13-3
クララの置いて行ってくれた毛布と湯たんぽは、何よりもありがたい差し入れだった。湯たんぽを足元に置き、厚い毛布にくるまると、急に眠気を催してきた。
イルマ・グレーゼの遺体はもう引き上げられ、何処かへと埋葬されたのだろうか。大量に吹き出し滴り落ちた血は、床に大きな染みを作ったに違いない。
彼女をこの手で殺したことにも、もう何の感情も湧いてこなかった。全てがどこか遠い昔の出来事のような、忘却と無感情の薄膜に包まれている。身体を丸めて目を閉じ、春の泥濘にも似た生ぬるい眠りへと潜り込んだ。
まどろみの中、誰かが音もなく傍らに寄り添い、唇に柔らかなものを押し当てたような気がしたが、全ては夢だったのかもしれない。
深い眠りの最中に、いきなり襟元を掴まれて叩き起こされた。
はじめ、アーデルハイトは何が何だか分からず、自分が何処にいるのかそれすら失念していたのだが、うっすらと開いた瞼の先にアッシェンバッハの悪鬼の形相が見えた途端、全てを思い出した。
何かを言葉にしようとした矢先、頬を張られた衝撃で耳に激痛を感じた。
「いい気なもんだな、フォン・マイヤー」
アッシェンバッハが掴んだ襟を床に叩きつけるように離す。アーデルハイトは背中を床に打って、カエルが潰されたようなうめき声を上げた。
「貴様を少し見くびっていたようだよ。まさか、あのイルマ・グレーゼを殺すとはな」
荒い吐息と共に、アッシェンバッハの顔が近づいてきた。人殺しの目だと一瞬で分かった。全てが指の隙間から滑り落ち、失ってしまった人間が持つ絶望と狂気。だが、彼に殺されるのなら、それも悪くないと心のどこかで諦めていたのも事実である。
アッシェンバッハの指が荒々しげにアーデルハイトのジャケットの釦を外し、シャツを引き裂いた。女の防衛本能から思わず身体を起こそうとすると、もう一度頬を張られ、目から火花が出るほどの衝撃が走る。抵抗する気力が失せ、瞼をきつく閉じて、彼の手が下着を引きずり降ろすのにじっと耐えた。
胸が冷やりとした外気に晒され、羞恥心と屈辱に震えながらこれは罰なのだろうかと考えた。イルマ・グレーゼを殺した罰。いいや、そもそも、ユダヤ人の少女に心を奪われたそのことが大罪なのだから。
スカートをめくられ、タイツに手をかけられた時、外の廊下で数人の足音が忙しなく近づいて来るのが聞こえた。
弾かれたようにアッシェンバッハがアーデルハイトから離れる、と同時に、勢いよく扉が開かれた。仰向けにされたアーデルハイトの目に飛び込んできたのは、鉄兜を被り、長銃を携帯した二人の兵士と、フィールドグレーの制服に身を包んだ小柄な親衛隊員だった。
「この期に及んで婦女暴行ですか、アッシェンバッハ少尉」
聞き覚えのある声に驚いて、身体を起こし、親衛隊員の顔を改めて見た。クララのエメラルド色の瞳が制帽のつばの下で、怒りを押し殺した厳しい光を帯びていた。腰まであった豊かな金髪は、うなじの辺りでばっさりと切られている。
「君こそなんのつもりだ、フロイライン・ラウバル」
「ヘルムート・アッシェンバッハ、あなたには機密情報漏洩の容疑で、逮捕状が出ています。おっしゃりたいことがあるのなら、保安警察本部でお好きなだけどうぞ」
息をのんだ少尉に二人の兵士が近づき、両脇から抱えるように部屋から引きずり出した。
「後悔するぞ、クララ・ミュラー・ラウバル!」
廊下でアッシェンバッハが喚く声を放心状態で聞いていたが、近寄り膝をついたクララに服装を直されて、自分が半裸の状態であったことに気がついた。
「間に合って良かった」
「クララ……、どうして……」
「どう? 似合っている?」
とつばの奥に揺れる、悲しげな瞳が訊ねた。
「今日から、ラウバル少尉になったわ。こうするしか、あなたを助ける方法はなかった」
「どうして、そこまでして助けてくれるの?」
「大切な仲間だからよ」
クララは帽子を取り、ゆっくりとかぶりを振った。アーデルハイトを見つめる目が、遠い記憶を掘り起こすような眼差しになる。
「もう二度と、大切なものを失わないと決めたの」
「クララ?」
「ハイジに隠していたことがあるわ。私の父はね、病気でなくなったのではないの。書斎で首を吊って、自殺した。それを最初に見つけたのは、この私……」
クララは全身を震わせて、己の両手で身体を抱いた。
「今でも夢に見るの、ぶら下がった父の、あの恐ろしい顔。私は誓ったわ、必ず奴らに復讐してみせるって……」
クララと声をかけようとして、いきなり抱きすくめられた。真新しい制服の匂いと、クララの柔らかな体臭が混ざり合い、身体を包み込む。両腕は縋るようにアーデルハイトの背中をかき抱き、肩に顔を埋めてクララは泣いていた。熱い涙が首筋を濡らし、嗚咽が唇から漏れる。
慰めようと震える背中に手を回そうとしたが、その手は止まり、宙に浮いたままになった。かつて彼女に母の面影を感じ、欠けた心の隙間を埋めるように甘えていた。だが、クララはそれとは違った意味で、アーデルハイトを愛してくれていたのだ。それを分かっていながら、答えられない自分がいた。だとすれば、自分にクララを慰める資格はない。
深い喪失と虚脱を感じ、アーデルハイトはなすすべもなく地下室を照らす電燈を見上げた。
愚かな人々の営みを見降ろす球体はどこか、滅びゆく世界の空で寿命を迎えた、太陽のなれの果てに見えた。
****
解放された後、簡単な朝食を食堂で済ませ、荷物をまとめるように言われて部屋へと行った。広間の窓から目を細めて外を覗くと、暗い灰色の空から白い雪片が零れ落ち、庭を白く染めていた。
立て続けに衝撃的な事件があったせいで、アンナさんはとうとう倒れ、ヨハンさんと一緒に屋敷を出たそうだ。色々なことが片付くまで、二人はポツダムの娘夫婦に世話になるらしい。
グレーテルは、カオルの見舞いで病院へと行っていた。
今朝ドレスデンからリリーが飛んで来て、申し分のないほど世話を焼いてくれている。カオルにはそのうち真相を話さなければならないだろうと、クララは暗い顔をして言った。
二階へ上がり、自室へ向かおうとした時、ふとイルマ・グレーゼの部屋へ行ってみようと思い立った。廊下を歩いて扉の前に立ち、思い切ってハンドルに手をかけ引くと鍵がかかっている。ある程度予想していたことだったが、アーデルハイトは落胆し、肩をすくめて踵を返した。
イルマ・グレーゼの私物はほとんどない。あるとすれば、誕生日に贈った刺繍入りのハンカチだけだろう。イルマの言葉どおり肌身離さず持っていたのだとしたら、おそらく血に汚れたはずだ。遺体の所持品として、保安警察に押収されているのかもしれない。
部屋は昨日の朝、出たままになっていた。
アーデルハイトは書き物机の引き出しを開け、しまってあった父とハンナからの手紙の束を取り出した。それからクローゼットの奥に立てかけた数冊の本の中から、ケストナーの『エーミールと探偵たち』も取り出す。そして結局着ることのなかった新しい水着も。
それらを抱え、階段を下りて談話室へと足を向けた。クララと二人きりの屋敷は死んだように静まり返り、降り続く雪が世界の音を吸いこんでいる。壁紙の薔薇色もシャンデリアの煌めきも、鈍色の光のせいでどこか古び、埃を被ったようにくすんで見えた。
扉を開けると意外なことに、談話室の暖炉はいつもどおりに焚かれ、赤々とした炎を抱いていた。クララが火を起こしてくれたのだろうか。そっと手のひらをかざすと、痛いほどの熱が皮膚を焙った。
その中に、父とハンナからの手紙を一通ずつ放り込んで焼いた。父にはどのような連絡が行っているのか分かりかねたが、おそらく彼と会うことも二度とないだろう。今となっては親子の情すら、どこか自分には関わりない、別世界のもののように思える。
封筒から便箋を出し、燃えやすいように一枚ずつかざして火をつける。火のついた便箋は端を焦がしながら丸まり、舐める炎へと消えて行った。手紙をすっかり燃やしてしまうと、次は本を手に取った。
母から贈られ、何度も読み返し、イルマ・グレーゼに貸した本だった。なかのページに手をかけ、少しためらった後、一気に破いて暖炉へと投げ入れる。
数えきれないほどのページが裂かれ、エーミールもグスタフも、教授もディーンスタークも、悪役のグルントアイスも全てが炎の中へと姿を消した。厚紙の表紙は燃えにくかったが、それもやがては黒い消し炭へと姿を変えた。
そして次にハンナから贈られた水着が燃やされ、これでミュンヘンに関わる思い出は、全て灰燼に帰してしまった。
動物園の象の門前で撮影した写真を懐から取り出し、少しの間眺める。それも暖炉に投げ入れて、燃え滓になるのをまばたきもせずに見届けた。
「ハイル・マイン・フューラー!」
全てを焼き尽くし明るさを増した炎に向かって、少女は右手を高々と上げ胸を張った。
ふと、いつの日か授業で暗唱した宣伝相の自叙伝、『ミヒャエル』の一節を思い出し、誰に聴かせるともなく口ずさんだ。
ぼくは老いた神が歌を奏でる楽器にすぎない。
自然が微笑みながら新しい酒を満たす堅固な
容器にすぎない……




