13-2
目の前が真っ暗になるという表現がある。とてつもない衝撃を受けた時の言葉だが、アーデルハイトはそれが正確なものではないことを、身をもって知った。
その時のことを言葉として表すなら、「目の前が真っ赤になった」の方が正しい。まるで全身の血が頭部に集まり、今にも眼窩から噴き出しそうな勢いだった。それなのに心臓は氷を飲み込んだみたいに冷たくなり、手先が痺れて痛い。
イルマはハイドリヒ長官の愛人だった。
アーデルハイトはイルマの唇の感触を思い出した。冷やりとした、剥きたてのオレンジのような柔らかさ。あの唇はとうに、別の男のものだったのだ……。
突如、胃を見えない手で掴まれ、絞られているような激痛が走った。顔をしかめたアーデルハイトに、アッシェンバッハが怪訝そうな顔をした。
「フォン・マイヤー、大丈夫か?」
「はい、平気です」
痛みを堪え、肩で息をして答える。訊ねたアッシェンバッハの瞳に、あからさまな好奇の色があった。その目を見て、彼は何も知らないのだと確信した。グレーテルは、おそらく何も報告していない。だがアッシェンバッハは鋭い嗅覚で、アーデルハイトとイルマ・グレーゼの間に何かがあると嗅ぎつけている。
「君のような年頃の女の子には理解し難いだろうが、大人の世界にはそういうこともある。もう少し君も歳をとれば分かるだろう」
「そうかもしれません」
そう答えた自分の声は、堅く強張っていた。
沈黙が雪のように二人の間に降り積もった。暖炉の薪が爆ぜる音が聞こえ、アーデルハイトは扉の外に耳を澄ませる。クララとグレーテルは、二階から降りてこないのだろうか。ヨハンさんとアンナさんは、もうそろそろ帰って来てもいい頃合いだ。そしてイルマ・グレーゼは……。
「話はこれで終わりだ。報告は今日の午後から頼む。連絡先はここだ」
アッシェンバッハが懐から取り出した紙切れを、黙って受け取った。アーデルハイトの従順さに気を良くしたのか、少尉は立ち上がると、出がけに肩を親しげに叩いた。
「何も君に、ただ働きさせるつもりはないさ。それなりの見返りは期待してくれて構わない。それと、これはクララとグレーテルには内密の話ということを、忘れないでくれ」
少尉が扉を閉める音を背中で聞いた。そのままアーデルハイトは椅子に座ったまま、呆けたようにじっとしていた。しばらくたってから、ようやく渡されたメモを開き、書かれた連絡先に目を凝らす。だが、今のアーデルハイトにとって、それは何ら意味を成さない文字の羅列に過ぎなかった。
裏切られたというのが正直な気持ちだった。二人だけの神聖な場所に、土足で踏み込まれ、汚された。
奥手のアーデルハイトでさえ、少尉の言ったことの意味は分かる。同級生がこっそり見せてくれた猥本で知った、獣じみた男女の行為。それと同じことを、イルマ・グレーゼもしていたのだ。あの芸術的なまでに美しい身体を、男の前に、あられもなく開いて。
自分という存在は、彼女にとって一体なんだったのか。
長官との爛れた関係の憂さを晴らす、気紛れでしかなかったのではないのか……。
己の中で、何かがふつりと切れる音を聞いた。
アーデルハイトは手にしたメモを、両手で思い切り引き裂いた。再現不能なまでに細かく破いてしまうと、床に撒き散らす。それを立ちあがった足で、憎々しげに踏みつけた。
全てが汚濁にまみれてしまった。最後まで守り通そうとしたイルマのための大切な場所まで、彼女自身の手で凌辱されたに等しい。気の済むまで紙片を踏みつけると、大きく息を吐いて、制服のスカートの皺を手のひらで伸ばす。
こんな時でも、いつもの習慣は忘れない。おかしなものだと、アーデルハイトは自嘲気味に嗤った。身体中を憎悪が荒れ狂い、吹き出す場所を求めて彷徨っているというのに、頭の芯は恐ろしいほど醒めている。
扉のハンドルに手をかけ、ゆっくりと部屋を出た。広間に出て階段を上がり、自室に辿りつくまで、誰とも顔を合わせなかった。
音を立てないように扉を開け、そっと閉めた。そろりとクローゼットに近づく。クローゼットの一番下の奥を探ると、ホルダーに納まったままのヴァルターP38を、引きずるように取り出した。本当ならアッシェンバッハに返還しなければならないのだろうが、暴動の後のごたごたでここに仕舞ったままだった。
ホルダーから銃を外し、制服のジャケットの下に、小脇に抱えるように隠した。そしてまた忍び足で部屋を出た。
拳銃を回収しなかったことを、アッシェンバッハは死ぬほど後悔するに違いない。いい気味だと、アーデルハイトは心の中で高らかに嘲笑った。
* * * *
予想通り、イルマは図書室にいた。
いつものようにテーブルに座り、本を読んでいる。アーデルハイトが扉を開けた音に少し目を上げ、そのまま見つめ続けた。まるで気が遠くなるほど待ち侘びた人のような、凝縮した時間と感情を沈ませた瞳だった。
その顔に、アーデルハイトはゆっくりと銃口を向けた。冷やりとした銃の台座が、手のひらの熱を奪ってゆく。その硬質な輝きは二人の間にあって、流れる時間さえ凍りつかせるかに見えた。
イルマ・グレーゼは驚かなかった。このような状況になることなどとうに分かっていたと、灰色の双眸は語っている。本を閉じ、傍らに置いた。
短い沈黙が流れた。柱の時計がコツコツと時間を刻む音だけが、部屋の中を空しく響く。ようやくアーデルハイトが、静かな声で問い掛けた。
「ユダヤ人だって本当?」
「ええ、そうよ」
「……ハイドリヒ長官の愛人だっていうのも?」
「ええ、本当」
イルマはそう答え、そっとはにかむように笑った。
その微笑みは一瞬にして、二人の間に八月のひと時を鮮明に甦らせる。
あの日に浮かべたものと同じ表情だった。アレクサンダー広場で、午後の陽を背に見せた、奇跡のような笑顔。輝かしい夏の空の下、イルマの灰色の目も銀色の髪も、全てが金色の光線に染まっていた。
あれは、なんという神々しい瞬間だったのか。
あの時、二人は言葉に出さずとも、互いの全てを分かり合えていた。神話の世界にしか存在しない、永遠の楽園の入口に自分たちは立っていたのだ。
そしてそれは今、永久に失われ、二度と手に入らない。
イルマは微笑みを浮かべたまま、アーデルハイトの方へと指先を伸ばした。何かを差し出しているようにも、こちらへといざなっているようでもあった。
イルマ・グレーゼの形の良い唇が動き、聞こえぬほど小さな声で何かを語る。その意味を理解するより先に、指は引き金を引いていた。
三発の銃声は屋敷に響き渡り、最初に図書室に駆け付けたのはグレーテルだった。
「ちょ……、ハイジ、これ……」
さすがのグレーテルも言葉を失う。真っ青な表情で、慌てて部屋を出ていった。
テーブルに突っ伏したイルマ・グレーゼの頭から、夥しい血が流れ出て、端から床へと滴り落ちていく。あの人形のような美しい顔立ちは、鉛弾をめり込まされ、もう今は見る影もないだろう。
「ハイジ!」
開いたままの扉から、クララが飛び込んできた。反射的に銃を自分のこめかみに押し当て、引き金をひきかける。が、思い切り横面を張られ、反動で床によろめいた。
「ああ、なんてこと! こんな、こんなことになるなんて!」
床に仰向けになり、クララの悲痛な叫び声を、どこか遠くで聞いていた。痛む頬が熱を持っている。とりあえず命だけは助かったらしい。
でも、何もかもが終わったのだ。
あの三発の銃弾とともに、アーデルハイト・フォン・マイヤーの魂もまた死んだ。
己のなかにあった、全ての過去と価値観が崩れ去る音を、その耳ではっきりと聞いた。そうある意味、彼女はこの時、人間ではなくなってしまったのかもしれない。
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警察に突き出されると思ったが、連れて行かれたところは屋敷の地下室だった。使わない木箱がたくさん積まれてある部屋は、裸の電球が一つぶら下がっているだけだ。
蝋燭灯の明かりにも似たうすぼんやりとした光は、周囲の壁や冷たい石床を、悪夢の光景のように浮かび上がらせた。換気が悪いせいで、カビの匂いが鼻をつく。
誰が自分をここに押し込めたのか、覚えていない。クララだったのか、或いはヨハンさんだったのか、記憶がすっぽりと抜けている。部屋の隅に置かれた簡易トイレを眺め、これをここに据えたのがグレーテルだったことを、芯が痛む頭で思い出した。
「しばらく出られないからさ、これで用を足すんだよ」
たしか、そう言っていた。まだ使っていないが、そのうちお世話になるのだろうか。あれからどれくらいの時間がたったのか、今が何日で何時なのかも分からない。瞼を閉じ眠ろうとしても、堅く冷えた床は氷上に横たわるに等しく、背中と腰に痛みを感じて目が冴えてしまう。
空腹で胃が縮み、時折苦い胆汁が喉元までせり上がって、その度に海老のように身体を曲げて大きく息をした。寒さと飢えに霞む頭で、これからのことを考える。
まさか一生ここに閉じ込められるわけでもないだろうが、ここを出てどうなるのだろうか。おそらく、どこかの収容所へと収監されるはずだ。いつか新聞で見た、しましまの囚人服を着せられた自分の姿を思い浮かべてみる。おかしなことに、不思議と恐怖感は湧いてこなかった。
「ハイジ、大丈夫?」
厚い木の扉の外から、クララの声が聞こえた。返事を待たずに、鍵を開ける音が聞こえ、静かに開いた隙間からクララが滑りこんでくる。手にした盆には、温かい湯気の立つ深皿が載っていた。カビ臭い室内に、様々な香辛料を煮込んだ匂いが満ちて鼻孔をかすめる。
「お腹がすいたでしょう? やっと持って来られたわ。身体が温まるから、食べて」
「今、何日なの?」
「十三日。夜の九時よ」
熱いから気をつけてねと渡された皿を、震える手で受け取った。皿の熱で強張った指先を温めていると、クララの手が包み込むように触れた。
「こんなに冷たくなって、可哀そうに」
声は沈んでいたが、アーデルハイトの顔を覗きこんだ目には、励ますような明るさがあった。
「いいニュースがあるの、カオルが意識を取り戻したのよ」
「カオルが……」
「ええ、夕方に病院から連絡があって、グレーテルと二人で行って来たの。でもまだ絶対に安静だから、ショックを与えるようなことはダメだって。だから……」
クララはそこで言葉に詰まり、アーデルハイトの手を離した。
「ハイジのことは、なにも言っていないの。カオルは話せる状態じゃないけど、ハイジは家で留守番しているって教えたら、嬉しそうに笑って」
アーデルハイトはその時、カオルの顔をよく思い出せない自分に愕然とした。最後に会ったのは、たったの四・五日前だ。それなのに、まるで十年くらい前のことのように記憶がぼんやりしている。イルマ・グレーゼを殺したことで、自分の頭はおかしくなったのかもしれない。
後ろでまとめた濃い栗色の長い髪、切れ長の涼しげな瞳、凛とした後ろ姿と、その背に負っていた父の形見の日本刀。それらの外郭を何となく思い出せても、なぜかピントの合わない映像のようにぼやけてしまうのだ。
「ハイジ?」
クララに嬉しくないのかと視線で問われ、弱々しい微笑みで返す。以前の自分であれば、飛び上って喜んだだろう。だがその姿と同じく、カオルに対する心情もやはりどこか精彩を欠き、何の感慨も浮かび上がってこないのだ。
「ごめん、クララ……」
そう謝るより他なく、クララはその言葉に眉をひそめて目を伏せた。
「アッシェンバッハ少尉に何もかも聞いたわ。完全に彼の責任よ。ハイジのせいじゃない。彼が焦って勝手にしたことだわ。ハイジをスパイに使うなんて許せない」
「どういうことなの?」
「少尉は計画の中断で、ブーヘンヴァルト収容所の書類整理に回されることになったの。言ってしまえばお払い箱。それで、なんとかしようと焦ったのね。ハイジを使ってイルマ・グレーゼから情報を引き出せば、ハイドリヒさまかゲッベルスさまに、恩を売れるとでも思ったんじゃないかしら」
クララはそこで料理の皿に目をやった。
「シチューが冷めてしまうわ。早く食べないと」
添えられたスプーンで、まだ温かい液体を胃袋に流し込む。久しぶりに味わう、ウサギのシチューだった。空腹が極限を過ぎてむしろ食欲を感じなくなっていたが、香草と干しトマトの香り高いスープを一口啜って、身体中の細胞が瞬く間に目覚めるのが分かった。
皮肉なものだと思う。一度は死を強く願った。それなのに空腹は、生を渇求する肉体を容赦なく露呈する。皿はあっという間に空になり、流れる血の温もりを、己の皮膚の下に感じた。
「イルマ・グレーゼのことは、ハイドリヒ長官の指示で、引き続きグレーテルが監視を任されていたの。彼女がこの屋敷に戻ったのも、そのことがあったからだったのだけど」
「じゃあ、少尉は全くの蚊帳の外だったんだ」
「ええ。この件に関しては、彼は完全な部外者だったの。それが気に入らなかったし、このまま僻地に左遷させられることを焦ってもいた。だから、あなたにイルマのスパイをさせるなんて、独断専行に走ったんだわ」
アッシェンバッハも必死だったのだ。今から考えれば、彼に構わずクララとグレーテルを部屋に呼んでしまえば良かったのだ。だがもう後悔しても遅い。こうなってしまった結果に、誰より歯噛みをしているのは少尉その人だろう。
「わたしは、どうなるの」
床に置いた空のシチュー皿を眺め、一番気になることを訊ねた。もっとも答えは分かっているし、分かったところでどうにかなるものでもない。
「この件に警察が介入することはない。たぶん、どこかの収容所に行くことになると思う」
「そうだよね、きっと」
「でも、そんなこと絶対にさせない」
クララはハッキリとした声で、アーデルハイトを正面から見据えた。「必ず、ハイジを自由の身にしてあげる。命にかけて約束するわ。だから、希望を捨てずに待っていて」
決然と固い意思を秘めた眼差しに、アーデルハイトはなんと答えていいのか分からなくなった。
正直なところ、収容所行きが決まったとしても、自分にとってはもはやどうでもよいことなのだ。しかし、それを口にするのは、クララの気持を踏みにじることになる。
「クララ……」
何かを言おうとしたアーデルハイトの唇に、クララは人差し指を当てて塞ぐ。
「今は何も言わないで。あなたを黙って収容所なんかに行かせたら、私はきっと一生自分を許せないわ。ハイジのためだけじゃない、自分のためでもあるの」




