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「イルマ・グレーゼが、ユダヤ人? まさか」

「現在出生については調査中だが、《約束された土地》のメンバーであることから、ほぼ間違いはないだろう」


 アーデルハイトはアッシェンバッハの顔を、穴が開くほど凝視した。

《約束された土地》、パレスチナを拠点として活動する、ユダヤ人たちの地下組織だ。ベルリンにも支部があり、警察をずいぶんと手こずらせていると聞いた。

 たしかその中心人物であるラビ・エッシェルバッハは、あの事件の夜、クララが暗殺する手筈となっていたのではなかったか? すっかり失念していたが、そのことについての顛末をまだ詳しく聞いていない。


「君には申し訳ないが、これは私とクララ、グレーテルだけが知っている話だった」


 アッシェンバッハはそう言って、空咳をひとつした。


「彼女が二重スパイらしいと分かったのは、二か月前の九月のことだ。彼女と重要な関わりのある保安情報部の人間が、情報漏洩容疑で逮捕されたのだが、拘留中に舌を噛んで自殺してしまった」

「それは……、いつのことですか」


 ある予感に支配され、アーデルハイトは慎重に訊ねた。


「正確には、九月六日のことだった。党大会で、ベルリンの人員が手薄になったのが不味かったな」


 映画を観て、放送塔に行った日だ。二人で屋敷まで戻った時、イルマは突然急用が出来たと言って何処かへ行ってしまった。そうして、夜遅くまで戻ってこなかった。


「その、イルマに重要な関わりのある人物というのは」

「アレクサンドル・イワノフスキ・グリム。もともとソヴィエト政府から亡命してきた情報員で、ドイツ系ロシア人ということだ。だが、それも怪しいものだな」

「ソヴィエト? なぜソヴィエトの人間がイルマと」

「イルマ・グレーゼはもともと、ソヴィエトの出身だ。正確にはウクライナということだが」


 アーデルハイトは歴史の授業で習った知識を、素早く記憶から掘り起こした。帝政ロシアは徹底的に領内のユダヤ人を迫害し、そのためにウクライナは迫害から逃れたユダヤ人が数多く居住している。勿論、ウクライナとて、もともと反ユダヤ感情の強い国だ。もし総統がソヴィエトと事を構えた時、ウクライナはドイツを《共産党とユダヤ人からの解放者》として、大いに歓迎するだろうとの見方もある。


「イルマ・グレーゼ、いやこの名前すら偽名だが、彼女はソヴィエトのGPUが生み出した、最高の殺人機械だった」

「GPU?」

「そうだ。正式な名称は、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国、内務人民委員部付属国家政治局。長い名前だろう?」

「彼女がそこの人間だったと?」

「そうだ。話せば長くなるが……」


 そこで言葉を切り、アッシェンバッハは煙草を取り出し、火をつけた。一口吸って吐き出す。叶うなら、アーデルハイトも吸いたいくらいだ。それに、ひどく喉が渇いている。


「GPUでは、暗殺を実行するスパイの養成所というのを作っていた。今でもあるだろうが。身寄りのない、まだ小さな子供をあちこちから集めて、厳しい訓練をする。死んでもおかしくない程の、過酷な訓練だ。そのGPU直轄養成所の教官が、アレクサンドル・イワノフスキ・グリムだった。彼自身、非常に優れた暗殺者だったらしい」


 少尉の指先から立ち上る紫煙を見つめる。いつだったかイルマはこう言っていたはずだ。私は生まれてから今まで、嬉しかったことなんて、一度もないわ――と。


「イルマ・グレーゼはグリムの指導が作りだした、最高傑作だと言っていい。もちろん彼女自身の資質もあっただろうがね。そして彼は一九三三年、ソヴィエトからドイツへと亡命した。ボルシェビキに嫌気がさしたという理由で。その彼に、イルマ・グレーゼも同行したという訳だ。GPUにとってはかなりの痛手だったろうな」


 アーデルハイトはうつむき、膝の上で揃えた握りこぶしに目を落とした。一九三三年といえば、ソヴィエトとドイツの軍事協定が事実上破棄された年だ。


「話が先に進んだな。順序を追って話そう」


 アッシェンバッハはそう言って、煙草を揉み消し、ソファの足を組み直した。



* * * *



 先の大戦以降、ヴェルサイユ条約により軍備を縮小され、新しい武器の開発を禁じられたドイツは、それでも密かに軍の再編を進めていた。

 一方ソヴィエトはロシア革命以降、軍の上層部を占有していた貴族階級が一掃されたことにより、早急な人材育成並びに技術開発を迫られていた。

 そしてこの二つの国は、大戦後漁夫の利を得て独立国家を再興したポーランドへの危惧を抱えており、そう言った点からも互いの利害が一致していた。

 両国は密かに協定を結び、ソヴィエトはドイツに武器開発の場と演習場を提供する見返りとして、ドイツから軍事に関するノウハウを教わった。


 そんな折、ドイツ軍が目をつけたのが、GPU直轄の暗殺者養成所である。子どもを小さい時からエリートとして訓練し、即戦力とする機関は当時のドイツにはまだなく、軍は養成所の責任指導者であったアレクサンドル・イワノフスキ・グリムに度々接触した。軍とグリムにどういう話し合いがあったのかは分からない。おそらく、軍は同じようなエリート養成所を作る必要性を感じていたのだろう。


 総統閣下が政権を掌握し、共産党が非合法化されたことで両国の短い蜜月は終わった。一九三三年、協定は破棄され、ドイツ軍はソヴィエトから引き上げる。それに乗じてアレクサンドル・イワノフスキ・グリムとイルマ・グレーゼも、共にドイツへと入国した。

 二人は後に保安情報部へと配属され、特にイルマ・グレーゼはラインハルト・ハイドリヒ長官の腹心として、数多くの粛清と暗殺に関わってきた。一方アレクサンドル・イワノフスキ・グリムの助言のもとで、ドイツ初のエリート養成教育機関ナポラが設立されることとなる。


「グリムがいったい何時から《約束された土地》に関わっていたのか、それすら定かではないが、彼が二重スパイだということで受けた打撃は大きい」

「その彼は間違いなく、ユダヤ人なのですか?」

「それは間違いない。決定的な身体的特徴があったからな」


 アッシェンバッハの答えに、アーデルハイトは思わず顔を背けた。ユダヤ人男性なら、亀頭に包皮を切り取った割礼痕が残る。これだけはごまかしようがない。


「保安情報部は、以前から《約束された土地》を密かに捜査していた。だが、実態がなかなか掴めない上に、情報が漏れているらしいとの疑いがあってね。それも一部の人間しか知り得ない、貴重な情報だ。それで、誰がスパイなのかは自ずと絞られる。そこに浮かびあがったのが、グリムだった」


 アッシェンバッハは自分の顔の前に、人差し指を立てた。


「奴は逮捕され、拷問を受けた。だが、しぶとい男でね。絶対にベルリンの構成員と、協力者の名前を吐かなかった。ここで一番問題なのは、イルマ・グレーゼが構成員なのかどうかということだ」

「彼女を逮捕しなかったんですか?」

「馬鹿言いたまえ、あんな化け物をどうやって逮捕する? 武装SSの機甲部隊でも動員するかね」


 アッシェンバッハは皮肉に唇を歪めた。端正な顔立ちだけに、内面が崩れるとバランスを欠いて醜悪さが露わになる。


「彼女を逮捕するのはリスクが大きすぎる。それなら泳がせておいて、しばらく様子を見るさ」

「その監視役が、グレーテルだという訳ですか」

「その通り、彼女は立派に役目を果たしてくれたよ」


 やはりそうかと、アーデルハイトは唇を噛んだ。


「ですが、もし本当にイルマが組織の一員だとしたら、九日の計画は、ずっと以前にユダヤ人たちに漏れていたのでは?」

「そう、それこそ、宣伝相が最も恐れていたことだ」


 アッシェンバッハは笑った。


「ゲッベルスは頭のいい男だ。彼はハイドリヒ長官の部下に、やつらのスパイが潜り込んでいるのではないかと、以前から疑念を抱いていた。だからこそ、計画の詳細はギリギリまで極秘にされた。ハイドリヒ長官ですら、知らされたのは九月の党大会の時だ」


 だとすれば、グリムもイルマも、知りようがなかったということだ。


「これはあくまで私の推測だが、イルマ・グレーゼはグリム以外、他の構成員とは接点がなかったのではないだろうか。ハイドリヒ長官の右腕とも呼ばれた彼女が、組織の人間と接触するのは危険過ぎる。おそらくグリムだけが、彼女と組織をつなぐ、ただ一つの鎖だった」

「ではイルマ・グレーゼはグリムの死後、組織から孤立していたと?」

「おそらくな。いつ、どうやってグリムの死を知ったのかは不明だが。グレーテルの情報では、党大会の後、彼女の動きに他の構成員と接触した形跡はないらしい」


 たしかに、党大会からイルマは屋敷の外に出ることが少なくなっていたような気がする。いつも図書室か自室にこもり、本を読むか武器の整備をしていた。


「もしかして、あの夜のラビ暗殺の話も、イルマをおびき寄せるための計画ですか」

「その通りだ。シナゴークにラビが潜んでいるという話はでたらめだ。彼女がどう動くのかそれが知りたかった。結果はご覧のとおり。君もその眼で見ただろう?」


 ラビ暗殺の件は、計画実行の直前にアッシェンバッハが言いだした。突然の作戦追加に腑に落ちないものを感じたが、そういうことだった訳だ。しかし……。


 アーデルハイトはアッシェンバッハの真意を図りかねた。

 そもそも、なぜ彼はこんなところで二人きりで話などをしているのだろう。クララやグレーテルには聞かれたくない理由とは何なのか。それに、彼はいったいどこまで、アーデルハイトとイルマについて知り得ているのか。言葉の裏に何か含めるような物言いが、薄気味悪さを感じさせた。

 グレーテルは自分たち二人の関係について、かなり正確に状況を把握しているはずだ。図書室での口づけも見られていたかもしれない。だがそれを何処までアッシェンバッハに報告しているのか、見当もつかなかった。それが分からない以上、揚げ足を取られるようなことがあってはならない。


「それで、彼女は、イルマ・グレーゼはどうなるのですか」

「さっきも言った通り、彼女を逮捕するのは危険が大きすぎる。しかし、構成員と分かったからには、放置しておくわけにもいかない。そこで君に頼みがある」


 アッシェンバッハが笑うと、削げた頬から目の下にしわが寄った。数日前まではなかったものだ。できればそこで勢いよく席を立ち、部屋を出ていってしまいたかった。もう何も聞きたくはない。だが腰は糊で貼りつけたように、椅子からぴくりとも動かなかった。


「イルマ・グレーゼはしばらく、この屋敷に滞在する。その間に出来るだけ、彼女から情報を引き出して欲しい。ベルリンにいる他の構成員や、協力者のことを。なにしろ奴らはずる賢くてね、なかなか尻尾を出さないのだ。君は団員の中では、特に彼女と親しいだろう。それとなく探ってくれないか。これは君にしか出来ない役目だ」

「そんな、無理です」


 声が震えた。


「どうやって聞けと? それとなく探るなんて不可能です。彼女に絶対気付かれます」

「別に組織のことについて聞けと、言っているわけじゃない。しばらく彼女の側に居て、気がついたことはどんな小さなことでも報告して欲しい。ただの世間話でも構わないんだ」


 両膝の上で握りしめたこぶしを緩め、にじんだ汗をスカートでそっと拭った。


「私に、イルマのスパイをしろと」

「そういうことだ。これはグレーテルでは無理だと判断したのでね。報告では、イルマ・グレーゼは君にたいそう心を許しているそうじゃないか」

「それは、命令ですか」

「やりたくないというのは勝手だが、そうなると君にとって非常に不都合なことになる。収容所に入れる理由など、どうとでも作れるからな」


 自分の顔から血の気が引くのが分かった。油膜の浮いたような彼の暗い双眸が、これが冗談ではないことを明白に語っている。全身が震えだすのを、太ももに力を込めて必死で押しとどめた。

 怯えるアーデルハイトを安心させるように、アッシェンバッハは猫なで声になって、こう言った。


「なに、そんなに難しいことではない。午前と午後の一日二回、私に電話で報告してくれればいいだけのことだ。イルマ・グレーゼの正体を知って君にはショックだろうが、早く分かって良かったと、いずれ私に感謝することになる。この件で一番の被害者は、ハイドリヒ長官だろうな。なにしろ彼女は、長官が《特別》に可愛がっていた、お気に入りの人形だったからね。さぞご心痛のことだろう」


《特別》という言葉に、少尉は妙なアクセントを置いた。意味が分からず、不審な表情で彼を見たアーデルハイトに、アッシェンバッハは下卑た笑みを口端に浮かべた。


「イルマ・グレーゼはハイドリヒ長官の愛人だ。情報部では有名な話だよ。彼女は彼の命令なら何でも聞く。暗殺もすれば、ベッドの上でのご奉仕もするさ」



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