかけてくる。
「あ、ああ……そうかも」
曖昧にうなずく。余計なことは言わないようにしないといけない。
「つーか全然平気そうじゃん。記憶に障害がって聞いたからもっとやべぇ感じかと思ったぜ?」
次の言葉を発したのは横屋登だ。諒の記憶の欠落に関して、すでに彼らには伝わってるらしい。
「まあ、ただのかすり傷だし……」
「? 何か赤城、素っ気なくねーか? せっかくこっちが心配してやってんのに」
と、横屋は不満そうな顔をした。
「あ、いや……」
「事故からまだ三日だし。まだ本調子じゃないんだろうよ」
「んなことは分かってるっての。冗談だよ冗談」
「……」
「ところで赤城?」
「な……何?」
「お前、事故以前のことを一部忘れちまってるらしいけど、さすがに俺らのことは覚えてるよな?」
「あ、ああ……」
滝沢の問いに、諒は反射的に肯定してしまう。
「そっか。じゃあ俺の名前は?」
「ええと、滝沢く……いや滝、沢?」
「おいおい何で疑問形? まさか考えながら答えたのか?」
「違うって……」
呼び捨てに躊躇ったせいだとは言えない。
それからも彼らから事故についていろいろと聞かれた。矢継ぎ早の応酬に諒はうんざりしてきた。少しはこちらの身も考えてもらいたい。自分のことは放っておいてもらいたい。
正直、彼らのノリにはついていけない。会話のテンポが早すぎ、話題転換も急すぎる。さながらジェットコースターに乗っているかのようで、諒の頭ではすべてを処理しきれ
ない。
質問もいっぺんにしてくるのはやめてほしい――自分は聖徳太子ではない。
諒は会話の流れに完全に置いていかれ、いまやただ作り笑顔で相槌を打ってるだけになっていた。問いへの答えも適当に受け答えをしていた。
そんな風でもコミュニケーションは問題なく成り立っていた。諒は自分の返答なんて本当はどうでもよく、彼らはただ自分たちが喋りたいだけではないかとさえ思えてきた。
やがてホームルームが済み、一時間目の授業が始まった。
そこでようやく諒は、藤上結羽が登校していないことに気付いた。
それだけ、結羽の怪我は酷いのだろうか? 同じ事故に巻き込まれたためか他人事だと割り切れず、諒はどうにも気がかりだった。
「赤城。今日のお前さ、ずっとちらちら藤上の席を見てるよな?」
諒が昼休みに購買で買ったパンを食べていると、山内がそう口にした。
「そ、そうか……?」
「ああ。気になんのか藤上のこと?」
「うん、まあ……」
正直に答えると、山内はなぜか眉根を寄せた。
何かまずいことを言ったのだろうか? 今の発言は失敗だったのか――そんな動揺が顔に出ないようにするのは大変だった。
だがいったん口にした言葉は取り消せない。何とか誤魔化すしかない。
「ど、どうした?」
「いや……だってよ」
もどかしくなるほどの歯切れの悪さだ。
「だってお前、彼女いんじゃん? それなのにいいのか?」
「は!?」
驚いて諒は思わず声をあげてしまう。赤城には付き合ってる女子がいるのは知らなかった。
「おまっ……忘れてたのかよ。ていうか藤上のことを覚えてて自分の彼女のことは忘れるとか問題あるだろ……」
呆れたように山内は言った。
「それで……その子は何て名前なんだ?」
「そこまでは俺に聞かれたって知らねぇよ。少なくともうちのクラスのやつじゃないことは確かだけどな」
その顔も名前も学年も不明な彼女とも、これから何とか対応しないといけない。諒はうまくやっていく自信が、自分から失われていくのを感じていた。