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結局自己紹介は、当たり障りのないものになってしまった。
好きなことは食べること、踊ること、映画を観ること、歌を歌うこと。好きな女優はリリアン・ハーヴェイ。
初めて観た『会議は踊る』は、『ただ一度だけ』の歌詞を暗記するほど父に連れて行ってもらった。だから、党の方針で上映禁止になってしまった時は、とても悲しかったこと。
父は本当のところ男の子を欲しがっていて、そのせいなのか、小さい時には柔道を習わされた。女学校に入ってからはさすがに辞めてしまったが、今でも男の子一人くらいなら余裕で投げ飛ばせる。
アーデルハイトが習った先生は、ミュンヘンで道場を開いていたが、今はヨーロッパ各地を修行のために放浪しているという変わり者だ。
大戦で日本の捕虜になった経歴の持ち主で、そこで世話になった日本人に東洋の精神を学び、習った柔道を自分流に解釈して教えてくれた。だからこれが日本人の知っている正当な柔道なのかは、実ははなはだ怪しい。
母は幼い時からヨハンナ・スピリの『アルプスの少女』が大好きで、娘が生まれたらアーデルハイトという名前をつけたいと夢見ていた。そのおかげで、学校のクラスに一人はいるクララと、必ず二人セットでからかわれたものだ。この名前に対しては、愛着と恥ずかしさが半々だ。
とはいえ、シャーリー・テンプル主演の『ハイジ』が今年の三月、ミュンヘンの映画館に来た時は、女学校の友人たちとしっかり観に行った。なにしろ総天然色、今をときめくカラー映画である。これは楽しみに待つなという方が無理だ。
映画の内容は、期待を裏切らない素晴らしい出来栄えであった。スクリーンの中で笑うシャーリー・テンプルは、天使の如く愛くるしかった。オランダの木靴を履いて歌うミュージカル場面の、なんと眩いほどに美しかったことか。
踊るシャーリーが纏った宮廷風のドレス、フランクフルトの街並み、雪を冠ったデルフリ村の、まるで絵本を思わせる色彩の豊かさ。映画館の観客誰もがため息をついて、スクリーンを食い入るように見ていたものだ。
そう、映画『ハイジ』は総天然色の素晴らしさを、ドイツの観客たちの眼にしっかりと焼きつけたのであった。
まさに大国アメリカとハリウッド、おそるべし、である。
「その映画なら、グレーテルと私も観たわ。とても綺麗だったわよね」
紅茶とザッハトルテをいただきながら、クララは言った。
「ドイツでも近いうちに、カラーの映画が出来る予定なのよ」
「本当?」
アーデルハイトのカップが受け皿に当たって、カタリと音を立てる。昼下がりの陽光はサンルームに惜しみなく降り注ぎ、卓上の銀の茶道具を白く輝かせていた。
南に大きく張り出した窓のすぐ外は小さなばら園で、ばらの木々はまだ固い蕾を抱きながら、そよそよと眠たげに揺れている。六月になれば、白や紅、桃色の大輪が、あでやかに妍を競うのだろう。どこまでも長閑な静けさに、ここが大都会ベルリンであることをつい忘れてしまう。
自己紹介が終わった後、新人歓迎会はサンルームへと場所を移し、そのまま三時のお茶へとなだれ込んだ。今日の紅茶はアールグレイ、お菓子はザッハトルテ。ケーキはアンナさんの他にもう一人いる女中、カリンの手作りなのだが、これがかなり美味い。
目を丸くするアーデルハイトに、クララは頷いた。
「ええ。これは内緒の話だけど、ゲッベルスさまが製作の総指揮を取られるらしいわ」
クララがそう言うと、隣で聞いていたグレーテルがキヒヒと変な笑い方をする。
「ねえねえ、あの話、言うんでしょ?」
身体を乗り出すグレーテルを、クララは
「まだよ。話はちゃんと、順番にね」
と制した。
「話は最初に戻るけど、私たちの《白薔薇十字団》は、ユダヤ人狩りを目的とした特殊組織ということは分かったわね。そのために必要な事を、これから勉強していくの。銃やナイフの使い方も覚えるし、体力強化訓練もあるわ」
銃やナイフという普段聞き慣れない言葉に、アーデルハイトは好奇心をそそられた。まるで探偵ものかスパイ映画のようではないか。
「そう、それなんだけど。具体的にはどんなことをするの?」
「今ドイツのあちこちで、収容所を建設しているのは知っているでしょ? 現在の時点では、そこに国内のユダヤ人を全員集めて、まとめてマダガスカルかパレスチナへ移送させる計画になっているの」
「ま、マダガスカルって、あのマダガスカル?」
「ええ。でもそのことに反対する過激派や、ボルシェビキと関わりの強い赤系ユダヤ人が、地下で組織的な反社会的活動をしているの。とても危険な奴らよ。私たちは彼らと戦って、このドイツからユダヤ人を一掃するのが使命なの。もちろん、警察や政府の機関と協力してね」
「なんだか、すごく危険な任務だね」
「そうよ、だからこそ人選が厳しいの。僅かな訓練で現場に投入できる、優れた資質が求められるわ。今のところ、選ばれたメンバーは五人だけよ」
五人? とアーデルハイトはわが耳を疑った。ここには四人しかいない。
「残りの一人は、六月に合流することになっているの。今ちょっと事情があって、ドイツにいないのよ」とクララは説明を続けた。
「今秘かに進行中の、あるプロジェクトがあるの。計画の実行は十一月、あと半年ね。ドイツ全土で決行される、今までにない大掛かりなユダヤ人追放作戦になる予定よ。それに私たちも参加するの。私たちにとって、初めての本格的な大仕事になるわ。実行までのこの半年間で、任務に必要な事を全部叩きこまれるというわけ」
本当にスパイ映画みたいな話だった。でもこれは現実で、今まさに自分の身に起こっていることなのだ。急にアーデルハイトは不安になった。
《ドイツ少女団》に所属する、全ての団員から特別に選ばれたというが、何かの間違いではないのか。クララのような大人びた聡明さもなければ、カオルのような特別な技術があるわけでもない。グレーテルに関しては……良く分からないが、ここにいるからには何か優れた特技でもあるのだろう。
それに引き換え、アーデルハイトは少し柔道が出来るくらいで、他にたいした才能もない。あるのは旺盛な食欲で、学校の成績なぞ中の下くらいだ。
「なんだか、私に出来るかなあ」
つい弱音が出た。みんなの足を引っ張る存在にはなりたくない。肩をションボリと落としたアーデルハイトに、意外にもカオルが声を掛けた。
「案ずるな、ゲッベルスさまが選ばれたのだ。もっと自分に自信を持て」
「カオル……」
「そうよ、ハイジ。貴方は自分の素晴らしさに、きっとまだ気が付いていないだけ。今からそれを探せばいいわ」
クララも微笑む。
「いやいや、案外フツーな子が一人くらいいた方がいいって、ゲッベルスさまが考えたのかもしれないよ。クララとかカオルみたいな高嶺の花ばっかだと、親近感が湧かないしさ」
「グレーテルったら、余計なこと言わないの」
グレーテルの言葉に、アーデルハイトの脳内で疑問符が点滅する。親近感? いったいなんのことだ?
「だって、どうせ言うことなんだしさあ。ほらほら、ハイジだって聞きたがってるんだから」
「もう、仕方ないわねえ」
肩をすくめてから、少し恥ずかしそうにクララはこほんと咳をした。
「実は、十一月の作戦で私たちがそれなりの実績を残せたら、私たち映画に出演することになっているの。これはあくまで、仮の予定だけど」
「えええ? え、映画?」
「驚くのも無理はないわね。実はこれも、この《白薔薇十字団》の、もう一つの目的なのよ。映画を通してドイツの国民に、ユダヤ人排斥政策の重要性を訴えるというゲッベルスさまのお考えなの」
「ははあ」
「あたしたちはね、ユダヤの巨悪と戦う、正義の美少女戦士なんだよ。映画の題名も、もう決まってるんだから。あたしが付けたの、すごいでしょ」
グレーテルが胸をはる。
「ひょっとして……。それがさっきクララが言っていた、カラー映画?」
「そうなの。ドイツで初めての、画期的なカラー映画になる予定なのよ。監督は、レニ・リーフェンシュタールさまがして下さるとか」
「あの『意志の勝利』の? すごい!」
「ただ、あくまでも十一月の作戦の成功如何だから。そう考えると、いろいろ楽しみにならない?」
グレーテルがいつの間にか何処かから持ってきたスケッチブックに、鉛筆で何かを書いていた。
「これが映画の題名だよ」
グレーテルが広げて見せた白い画用紙には、でかでかとこう書かれてあった。
宣伝相がプロデュースしたアイドルを、総統閣下はお気に召されたようです
「ね、かっこいいでしょ?」
「う、ううーん」と返答に困ったアーデルハイトに、グレーテルは眉を顰めて納得のいかない顔をする。
「なによ、どこが不満なわけ」
「ちょっと、題名が長すぎるような」
おそるおそる答える。グレーテルはふんと鼻をならして、いかにも馬鹿にしたような顔をした。
「これだから、シロートは困るなあ。これから、こういう訳わかんないくらい長たらしい題名が流行るんだって。あたしはその先駆けとなるんだから」
「ああ、そうなの」
「分かってないなあ。ゲッベルスさまなんか、絶賛してくれたよ。独創的で素晴らしいって、ものすごおおく褒めてくれたんだから。やっぱり一国を担うほどの天才は違うよね」
「は、はあ……」
答えに窮するアーデルハイトに、クララもカオルも笑いを堪えている。
「この制服も、ゲッベルスさまがデザインされたのよ」
クララがスカートの裾をつまむ。
「親衛隊の制服を基調としているの。なかなか斬新でしょ?」
確かに斬新と言えば斬新だ。踝まであったスカート丈を短くしたのは、たしかココ・シャネルだと聞く。その彼女ですらひっくり返るくらいの、衝撃的な短さだった。膝上まである白い長靴下と、黒く短いスカート丈から覗く太もものわずかな隙間が、クララの長く形の良い足を引き立てている。
「ゲッベルスさま曰く、これこそが近未来的な女学生の制服、なんだってさ」
グレーテルはスカートの裾を捲りあげた。唖然としたアーデルハイトは、彼女のスカートの下に、レースのフリルが幾重にも重なる黒いブルマーを認める。
「ね? パンツじゃないから、見えても恥ずかしくないんだよ。えへへ」
「もうグレーテル。いくらなんでもはしたないから、やめて頂戴」
クララはため息をついた。カオルはカオルで、窓の外を見てしらんふりをしている。
アーデルハイトはここに来る時、アッシェンバッハ少尉が言っていたことを思い出した。
(この計画はある意味、非常に類まれな発想による計画と言える。別の言い方をすれば、珍奇と言っていい)
たしかに話を聞けば、彼がこう表現したことはまことに的確だと言えた。
(ゲッベルスさまって、なんだか私が考えていた感じと、ちょっと違うかも……)
少女団や女学校で度々上映された映画では、理想的な父であり、模範的な夫である宣伝相の姿が映し出されていた。国家の忠臣とも言うべき謹厳実直なその姿は、アーデルハイトだけでなく、他の少女たちからも、尊敬と畏怖の目で見られていたものだ。
しかしどうも、今の話を聞けば、実はもっとお茶目な人なのかもしれないと思えてくる。宣伝省の執務室で、懸命にアーデルハイトたちの制服をデザインする彼の姿を想像すると、なんだかおかしさと微笑ましさがこみ上げてくるのだ。
まずは、このスカートの短さに慣れることが、団員生活一日目の課題となりそうだ。でもとても父とハンナには、正直に手紙に書けそうにない。制服を着た娘を見て昏倒する父の姿を想像し、アーデルハイトは可笑しさを噛み殺した。




