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14-1

 降り続いた雪が一度止み、雲間から射した陽に溶け、夜になって凍った。その上に降り積もった雪はやがて横殴りの吹雪となり、あっという間にベルリンを銀白の世界へと変えてしまった。

 新しい身分証明書の発行に手間取り、ようやく屋敷を出発出来たのは十七日の夕方だった。ポツダム広場の南、アンハルター駅のホームに立った少女が抱えたトランクは、半年前ここに佇んだ時よりもずいぶんと軽くなっていた。


「身体に気をつけて」


 制服の上にコートを羽織ったクララが、皮手袋をはめた手で少女の頬を撫でた。こうして改めて見ると、クララの親衛隊の制服姿は美しすぎるほどだ。隣にはグレーテルが大きな紙包みを持って、何か言いたげな様子だった。


「新しい身分証明書、失くさないでね」


 クララが少女のオーバーの上から胸元に指を立てる。そして探るような目で訊ねた。


「本当に、この名前で良かったの?」


 少女が黙って頷く。名前だけは好きなのを選んでいいと言われた時、思い浮かんだのがこれだった。他の名前など考えようがなかった。アーデルハイト・フォン・マイヤーは記録ごと消滅し、もうこの世界の何処にもいない。これから自分は死ぬまで、この名前とともに生きるのだ。


「ハイジ……じゃなくてイルマ、これ汽車の中で食べて」


 グレーテルが両手で差し出した包みを受け取る。グレーテルの哀しげな表情を見て、ドレスデンの祖父を思い出し胸が痛んだ。行方不明になった孫のことを知らされた時、きっと祖父は悲嘆にくれるだろう。そう分かってはいても、今さら自分が出来ることは何もなかった


「もう二度と会えないけどさ、元気でね」


 乗るのはバーデン=バーデン行きの列車だ。温泉保養地にある親衛隊将校専用のサナトリウムで、看護婦見習いとして働くことが決まっている。一流ホテルのようにきれいな施設で、待遇は悪くないという。

 出発の汽笛が鳴り、ホームを車掌が歩いて客たちに乗車を促した。最後にクララ、グレーテルと握手を交わし、少女は列車に乗り込んだ。荷物を棚に上げ、コンパートメントの窓を開ける。風が吹き込み、同室の客が眉をひそめるのにも構わず、二人に手を振った。

 列車がレールの上を滑るように走りはじめ、ホームを出る。ホームの端まで二人は駆け寄って手を振り続けていた。その姿も点になり、ようやく少女は窓を閉めた。


「まったくこの寒いのに、最近の若い子は自分勝手ね」


 隣に座っていた中年女性の嫌味にも耳を貸さず、窓枠に肘をつく。ふと膝上の紙包みが気になり、紐をほどいて油紙を広げた。なかにはパンとソーセージの他に、手紙が一通と黒い染みのついたハンカチが入っていた。はっと息をのんで、ハンカチをパンの下に隠し、封筒を手に取った。

 手紙の差出人は、予想通りカオルだった。

 クララの話では真相を聞いたカオルは、危惧していたほど動揺していなかったという。いつまでも見舞いに来ないことを不審に思い、クララやグレーテルの態度から何かがあったと察していたそうだ。

 白い無地の便箋を開け、お揃いの便箋を取り出して広げた。紙面には見馴れたカオルの几帳面な文字が、行儀正しく並ぶ。

黒い万年筆のインクがところどころ滲む文章を、じっと目で追った。



* * * *



 ハイジへ


 色々と心配をかけてすまなかった。今日やっと枕から頭を起こせて、手紙を書けるようになったので、こうしてハイジに向けて一筆したためている。

 クララから話は聞いた。とても言葉にならないほど残念だが、今となってはどうしようもないのだな。せめて私が側に居てやれたら、何かが違っていたのかもしれないと思うと、後悔してもしきれない。

 ハイジとイルマ・グレーゼとの間に何があったのか、私は分からないし想像もできない。だから、私からこの件については何も意見を言うことは出来ない。ただ、もうハイジに会えないことが、寂しくて仕方がないということだけだ。

 それ故、この手紙は私からハイジへの一方的な告白になってしまうが、どうか許して欲しい。


 あの夜のことを、ハイジにどうしても聞いてもらいたかった。計画実行の夜、私はカイザー大通りにいた。そこで何を見たのか。ハイジだけには伝えておきたかったのだ。

 実は私はあの夜、任務を全うすることが出来なかった。ショーウィンドウの硝子を割るために店の前に立っても、どうしても身体が思うように動いてくれなかったのだ。

 卑怯だと自分でも思う。クララやハイジに汚れ役を押し付けて、自分だけが奇麗な手のままでいることは望んでいない。そんなことはもう心に納得させていたはずだったのに、手が震えて上手くゴム棒を握れずにいた。

 そのうち、突撃隊たちが他の通りから押し寄せ、私を追いこして店を荒らし始めた。その獣じみた振る舞いと、壊されてゆく店内の惨状に私は胸が悪くなり、逃げ出したのだ。


 臆病者と笑ってくれていい。事実そうなのだから。そうして、カイザー大通りをでたらめに歩いていた。

 薄暗い小さな通りの角に差し掛かった時、不穏な気配を感じて、街燈の消えた奥へと吸い込まれるように近寄った。今思えば、ずいぶんと危険なことだったが。

 暗闇の中に数人の息遣いが聞こえ、私はとっさに背中の刀に手を伸ばしていた。次第に闇に目が慣れると、蠢いている小山のようなものが、突撃隊の男たちの背中であることに気付いた。しかも一人の男は制服のズボンを下げ、白い尻を剥き出しにしている。

 こんなことを書くのは、本当に辛いことだ。今思い出しても、おぞましさで吐き気がする。


 はじめ私は一体何がそこで行われているのか、全く分からなかった。男が荒い息を吐きながら、身体を上下に動かし、なにか白く長いものを抱えていた。それが女の人の足だと理解した時の、私の衝撃を想像して欲しい。

 一瞬で頭に血が上った経験は、あれが初めてだ。気がつけば「やめろ!」と叫び、刀を抜いて男たちの前に立ちはだかっていた。邪魔をされた突撃隊たちは慌てて懐中電灯をつけたのだが、小娘一人だと油断したのだろう。なれなれしい笑みを浮かべて近づいてきたが、その一人の足を峰打ちで払うともんどりうって転げ回った。

 それを見て怒った男たちが、棒を振り回し向かってきたが、全て峰打ちで気絶させた。彼らが地面に伸びてしまうと、襲われた女性を介抱するために、転がった懐中電灯を手に取ったのだが……。


 そのあまりの痛ましさに、私は言葉を失った。

 ひどいものだった。例えて言うなら、狼か野犬の集団に食い荒らされた家畜みたいだった。服は荒々しく裂かれ、殴られたのか頬がまだらの痣になり、目じりと口の端が切れて血が流れていた。それだけではない、足の間からも血やいろんなものが流れて、奴らの蛮行を如実に物語っていた。

 女性はぐったりとして、もう息をしていなかった。身体はまだ温かかったが、時間の問題だったろう。


 その時、どこかから風が漏れるような音が聞こえた。驚いて音のした方を見ると、暗い隅で小さな男の子が両膝を抱え、震えながら座っているではないか。

 声を立てないように歯を食いしばり、そのために荒い息遣いが、まるで森の中を通り抜ける風のような音を立てていたのだ。

 一瞬で女性は彼の母親なのだと、分かってしまった。

 あの子は自分の母親が凌辱されているところを、ずっと目の当たりにしていたのだ。それを思うと急に足元が震え、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。

 私はふらふらと少年に近寄り、手を伸ばして触れようとした。だが、彼は一瞬先に飛び退き、私の横をすり抜けて母親の身体に駆け寄った。


「おかあさーん!」


 身体を引き裂くような、悲痛な叫び声だった。そして彼は涙で一杯になった目で私を睨みつけた。これ以上の憎しみはないという陰惨な目つきで。

 あの目を、未だに忘れることが出来ない。まだ六つそこそこの幼い少年の中に、世界中の憎悪が凝ったような目だった。あの瞳はどんな武器よりも、私の心をズタズタにしたのだ。


 それからのことは、よく覚えていない。

 いつの間にか屋敷に辿りついて、広間でアンナさんの顔を見たのが記憶の最後だった。


 なあ、ハイジ。これからのドイツはどうなるのだろうな。


 総統閣下の理想は、本当にハイジたちを輝かしい未来へと導くのだろうか。

 私は日本に居たとき、ユダヤ人の友達も日本人の友達もいた。私のことを「毛唐とのあいのこ」と言って嫌う日本人もいたし、全然気にしない友達もいた。ユダヤ人だって同じだ。気の合う子もいれば、そうではない子もいた。


 ユダヤ人や日本人、あるいはドイツ人だろうが、私にとっては大切な友人たちだった。総統のおっしゃる通り、そこに人種の優劣などあるのだろうか。

 ユダヤ人が世界を思い通りに動かし、陰謀を企てているという話が、真実なのか私には分からない。もしそれが本当だったとしても、そのためにあの親子の、そして市井に暮らすユダヤ人たちの、ささやかな幸せを踏みにじることが正しいことなのか、私は答えを見いだせないでいる。


 身体が回復したら、いったんドレスデンに戻り、年が明ける前に日本へ行くつもりだ。もうドイツには戻らない。

 おそらく、この国に私のような人間が生きられる場所はないだろう。父方の親戚にしばらく世話になり、なるべく早く自活しようと思っている。

 指きりしたのに、一人で日本に帰ることになってしまってすまない。だが、私もハイジももう二度と会わない方がいいのだろうな。


 宣伝相と保安情報部は、この《白薔薇十字団》計画を記録から抹消し、闇に葬るらしい。私たちがこれ以後会うことは、かたく禁止されるそうだ。たとえドイツに残っていたとしても、もうクララやグレーテルと手紙のやりとりも出来ない。とても寂しいことだ。


 母がハイジにとても会いたがっていた。母にはハイジのお父上が具合を悪くしたので、一足先にミュンヘンに帰ったと言ってある。別れの挨拶も言えなかったと、たいそう残念がっていたよ。

 カールと母には、本当に申し訳ないことをしてしまった。

 私がドイツを離れるのは、彼らへの贖罪の意味もある。ほんのささやかなつぐないだが。二人には、マックスと幸せになって欲しいと神様に祈っている。そして、いつかこの想いを遠い昔の笑い話として、他人事のように話せる時が来ることを願っているのだ。


 さようなら、ハイジ。半年の短い間だったが、本当に楽しい時間だった。こんな終わり方になってしまったことを、心から悔しいと思う。


 この手紙は、ハイジに迷惑がかかるといけないから燃やすか、誰の目にもつかないように捨てて欲しい。

 元気で、身体に気をつけてな。



 カオル・サンジョウ・ローゼンタール


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