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少女は便箋を畳み、封筒にしまった。いつの間にか隣の女性客は頭をぐらぐらさせて、幸せそうに舟を漕いでいた。他の乗客たちも新聞を読んだり、眠ったりして、少女を気にかけている者はいない。
膝上の包みに目を落とし、パンの下に隠した黒い染みのついたハンカチにそっと触れた。彼女の温かな鮮血がこびりついた生地は、糊をつけ過ぎたみたいに固くなっている。裏返すと、刺繍の上にも黒い染みはところどころに飛び散って、治りかけた傷口の瘡蓋を思わせた。
これを死体から持ち出しのは、グレーテルだと直感で分かった。もし保安警察の手に渡っていれば、二度とお目にかかることは不可能だったろう。
血痕が他の乗客に見えないよう両手のひらで包み込み、唇に押し当てる。吸い込んだ彼女の血の臭いはどこか、淀んだ海を漂う死んだ魚の匂いに似ていた。
結局、あのとき彼女が何を言わんとしていたのか、もう永遠に知ることはない。分かったとしても、その言葉が今更何の役に立つだろう。
己の手で潰したものを嘆くことも、悔恨も贖罪の意も何もなく、そんなものを感じるには、あまりに多くを失い過ぎていた。
「あら、また雪ですよ。よく降りますわねえ」
目を覚ました隣席の女性が、目をしばたたいてあくびをした。
「今年はいつもより雪が早いですな」
「本当ですわね。アパートの雪かきが大変だわ」
乗客たちのたわいもない会話を聞きながら、寒さで曇った窓を拭い、外の光景を少女は見つめた。ベルリンからひたすら南を走る列車は、ニュルンベルクを目指し、闇に沈んだ緑地帯を抜けていく。葉を落とした木々も常緑樹たちも等しく雪を粉砂糖のようにまぶされ、辺りは何処までも、夜の漆黒を吸い込んだ灰色に覆い尽くされていた。
少女はハンカチをパンの下にしまうと、再び封筒から便箋を取り出し、広げて真ん中から一気に裂いた。他の乗客があっけにとられるなか、注視をものともせずに細かく裂き、右手のひらに納める。窓を開け、身体を乗り出す。そして握ったこぶしを突き出して、開いた。
「もう、寒いじゃないの」
女性の抗議は流れる風に掻き消され、一瞬で舞い上がり散っていった紙片たちを見送るように、虚空に目を凝らした。
雪片と見分けのつかないそれらは、この地に埋もれ、やがて土に還るだろう。耳が痛いほどになりながら、流れる雪と風に己を委ねるかのように、外気に身をさらす。
常識外れの振る舞いに呆れたのか、他の乗客たちは荷物を手に、他のコンパートメントに移っていった。
「今の若い子は、礼儀ってものを知らないのかしら」
女性客はコートの襟を立て、捨て台詞を吐きつつドアをぴしゃりと閉める。
地平の果てに遠い街の明かりを望み、ドレスデンのカールのことを、そして彼を愛したカオルのことを考える。
カオルは己の心を守るため、この国を、ドイツを離れるのだろう。まだ守るものがある彼女を、少女はほんの一瞬羨ましく思った。
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この翌年一九三九年九月一日、ドイツはポーランドに侵攻。これを受けて九月三日にイギリス、フランスがドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が始まった。その後のことは、歴史に記されている通りである。
これ以降の、関係者たちの消息を簡単に記しておきたい。
イルマ・グレーゼ
サナトリウムでの看護師勤務の後、一九四一年にラーフェンスブリュック強制収容所で看守としての訓練を受ける。その後、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所勤務。
一九四五年四月十七日、ベルゲン・ベルゼン強制収容所にて英国軍により逮捕される。同年十一月十七日、リューネブルクで行われた戦争裁判にて死刑判決を受け、十二月三日、ハーメルンで絞首刑に処された。
クララ・ミュラー・ラウバル
保安警察本部勤務の後、総統の護衛として影のように付き従う。ベルリン攻防戦に至っても片時も側を離れず、一九四五年四月二十九日、総統と愛人エーファ・ブラウンの結婚を見届け、翌日の二人の死にも立ち合った。
五月一日、地下壕にて拳銃でこめかみをうち抜き自殺。なお、親衛隊としての彼女の存在は非公式のため、公の記録には残されていない。
カオル・サンジョウ・ローゼンタール
日本に渡った後、横浜に住んでいた父方の親戚に身を寄せ、そこで女学校を卒業する。卒業後はドイツ語を教える教師になり、思い出深い神戸のミッション系女学校に勤務した。
一九四五年三月十七日の神戸大空襲で、逃げ遅れた女生徒を助けようと火災に巻き込まれ、死亡。
マルガレーテ・フォン・エッセンベック
ベルリンの遠縁に身を寄せていたが、開戦後、クララの強い希望で親ナチスだったスイスの銀行家の養女となる。ジュネーブにあった全寮制の女学校に通い、卒業後は養父の銀行でナチスの隠し預金口座の運営に関わっていた。
ベルリン陥落の報を知らされた後、誰にも告げずに行方をくらました。その後の消息は一切不明。
ヘルムート・アッシェンバッハ
ブーヘンヴァルト収容所勤務の後、あちこちのドイツ国内強制収容所を転々とする。一九四三年以降はダッハウ強制収容所に勤務していたが、一九四五年四月二十九日、到着したアメリカ兵により射殺され死亡。
カール=ハインツ・ローゼンタール
亡命ユダヤ人をほう助する活動に関わり、偽造パスポートを発行した罪で、一九四一年二月に逮捕される。国内の強制収容所に収監された後、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所へと移送された。
同年七月末、脱走者の見せしめのため、他の九名の収容者とともに餓死刑に処せられ、八月十四日死亡が確認された。
リリー・サンジョウ・ローゼンタール
カールが逮捕された後、ドレスデンでマックスと共に夫の帰りを待っていた。カールの死を知らされた後も、彼との思い出が詰まったドレスデンに留まり続ける。
一九四五年二月十三日から十五日にかけて行われたドレスデン爆撃で、マックスとともに焼死した。
ヨハン、アンナ夫妻
一九三八年十二月、クララとグレーテルが屋敷を引き払った後、屋敷へと戻って管理人を続ける。一九四五年一月三十日、空襲により屋敷は爆弾の直撃を受け、防空壕ごと吹き飛んだ。ヨハン、アンナともに死亡。
なお、ポツダムの娘夫婦は戦争を無事生き延び、一九八九年のベルリンの壁崩壊と、翌年のドイツ統一を見届けた。
パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス
反ユダヤキャンペーンの中心からは外れたものの、その後も精力的な活動を続け、国威発揚とユダヤ人迫害を目的とした映画を次々と製作した。
一九四五年五月一日、マクダ夫人との六人の子どもを死なせた後、夫婦ともに拳銃で自殺する。
遺体はガソリンをかけられ焼かれた後、黒こげの状態でソヴィエト兵に発見された。
そうして時は流れる――




