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 時刻はまもなく夜の七時を迎えようとしていた。住宅街からは人気がすっかり途絶えている。

 窓を開けて網戸だけにしている家が多い。明かりが漏れ、テレビの音が聞こえてくる。塀が低い一階の部屋だと窓のそばで首を振っている扇風機も視認できた。

 不用心だとは思うが、各部屋にクーラーを設置できるわけもないのだから、仕方がない。

 諒は明菜の案内で、彼女が一人暮らしをしているアパートに向かっているところだった。

 赤城には何度も電話をしたものの、一向に出る気配がなかった。だから直接こうして出向くことになった。

 この時間帯なら、赤城はアパートにいるはずだ。そこで明菜を加え、今後について相談しよう。三人寄れば文殊の知恵、というやつだ。何かいいアイディアが出るかも知れない。

明菜のアパートは、どうやら住宅街からは離れた場所にあるらしい。住宅街を抜けた先にある、墓地を囲む塀と竹林に挟まれた薄暗い路地を行く。不気味な場所だ。夜に立ち入るところではない。よくこんなところに住む気になったなと、諒は思う。


 「あまり他人に干渉されたくないんだよ。近所づきあいとか面倒だし」


 諒の表情を読んだのか、明菜が口を開く。


 「他人に無関心ってとこが気にいってね。家賃が安かったのはもちろんだけど」


 家賃が安いのは、墓地の近くだからというのもあるだろう。


 「こんなところで一人で、親は心配しないの?」

 

 諒は気になって訊ねる。


 「いや、両親にはどこに住んでるかなんて話してないし。いちいち様子見に来られるのもうざいし、一人暮らしの意味もないじゃん?」


 明菜はやけに機嫌が悪そうだった。口調も素っ気ない。彼女はかなり気分屋なのかも知れない。

 そうして到着したアパートも、悪い意味で周りの雰囲気に溶け込んでいる建物だった。

 築五十年以上は優に経っているだろう二階建てのアパートだった。コンクリートの外壁はひび割れたり剥がれ落ちたりしていて、耐震性に一ミリの信頼もおけない。たとえ地震がなくてもいまにも倒壊しそうだ。

 真夏の肝試しにはうってつけかも知れないが、諒には一晩でもあんなところに住む勇気はない。そこは素直に明菜を尊敬する。


 「屋根がある寝床が確保できれば、あたしはどこだって構わないんだよ」


 そう明菜は言う。声色に変化はないし、表情も同様だ。強がっているわけではなく、どうやら本心からの言葉のようだ。

 赤城がいると思われるのは、二階の角部屋だ。鉄錆が浮き、手すりにもがたがきている階段をあがる。かんかん、という音が静寂の中だと耳障りに響く。

 部屋にはインターホンも何もついてない。だから、ドアを手の甲で軽く二、三回ノックする。


 「……赤城くん、いる?」


 まったく返答がない。


 「……どいて」


 諒に代わり、明菜がドアに向かう。


 どんどんどんどんどんどんっ――。


 「出て来いってこらっ! どうせ居留守使ってんだろ!?」

 

 ドアをへこまさんとするくらい乱暴に叩き、怒声を張り上げる。


 「ちょっ……静かにやってくれよ」


 これではまるで借金の取り立てだ。


 「……ん?」


 「どうしたの堀川さん?」


 明菜の怪訝な声に僕はきく。


 「何だよ……ドア、鍵かかってないし」


 明菜の言葉を証明するように、かちゃっ、とドアが諒の見ている前で開かれた。


 「ドアを開けっ放しとか、不用心じゃん」

 

 文句を言いつつ、明菜は躊躇なく部屋に入る。


 「えっ? 待ってよ!」


 制止する間もない。

 それより――これは不法侵入ではないか?


 「ったく……」


 だがいまさら仕方がない。諒も明菜に続いて部屋にあがる。


 「うっ……」

 

 悪臭が鼻腔を直撃して、諒は涙目になる。鼻をおさえようと無駄だ。これはマスクが必要だ。だがあいにく今は持ってない。口呼吸するよう心掛ける。明菜が電灯のスイッチを何度も試していたが、明かりが点く様子はない。


 「そういや……蛍光灯、切れかかってたんだった」


 明菜が呟く。事故後のいつかは不明だが、ついに寿命がきてしまったらしい。

 玄関脇のキッチンの流しには、コンビニ弁当やカップラーメンの容器なんかが山積みになってる。悪臭の正体はこれらのゴミらしい。

 かさかさっ――とどこからか音がした。


 「ひっ……」


 「ゴキブリぐらいで何びびってんの? 情けない」


 そんなこと言っても無理なものは無理だ。

 狭いキッチンから奥の和室に行く。カーテンが閉め切ってあり、入り口よりも暗い。

 左の壁際には畳にじかに布団が敷いてある。その上に誰かが座ってた。シーツを頭から被っているが、赤城以外にはないだろう。


 「……赤城くん?」


 呼びかけてみる――だが何の反応も返ってこない。それどころか身じろぎすらしない。


 「電話したんだけど出なかったから来たんだけど……」


 「…………」


 無言。もしかして寝ているのだろうか?


 「やっぱいるんじゃん……っていうかカーテン開けないとほとんど見えないなぁ」


 堀川さんが部屋を横切って、カーテンに手をかける。

 一気に開け放たれるカーテン。これで多少は部屋の様子が確認できるようにな――


 「あっ、ああ……ああああああああああああっ!!」


 勝手に漏れる悲鳴を、諒は止められなかった。尻餅までついてしまう。


 「何だよ緒がっ……!?」


 振り返った明菜も、言葉を失う。

 

 右の壁際で、金髪の少女が死んでいた。


 壁にもたれかけて座りこんでいる少女は、濁った両目を諒に向けていた。

 少女には右腕がない。切断されたその右腕は、彼女の口腔から突き出していた。外に助けを求めるかのように、五本の指が宙に伸びたまま静止している。

 切り落とされた右腕を、強引に口の中へ捻じ込まれたためか、顎の骨が外れている。

 それは堀川明菜――今は赤城祐二である人間の、変わり果てた姿だった。

 

 誰だ? 誰の仕業だ? こんな残酷なことを――どこの誰がやった?

 だが、そうなると――今、布団の上にいるのは?


 諒は後ろを見た。立ち尽くす明菜がいる。そして、その背後の壁際――。

 布団の上で、全身をシーツで覆ったそいつ――

 そいつが――ゆっくりと、腰をあげた。


 「っ!」


 口を開ける。だが恐怖で声が出ない。早く明菜に知らせないとと焦れば焦るほど声帯が麻痺してしまったように、言葉がまったく出てこない。


 「…………?」


 明菜は諒ではなく、今も死体を見ている。そいつの存在に気が付かない。 

 一歩、そいつが動いた。

 諒は、その動作から目を離せない。

 もう一歩、そいつは足を踏み出す。


 「っ…………」


 少しずつ、確実に、そいつは明菜に近づいていた。


 「…………」


 そいつは、一言も喋らない。足音も立てない。


 「…………」


 そいつの右手が動く。きらりと何かが光る。

 刃物――大振りのナイフだった。

 その刃はすでに血塗れだ。誰の血かは言うまでもない。

 そいつはもう、明菜のすぐ背後に立っていた。


 「危ないっ!!」


 金縛りから解放されたように、体と声が自由になった。とっさに諒はそいつに体当たりする。二人で床に転がる。 


 「ぐぅっ!?」

 

 左肩に激痛――ナイフで刺されたと、諒は即座に理解する。

諒が怯んだ隙に、男が馬乗りになる。ナイフの切っ先が彼に向く。相手の手首をつかみ、諒も抵抗する。


 「うっ……」


 刺された肩が痛むせいで、手にうまく力が入らない。ナイフの刃がじりじりと喉に近づく。

 死ぬ? 殺される? 嫌だ死にたくない。殺されたくはない。

 生の執着心で、諒は腕力を補う。歯を食いしばり、ナイフを押し戻す。

 ――と、男が被っていたシーツがずれ落ちた。殺意を凝縮したような血走った目が、諒を射抜く。

 そして――そいつの素顔を、諒ははっきりと見た。


  「えっ――――?」


 自分が目にしてるものが、諒は信じられなかった。

 いや、信じたくなかった。理解することを頭が拒否する。まるで悪い夢だ。こんな事実、すぐに受け入れろという方が無理だ。


 なぜなら、そいつの顔は――。


 今にも自分を殺そうとしているそいつは――他ならない緒方諒の顔をしていたからだ。


 受けた衝撃の大きさに、つい手の力が緩みそうになる。ナイフの切っ先が喉に触れる。

 それでも諒は、ナイフをおさえる手を離さない。

 ばちっ――という音がして、唐突に男の体重が失せた。


 「…………?」


 視界の端に、スタンガンを握った明菜の姿が見えた。彼女が助けてくれたらしい。


 「…………」


 男がよろよろと立ち上がる。失神には至らなかったようだ。

 男はよろめきながら諒たちに背を向け、部屋から出て行った。どうやら逃げたようだ。

 安堵とともに、諒の全身から力が抜けていった。

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