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宣伝相がプロデュースしたアイドルを総統閣下はお気に召されたようです  作者: 長谷川蒼銀
第一章 一九三八年五月三日火曜日の、ながい長い一日
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「ちょっと、そこだけで盛り上がってないでさ。ハイジの自己紹介がまだなんですけど」


 グレーテルが二人に水を差す。


「そういえばそうね」


 クララが思い出したように答えた。


「新人歓迎会では、新入りが自分のことを十分間話すのよ。話すことはなんでもいいの。ご両親のことでもいいし、好きな事とか、得意な科目とか、観た映画の感想でも良くてよ」

「い、いきなり? なにも考えていないけど、どうしよう」

「では少し考える時間をあげるわ。何を話すか、自分のことをよく考えてね」

「ううーん、悩むなあ」


 アーデルハイトは腕を組んで考えた。自分のことについて話すのは、実はあまり得意ではない。ミュンヘンでのこれまでの生活が、頭の中を素早く横切った。父と母のこと、ハンナのこと、新しい母のこと……。話してあまり楽しいことではなかった。家庭の居心地が以前と変わらなければ、今はここには居ないのかもしれない。自分も幼い時と違って、いろいろな面で変わってしまったのだと思う。


 とにかく、アーデルハイトが今ここにいるのは、ながい長い話になるくらいの、深い訳があった。



* * * *



 アーデルハイトは一九二三年十月七日、ミュンヘンで生まれた。父は裕福な銀行重役のラインホルト・アドルフ・フォン・マイヤー、母はクララ。話はこの父と母とのなれそめから始めなければならない。

 ラインホルトは若いころ、貴族とは名ばかりの貧乏男爵だった。彼の父は遊興と放蕩で財産を食いつぶし、過ぎた酒量がたたって、借金だけを残して死んだ。ギムナジウムはなんとか卒業できたものの、彼は自分で自分の身の振り方を決めなければならなかった。


 金がなく、若さと体力だけはある青年の行き先は、軍隊と相場が決まっている。まだプロイセンの軍が華やかなりし頃、貴族出身であれば将校への道が約束された、古き良き時代であった。

 大戦が始まったのは、彼が軍に入隊してから二年後のことで、彼は初めての実戦に投入されることとなる。西部戦線にて砲弾の破片を受け、左の手足を負傷。手は回復するものの、足の方には障害が残った。


 ラインホルトはドイツの赤十字病院で終戦を迎える。そこに慰問に来ていたのが、後の妻となるクララ・マリア・レンバッハである。

 当時の彼はギリシャ彫刻の如く端正な顔立ちの、堂々たる美丈夫であった。そのラインホルトが半身に傷を負い、眼差しに憂いを湛え、額に包帯を巻いた姿は多くの女性を虜にしたが、彼女もそんな彼に恋をした一人である。


 クララは顔立ちこそ十人並みであったが、その明るさと優しさで、慰問先の兵士たちには人気があった。そしてなにより、東部の大農場主を祖先に持つブルジョワ階級の娘である。結婚を望む相手は少なくない。ラインホルトとクララが恋に落ちるのに、そう長い時間はかからなかった。


 穿った見方だが、身体に残った障害のために軍に戻ることも出来ない彼にとって、先行きが見えない人生をどうにかするには、クララとの結婚は生き残りを掛けた戦略だったに違いない。とはいえ、決して打算だけの恋でもなかったのではないかと、アーデルハイトは考えている。母は会った人誰をも魅了せずにはいられない、春の草原のような温かさに満ちた人だった。


 出会って翌年、彼はクララと結婚して故郷ミュンヘンに戻り、銀行に勤めることとなる。当時、食い詰めた将校たちが娼婦や女優のジゴロになることが多かったことを考えれば、彼は類まれな強運の持ち主とも言えた。結婚後すぐクララは妊娠し、男の子を生んだが、難産で生まれた彼は三日後に死んだ。この時に肥立ちが悪かったこともあり、クララは少しずつ健康を害していく。


 ラインホルトの方には、もう一つの運命的な出会いがあった。当時、敗戦による多額の賠償金の支払いのせいで破産寸前に喘ぐヴァイマール共和国は、軋みをあげて崩壊への序曲を奏で始めていた。

 愛国者である彼にとって憤懣やるかたなしだったのは、銀行の役職を占めるユダヤ人の多さだった。国内の大きなデパートや商店の多くも、ユダヤ人経営である。ドイツ経済界はドイツ人が締め出され、ユダヤ人のものと等しい。


 ドイツ人は求職に奔走し、飢え、若い娘や少年は街で客を取る。その一方で、ユダヤ人富裕層がドイツ人を安い賃金でこき使い、我が物顔で振舞っている。この不公平に彼は日々鬱憤を募らせていたが、彼は政治を全く信用していなかった。

 ドイツ共産党も社会民主党も自分たちの勢力争いに必死で、もはや実態は張り子の虎だ。そんな政治に懐疑的なラインホルトに、ある転機が訪れる。


 一九二二年、彼はミュンヘンの街頭で熱弁をふるう国家社会主義ドイツ労働党、通称NSDAPの活動家に出会う。

 男の名はアドルフ・ヒトラー、今の総統閣下だ。迸る情熱と弁舌の持ち主であり、偶然にも自分のミドルネームと同じ名前の男に、ラインホルトは雷に打たれたような運命的なものを感じた。その日のうちに早速NSDAPに入党し、それからは熱心な支持者となる。


 もし彼の義父、つまりクララの父親であるヘルマンが彼の政治活動に苦言を呈さなければ、今頃は銀行を辞めて親衛隊員にでもなっていただろう。

 ヘルマンは政治的には保守的な考えの持ち主で、娘婿が新興勢力であるNSDAPに深入りすることには反対だった。彼の助力で今があるラインホルトは、ヘルマンの忠告を聞き入れざるを得ない。優しいがひどく頑固な一面を持つラインホルトも、ヘルマンの言うことには素直に従った。


 さらに間の悪いことに、その翌年の一九二三年十一月九日、ラインホルトが手を貸したというミュンヘンでの「ビアホール一揆」は失敗に終わり、総統閣下は投獄される。ひと月前に待望の女の子が生まれた彼は、家族のためにやむなく党を脱退するより他なかった。


 父がこの件で警察に追及されることはなかったが、それは裏でヘルマンがなんらかの手を回したのかもしれない。ラインホルトが再びNSDAPに加入するのは、一九三二年まで待たなければならなかった。この時アーデルハイトは九歳で、母クララはドイツの国民病とも言える結核を患っていた。


 ハンナがいつ我が家に来たのか、アーデルハイトははっきりとは覚えていない。物心ついた時にはもう、家族の一員になっていた。彼女は家政婦でもなく、アーデルハイトの家庭教師でもない。正確に言うなら、母の話し相手である。

 母が生きていた時は、よく母とハンナとの三人連れで近所の公園まで散歩をしたものだ。健康に不安のあった母はミュンヘンでほとんど親しい友達がおらず、ハンナだけが心を許せる友であった。


 だから母が一九三三年の二月二十八日、ベルリンでの国会議事堂放火事件の翌日に死んだ後、本当ならハンナが留まる理由はなかったはずなのだ。にもかかわらず、その後も彼女は父とアーデルハイトの側に居続けた。

 母が死んだことは確かに悲しかったが、ハンナが居てくれたことで、アーデルハイトは救われたと思っている。つややかな黒髪と黒い瞳の持ち主であるハンナはたいそうな美人で、なにより聡明だった。厳しいが愛情深く、決して出過ぎない親しさで、アーデルハイトの良い教育係となってくれた。


 父とハンナの関係にうすうす気が付き始めたのは、女学校に上がった頃だったろうか。

 普通なら嫌悪感を抱くのかもしれないが、ハンナが好きだったアーデルハイトは変わらぬ信頼を寄せていた。もっと大人になった時には、自分から父との再婚を勧めようかと思っていたくらいだ。そうすれば、ハンナは本当の家族になるのだと。それなのに……。


なぜ父が数回会っただけの若い娘と、突然結婚などする気になったのか、どう考えてもさっぱり分からない。なにしろ相手は、二十三歳も年下なのだ。

 アーデルハイトの姉と言ってもいいくらいの母親は、まま娘に何の興味も関心もないらしく、ろくに話もしなかった。いつも流行最先端の服を着て、観劇やら買い物やらお茶会やらと出かけている。


 灰被り娘よろしく苛められるよりはましだったが、気の毒なのはハンナの方だ。

 彼女がこの状況に耐えているのは明らかで、笑うことが少なくなった。慰めようにも、子どもであるアーデルハイトの出る幕ではない。女学校でこっそり回し読みしている、ちょっと猥褻なことが書いてある雑誌などには、そういった男女の三角関係を描いた小説が山ほどある。自分に関係ない他人事ならハラハラドキドキの展開だが、これが自分の家庭内のこととなると、鬱陶しいことこの上なかった。


 母が生きていた時からの習慣で、朝食と夕食はいつも父とハンナ、アーデルハイトの三人で取っていたが、新しい母がここに加わってからというもの、彼らの間に走るなんとも言えない緊張感が、アーデルハイトの息をひどく詰まらせた。

 ハンナがもしもっと若ければ、不実な恋人に別れを告げ、新しい人生を歩むことも出来ただろう。

 だが、彼女はおそらく三十代後半はいっているはずで(正確な歳は知らない)、ここを出て何もかも新しく始めるには、正直歳をとり過ぎていた。それ故、尽くし愛した男が自分を裏切り、若く美しい後妻を娶っても、その傍にいて耐え忍ぶことしか出来ずにいる。


 アーデルハイトはそうした全てにうんざりしていた。

 いっそ家を出たかったが、女学校をやめるわけにもいかない。全寮制の学校に通うことも考えたが、娘を溺愛する父がそれを許すとも思えず、卒業までを待たなくてはならなかった。もし学校を卒業したら、家を出て看護学校に入学し、看護婦になるというのがせめてもの望みであった。それなら、いくら父でも文句は言えないはずだ。


 総統閣下がダンツィヒやポーランド回廊といった、前の大戦で失われた国土を取り戻すため、遠からず戦争が始まるらしいという噂は以前からあった。戦争が始まれば看護婦は一人でも多く必要なはずで、アーデルハイトにとっても家を出る大義名分となる。


 そんなわけで、この《白薔薇十字団》に選出され、一人でベルリンに行けるという話はまさに天恵、渡りに船だったのだ。父に毎週必ず手紙を書くことを約束させられ、新しい寝間着や下着、靴下やらをトランクから溢れるほどに詰められて、アーデルハイトはハンナと連れだってニュルンベルクへと出発した。


 五月一日の労働祝日は、二人でニュルンベルクの街を観光して過ごした。ヴァーグナーのオペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の舞台となったこの街は、中世の城壁を旧市街に残している。ドイツを代表する画家、アルブレヒト・デューラーが住んでいたことでも有名だ。

 毎年九月には党大会が行われ、全ドイツから熱心な党員や、《ヒトラー・ユーゲント》と《ドイツ少女団》の代表員たちが集結する。一昨年参加した少女団のお姉さま曰く、「筆舌に尽くしがたいほどの、実に感動的な光景」ということだ。


 旧市街の石畳を、肩を並べて歩いた。

 ハンナは相変わらず美しく控え目であったが、言葉の端々に、自分を置き去りにするアーデルハイトへの恨みがましさがにじみ出ていた。気持は分からないでもない。ハンナにしてみれば、あの家で唯一の味方を失ったのだから。


 ふと眺めたハンナの横顔に、それまでは気がつかなかった目尻の皺を認め、急にアーデルハイトは寒々しい気持ちでいっぱいになった。目をそむけ続けていた醜い自分に、突然向きあわされた気分だった。

 ハンナを軽んじ、疎ましく思っている自分。幼い子供ではなくなり、女の冷徹な目でハンナを見ている自分。


 隣に居るハンナは、かつてアーデルハイトが尊敬し、信頼していた母親代わりではなかった。尽くした男に捨てられ、その傍で耐え忍ぶことしか出来ない、若さを失った中年女に変わり果てていた。

 それはアーデルハイトにとって、とても残酷な成長だった。もう子どもの頃のように、無心にハンナの手を取ることは出来ないのだ。駅の改札口でハンナと別れた時、アーデルハイトは自分がひとつの時代に別れを告げたことを、彼女の手の温もりに知った。


 ドレスデンに向かう列車の中で、もう二度とハンナに会わないような気がしたのは、なぜだったのだろう……。



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