1-8
それからの午後はアーデルハイトの部屋の割り当て、荷物の整理と制服の支給、カリキュラムの配布で終わった。
部屋は信じられないことに、一人一部屋の個室だった。それも二人並んで寝てもまだ余るほどの広いベッドがついた、瀟洒な客室を割り当てられた。
白い無地の壁紙に、同じく白のベッドカバーと枕カバー、胡桃材の書き物机と衣装箪笥、小さな牡丹色のソファ。真四角型の飾り窓のすぐ横に、バルコニーに出られる扉が開いて、午後の春風を部屋に吹き入れている。
窓枠も扉の枠も眩いばかりの真珠色で、地中海沿岸にあるホテルみたいだ。寝室の隣はバスルームになっていて、ゆったりとした浴槽の隣に化粧机まで付いている。
「こんな素敵な部屋、使っていいの?」
目を輝かせるアーデルハイトに、クララも笑って頷いた。
「マクダさまがね、部屋は使ってこそだから、遠慮なくご自由にって」
「なんだか夢みたい」
トランクから出した荷物を、ひとつひとつ丁寧に衣装箪笥にしまっていく。箪笥の扉の裏に大きな鏡が嵌めこまれており、その前でクララから渡された《白薔薇十字団》の制服に着替えてみた。
《ドイツ少女団》のスポーツレクレーションでは、短い黒パンツを着用する。だがスカートとなると、これほど短いのはさすがに少し恥ずかしく、少しでも太ももが隠れるように裾を下に引いた。まあそこは考えようで、グレーテルの言う通り、パンツの上にスカートを履いていると割り切ればいいのかもしれないが。
ゲッベルスさまは近未来的女学生の制服と言ったらしいが、こんな恰好を皆がする日が、本当にいつか来るのだろうか。
「良かったわ、とても似合っているわよ」
クララはにこりと笑って、カリキュラム表を手渡した。内容をちらりと見たアーデルハイトが、薬を飲んだような苦い顔をする。大嫌いなラテン語と英語の授業がひと枠ずつ、歴史学、生物学、数学物理と苦手な科目のオンパレードだ。
「勉強も、しっかりあるんだね」
「それはそうよ。団員の条件は、文武両道ですもの」
涼しい顔で答えるクララはきっと、ラテン語の授業でうっかり居眠りし、立たされたことなどないのだろう。
気を取り直してよく見ると、バレエと体育、軍事教練がふた枠ずつと、身体を動かす科目が多めに取られている。それに、音楽の時間があるのは何より嬉しかった。
「軍事教練って、銃とかナイフの使い方を習うの?」
「ええ。それに護身術や剣術、リュックを背負いながらプールで泳いだりとか。もう少し暑くなってからだけど」
「プールなんてあるの?」
アーデルハイトが驚く。
「地下に、プールと体育ホールがあるのよ。軍事教練はアッシェンバッハ少尉が先生だから、ちゃんと教えてくれるわ」
「ああ、それで……」
君とは長い付き合いになると言われたわけだ。
親衛隊員に直接教えてもらうなど、千載一遇のチャンスに違いない。期待が高まると同時に、もし変な失敗をして叱られたらどうしようと、急に心細くなった。鞭で叩かれたりするのだろうか。
「心配することないわ」
そんなアーデルハイトの心配を笑い飛ばすように、クララは言った。
「アッシェンバッハ少尉はたしかに厳しいけれど、けっして怖い人ではないわ。真面目に頑張れば、ちゃんと評価してくれる人よ。彼はこの《白薔薇十字団》の管理責任者も任されているの。まだ若いけれど、ゲッベルスさまがとても信頼している方だわ」
「わかった、ありがとうクララ」
一人っ子で、父や教師以外の男性とほとんど接することがなかったせいか、アーデルハイトは異性がどうも苦手だ。
友達の間では「男嫌いのハイジ」と言われている。別に嫌いでもないのだが、あのガサツなところとか、男というだけでやたらと偉そうなのが気に入らないのだ(それを「男嫌い」だというのだと、友人には指摘されている)。
アッシェンバッハ少尉は男性だが、物腰は柔らかで洗練されていた。彼の側にいれば、少しは苦手意識も払拭できるかもしれない。
そもそも、ドイツの女子は優れたアーリア系の子孫を残すために、心身ともに健康であることが必須とされる。《ドイツ少女団》で身体を鍛えるレクレーションが多いのは、「健康な子は、健康な母体から生まれる」という党の方針故だ。
要するに、いつかアーデルハイトも結婚して子供を産まなければならないのだが、そう言われてもピンと来ないのが本音である。ましてや、男嫌いでは結婚すら難しい。現実は理想の女性、マクダさまにはほど遠い。
「ねえ、クララはマクダさまに会ったことあるんだよね」
アーデルハイトは訊ねた。
「ええ、と言っても二回くらいしかないけれど」
「やっぱり、映画で観るのと同じくらい綺麗な人?」
「それはもう」
クララは頷く。
「実際のお姿の方が、映画よりもっと綺麗でいらっしゃるわ。それにとてもお優しいのよ」
「いつか会えるかな」
「どうかしら、なにしろお忙しい方だから。あ、でも、一昨日の一日に五番目のお嬢様がお生まれになったのは知っているでしょ?」
「うん、ニュースで聞いたから」
「そのために、今はご公務の方を少し控えられているから、ひょっとしたら機会はあるかも」
「本当? そうだとすごく嬉しい!」
目を輝かせるアーデルハイトの頬を、クララがそっと撫でた。母が好きだったスズランの香水が包み込むように薫る。久しいこと覚えなかった、いやずっと心の奥底にしまいこんでいた母への憧憬が、アーデルハイトを深く揺り動かした。
不思議にも、クララとは今日初めて会った気がしない。いやカオルともグレーテルとも、ずっと前からの友達だったような錯覚すら覚える。きっとここに来たことは、自分にとってはとてもいいことだったのだ。
アーデルハイトはこの場所に、早くも何かしら運命的なものを感じていた。
* * * *
夕食は質素なものだった。黒パンに豆とベーコンのスープ、ソーセージとザワークラウト、潰したジャガイモ。それでもアーデルハイトの入団を記念して、特別にお酒が出た。
アンナさんが最初にザクロのシロップを、次いでそこにビールをなみなみと注ぐと淡い薄紅の泡がグラスに立つ。とても華やかで、ミュンヘンでは見たことのない飲み方だった。
「では、ハイジの入団を祝して乾杯しましょ」
クララがグラスを掲げた。
「《白薔薇十字団》と、総統閣下のために」
「ハイル・マイン・フューラー!」
掛け声でグラスに口をつける。甘くほろ苦い炭酸が乾いた喉を通り抜けた。
「口当たりがいいから、飲み過ぎないでね」
クララが笑った。確かに、炭酸の爽快さがある分、甘口の白ワインより飲みやすい。アルコールの度数も僅かなものだろうが、まだ酒に慣れないアーデルハイトを酔わせるには十分だった。
旅の疲れもあって、少量のアルコールは身体中を駆け回り、うっとりと夢心地にさせる。食事の終わりの方はよく覚えておらず、気が付けば、いつの間にか寝間着に着替えて部屋のベッドにもぐりこんでいた。
翌朝、外の庭から聞える
「とうっ! はっ! いやっ!」
威勢よい掛け声で目が覚めた。何事かと目をこすり、窓を開けてバルコニーに立つと、掛け声の主はカオルであった。
庭の芝生の上、白い日本の着物に紺色の長いスカートのようなものを履いて、勇ましく刀を振っている。膝をつき、刀を抜いてまた鞘に納める。どうもあれが居合というものらしく、その動きは滑らかで、晴れた冬の朝のような厳しい美しさがある。アーデルハイトは時間を忘れて、流れるようなカオルの所作にしばし見惚れた。
「おはよう、よく眠れた?」
隣のバルコニーに立つクララに声を掛けられた。アーデルハイトと同じ、ふわりとしたナイトドレスだが、その胸のあたりのボリュームに思わず目を奪われた。確実に、アーデルハイトの倍くらいの大きさはあるだろう。
「うっ、うん。おはよう!」
「毎朝、カオルはああやって居合の鍛錬をするのよ。ここに来てからひと月になるけど、雨の日以外は一日も欠かしたことがないの。たいしたものよね」
「すごいね、うん」
「あれは、日本の武道をする時に履く、ハカマというものらしいわ。東洋でも、日本にしかないものですって。とても素敵よね」
「うん、そうだね」
「そろそろ、グレーテルを起こさなくちゃ。あの子、私じゃないと絶対起きないの。今日から授業だから、気を引き締めていきましょ」
「うん、分かった」
部屋に引っ込んだクララを見送ってから、つい自分の胸元を見降ろす。そんなに小さい方ではないと思っていたが、クララと比べると、大人の女性と子どもの差くらいある。
(クララって、着やせするんだあ)
アーデルハイトはふうとため息をついた。あんなに細いのに、どうやったら胸だけ大きくなるのかしら。天使のように綺麗で聡明で、しかもスタイルもいい。本当に神様って、不公平この上ない。
つい卑屈になりそうな気持ちを大きく吐き出して、深呼吸をした。淡い雲が太陽をうっすらと隠しているが、午後には晴れるだろう。授業が終われば、サンルームでのティータイムが待っている。
まだいろいろと分からないことだらけだったが、なんだかいい一日になりそうな予感がする。大きく伸びをして、空に向かって気合を入れてみた。
「ようし、頑張るぞ!」
こうして、アーデルハイトの《白薔薇十字団》における生活が始まった。




