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《明晰夢》――。
夢の中にいるとき、自分が夢を見ていると自覚していることを、そう呼ぶ。
現在の緒方諒は、まさにその状況に置かれていた。
諒は、宙に浮いていた。
人間が何もなしに空を飛ぶことはありえない。それで諒は、これが夢だと判断を下した。
だが諒が見下ろす先にあったのは現実の――トラックが追突し、半壊したコンビニだった。
現実の体験が夢に反映されることは珍しくもない。夢の中であるためか、諒は自分でも意外に思うほど、冷静にその惨状を見つめていた。
コンビニの前には多くの人だかりができていた。口々に何かを言ってるが、諒の耳には何も聞こえてこない。
そんなことよりも、救急車はまだ来ないのだろうか? 店内の様子が分からないため、諒は中にいる人間の安否が気になって仕方がない。
そんな諒の思いに応じるように、視線が下降しはじめた。
速度を増しながら、諒は空から落ちていく。
やがてコンビニの屋根が目の前に迫り――諒の視界は暗転した。
「っ――――」
諒は目を開いた。いつの間にかベッドに仰向けなっている。視線だけを動かして周りを確認する。
白を基調とした、清潔感のある部屋だ。急な場面転換に諒の頭はついていかない。それでも彼の五感が、この場こそが現実だと教えてくれる。つまり、先ほどまでの体験はやはり夢だったというわけだ。
――それより、ここはどこなのだろうか?
首を動かしてみる。すると諒は自分の腕から何本かのチューブが伸びて、ベッド脇の点滴につながっているのが見えた。
「病院……か」
あれだけの事故に巻き込まれたのだから、当然といえば当然だ。むしろいつもの自分の部屋で目覚める方がよっぽどおかしい。
「あぐっ――!?」
急に頭が痛み出した。それもかなりひどい――割れそうだ。脈拍にリズムを合わせるようにずきずきする。
ここが病院なら、枕元にはあれがあるはずだ。
案の定、そこにあったナースコールの子機をつかむと、諒は呼出しボタンを強く押し込んだ。
病室にやってきた看護師は、諒の様子を見るなり慌てて男性の医師を連れてきた。
「怪我はかすり傷程度で大事はないですが……念のため詳しく脳の検査をしましょうか?」
「あ、はい……お願いします」
即効性のある鎮痛剤を与えてもらって、諒の頭痛は先ほどと比べて随分と楽になっていた。
医師の隣にいた看護師が、口を開く。
「眩暈がしたり、強い吐き気を感じたりしたらすぐに呼んでくださいね……赤城さん」
「……え?」
赤城――この看護師は今、自分のことをそう呼んだのだろうか?
「あの……」
「はい、どうしました?」
「赤城って、僕のことですか?」
医師と看護師はそろって目を瞬かせた後、眉根を寄せた。
二人の反応を見て、自分はそんなに妙なことを口走ってしまったのかと、諒は少し不安になった。
「ああ……そういうことですか」
医師は得心がいったように頷いた。
「赤城祐二というのがあなたの名前ですよ。どうやら事故で記憶を失われているようですが、おそらく心因性によるものでしょう。そのうち思い出しますから、心配はいりませんよ」
諒を安心させようと医師はそう言ったのだろうが、彼には彼の言うことがまったく理解できなかった。
――記憶喪失? そんなことはない。
自分の名前は緒方諒だ。誕生日も血液型も年齢もちゃんと覚えている。事故に遭う前後の記憶もある。何も忘れてなどいない。
なら、だとしたら彼らはなぜ自分のことを『赤城』と呼んだのだろう?
訳が分からず、混乱する。その間に医師と看護師は病室を去り、訊ねるタイミングを逃してしまった。
『赤城』というのは、赤城祐二のことだろうか? なぜ彼と自分を間違えるのだろう?
外見はまったく似てもいないはずなのに。
尿意を覚え、いったん病室を出る。用を足し終わり、洗面所に向かう。
蛇口をひねり、手を洗う。
ふと顔をあげて鏡を見――諒は愕然とした。
「――――は?」
そこには別人が映っていた。
「え……何? 何だよこれ?」
鏡の中の男は驚いた顔で諒を見ている。
「あ、赤城……くん?」
その顔は紛れもなく赤城祐二その人だった。
諒が自分の顔に手をやると、鏡の中の赤城祐二もまた自身の顔に触れる。
次に両手で顔を撫で回してみる。目や鼻や口の大きさ、髪の太さや長さもすべて、緒方諒のものとは何もかもが違っていた。
途端に現実味が乏しくなった。自分はまだ夢でも見ているのかと、諒は本気で疑った。
こんなことは、とてもではないが信じられない。夢だと思わないとやっていられない。
医師も看護師も、諒のことを『赤城』と呼んだ。彼らの言葉に偽りはなかった。諒の――少なくとも外見は赤城祐二のものなのだから、誰でもそう認識する。
だが諒自身は、自分が紛れもなく緒方諒であると知っている。おかしいのは自分の体か、それとも心の方か――もしくはこんなありえない事態が起こる世界なのか?
金縛りでもあったように、諒はしばらくそこから動けなかった。