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この日十二日、ゲーリング国家元帥の呼びかけで、この一連の暴動の対策を話し合うべく、空軍省にてある会議が行われた。召集されたのは以下の人物たちである。
経済相 ヴァルター・フンク、
蔵相 ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
法相 フランツ・ギュルトナー
宣伝相 ヨーゼフ・ゲッベルス
秩序警察長官 クルト・ダリューゲ
保安警察長官 ラインハルト・ハイドリヒ
この他に、保険業界を代表して、ヒルデガルドなる人物が同席した。
主な議題は、ドイツの保険会社が支払わなければならない莫大な保険金についてであり、加えて、今後のユダヤ人に対する方向性を決定するという、重大なものであった。
この会議で外国籍ユダヤ人に対して損害賠償は認められたものの、ドイツ籍ユダヤ人に対しては、一切の保険金の請求が認められないこととなった。
暴動で受けた損害を賠償する責任は、被害者であるはずのユダヤ人に課された。そしてドイツ国籍ユダヤ人団体は、罰金十億ライヒスマルクもの支払いを命じられたのである。
この事件を機に、ゲッベルス宣伝相はユダヤ人排斥問題から手を引き、それはゲーリング元帥へと譲渡される。
その事実は、《白薔薇十字団計画》が完全に頓挫したことを、明確に表していた。
* * * *
十一月十三日、日曜日。
カオルは意識が戻らないまま、ティーアガルテンにある病院に入院することとなった。早朝一番で、アンナさんとヨハンさんが病院まで付き添ってくれた。ドレスデンのリリーとカールには既に電報で知らされたが、あの二人がどれほど心配するだろうかと気が重かった。
昨日の夜遅く、帰宅したクララから《白薔薇十字団》計画中止の報がもたらされた。
「本当に残念だわ。でもゲッベルスさまのお話では、計画の続行は現実的には不可能らしいの」
談話室でそうため息をつくクララに、アーデルハイトはなんと声をかけて良いのか分からなかった。
カオルが意識を取り戻さないことが、誰よりも仲間思いのクララを憔悴させていた。それに加えて、信頼していた宣伝相からの計画中止の命令だ。まさに踏んだり蹴ったりである。傍らでグレーテルは心配そうにクララを見つめていたが、珍しく一言も発しなかった。
「私たちはどうなるの?」
「元の少女団に戻されるということだけど、ハイジはそうしたい?」
クララの問いにうつむき、卓上にある灰皿に視線を落とした。ミュンヘンに戻ったとしても、元の家にもう自分の居場所はないと分かっている。
唯一のつながりであったハンナは行方不明、新しい母リナにはもうすぐ子どもが生まれる。父にとって、念願の男の子かもしれない。そうなればますます居心地は悪くなるだろう。それはアーデルハイトが入り込むことのできない、知らない家族の営みであった。
「出来れば、戻りたくない」
そう答えたアーデルハイトに、クララは頷いた。
「分かるわ。だからこそ、私に任せて。カオルが元気になったら、また皆で楽しく暮らせるわよ」
「うん、そうだね……」
「このお屋敷は出なくてはいけないけれど、私がどこかにアパートを借りるわ。そこで皆で暮らそうかって、グレーテルと言っていたの。カオルもハイジも、ベルリンの学校に転入すれば、問題ないわ。家事やお料理は交代で、みんなで頑張れば大丈夫よ」
クララは椅子から立ち上がり、アーデルハイトの横に来て手を握りしめた。
「カオルはきっと良くなるわ。明日病院に行けば、きっと意識を取り戻すわよ」
アーデルハイトは黙って頷き、安心させるようにちょっと笑った。クララは、アーデルハイトが沈んでいる本当の理由を知らない。カオルのことだけではないのだ。だがそれを口にしたところで、うまく説明できる自信もなかった。
だから何も言わず、昨夜はそのまま部屋に戻って寝た。
三人で冷たい朝食を済ませ、クララとグレーテルは二階に上がって降りて来なかった。
イルマといえば、今は食事も完全に別行動で、好きな時に台所に来て勝手に食べているらしい。食事の時間以外は、おそらく図書室に居るはずだ。会いたければいつでも会えるだろう。あとで少し顔を出し、二人きりで話がしたかった。
あのことに対する疑念は、アーデルハイトにとってもはやどうでもいいことになってしまっていた。《白薔薇十字団》の解散が決まった今、胸の内を正直に打ち明けられるのはイルマだけなのだ。
授業も宿題もなく、宙ぶらりんに放り出された状態は息苦しく、所在なさを紛らわそうと新聞を手に談話室へ行った。室内は朝早くからヨハンさんが火を入れてくれたおかげで、むっとするほど温かい。
《フェルキッシャー・ベオバハター》の一面には、「第三帝国はユダヤ犯罪に対して賠償請求」の文字がでかでかと掲げられていた。
フォム・ラート暗殺事件で社会を混乱させ、暴動を引き起こした原因はユダヤ人社会にあるとして、政府は十億ライヒスマルクの賠償請求をユダヤ人団体へ命じた。
事件直後から、ベルリン中の富裕層ユダヤ人が軒並み逮捕され、収容所へ移送される準備が進められている。彼らの財産は僅かなものを残して全て没収され、政府の国庫を潤すだろう。不当な手段により独占されていたユダヤ人の財産は、こうしてドイツ国民のもとへと返されるのだ。
アーデルハイトは新聞を広げて、芸能欄へと目を通した。十四日の夜に決まった試演会の紹介記事が、浮世絵風美人の挿絵とともに今日も大きく出ている。《タカラヅカ》の劇団員たちは昨日国立オペラ劇場で、『マダム・バタフライ』を鑑賞したらしい。
一方、日本を訪れているユーゲント代表団は九日に神戸に到着し、《オリエンタルホテル》に宿泊した。
ここでも熱烈な歓迎を受けた後、十日には宝塚少女歌劇を観劇、十一日に盛大な送別会が行われ、全ての旅程を終了したのである。
昨日の十二日には、当日帰国したばかりの日本代表団と旧交を温めた後、《オリエンタルホテル》を出発。グナイゼナウ号で神戸港を出港した。
記事には、送別記念に撮られた写真が添えられていた。
ホテル前で整列した、ユーゲント代表団。長い旅程を全て終えた彼らは、誇らしげな表情をしている。彼らが祖国に帰って来た時、変わり果てた街並みを見てどう思うのだろう。愕然とするだろうか、それとも当然のことと、溜飲を下げるだろうか。
暖炉脇にある書き物机の引き出しから、鋏を取り出し、二つの記事を丁寧に切り取っていく。もしカオルが意識を取り戻したら、これを読んで元気になってもらうのだ。ティーアガルテンの病院は設備が良く、最新式の治療をしてくれるそうだ。きっと熱が下がって、目を覚ましてくれるだろう。
鋏を引き出しに戻し、アーデルハイトは椅子の背にもたれて天井を仰いだ。目の前がくらくらして、きつく瞼を閉じる。
あの事件以来、立て続けにいろんなことがあり過ぎた。
カオルの発熱、カリンの死、明かされたハンナの正体と失踪、そして《白薔薇十字団》計画の中止。
もうたくさんだった。もうこれ以上何も起こって欲しくない。いくらなんでも神様はそんなに意地悪ではないだろう。カオルはきっと無事に帰ってくる。そしてクララが借りたアパートで、みんなで一緒に暮らすのだ。それがたとえ表面上のことだけだとしても、平穏に過ごしたかった。これ以上、自分にとって大切なものを失いたくない。
その時談話室の扉がノックされ、慌てて居住まいを正した。
「どうぞ」
と声をかけると、開いた扉の向こうにアッシェンバッハ少尉の顔が覗く。はっと息をのんで、アーデルハイトは身体を固くした。扉を閉め、少尉が口を開く。
「アーデルハイト・フォン・マイヤー、今君と話したいのだが、大丈夫かね」
そう言いながら少尉は返事を待たずに、テーブルを挟んでアーデルハイトの向かいの席にどっかりと腰を降ろした。アッシェンバッハと顔を合わせるのは、あの計画の実行以来だ。たった四日ぶりだというのに、面差がまるで変わっていることに驚かされた。顔色が悪く、頬のあたりが削げている。いつも冷静さを失わなかった瞳には、油が浮いたようなギラギラとした鈍い光があった。
アーデルハイトの知るアッシェンバッハは、何処までも理知的な男だ。軍事教練で声を荒げるようなことはあるが、感情に任せて怒鳴るようなことはない。一番効果的な叱咤の方法を計算し、あくまでもその計算の答えなのだ。
責任者という立場上関わり合いも多いが、団員達とは決して慣れ合うことなく、一線を引いた付き合い方をする。冷たいと言ってしまえばそれまでだが、馴れ馴れしさとは無縁の距離感が、彼の監督者としての資質を物語っていた。
それなのにどうだろう。今目の前で椅子の背にふんぞり返り、足を組んでいる彼が、とても同じ人物とは思えない。彼という人間を形成していた品格というものが、すっかり消え去ってしまったかのようだ。
「あの、なにかお話でしょうか」
膝の上にきちんと両手を揃え、姿勢を正してアーデルハイトはアッシェンバッハに向き直った。彼はニヤリと嫌な笑みを浮かべ、顔の前で手を振った。
「そんなに畏まらなくてもいい。もう私は君たちの監督者でも何でもないんでね。年上の友人として、心おきなく話してもらいたい」
ハーブの香りをつけたオーデコロンで隠してはいるが、少尉の息には微かなアルコール臭が漂う。気付かぬふりをして、アーデルハイトは黙って頷いた。
アッシェンバッハは懐から煙草を取り出し、一本加えて火をつけた。椅子にのけぞったまま、天井に向けて勢いよく煙を吐き出す。石油の浮いた水たまりを思わせる双眸を、ぼんやりと彷徨わせていた。時々独り言をぶつぶつと何か言っては、深いため息をつく。
ゲッベルスの腹心として、《白薔薇十字団》計画の監督者として、エリート街道を邁進してきた。この計画が成功すれば、おそらく中尉への昇進を約束されていただろう。それが、思いがけない計画のとん挫で放り出されたのだ。ゲッベルスにも、出世のレールからも。
彼を理知的な人物たらしめていたのは、自分が選ばれた者だという強烈な自負心と、そこから来る精神的な余裕だった。それらを全て失った今、アッシェンバッハに残されたのは、剥き出しの出世欲と自己憐憫だった。
「あの、クララとグレーテルを呼びましょうか」
きつい紫煙に辟易して、アーデルハイトが口を開いた。そこでアッシェンバッハはようやくアーデルハイトの存在を思い出したように、姿勢を伸ばし、煙草を灰皿でもみ消した。
「いや、その必要はない。話は君だけにある」
「なんでしょう」
「イルマ・グレーゼのことで、君に頼みがあってね。実は彼女には、二重スパイの嫌疑がかかっている」
アッシェンバッハの言葉に、アーデルハイトはアウグスト通りの暗闇に引き戻されたような気がした。人目を避けながら、中庭から出てきたイルマ。顔の見えない連れ、月光に浮かびあがった銀色の髪。凶悪な、剥き出しのナイフのように光る灰色の瞳。
身体中の血液がさーっと音を立てる。グレーテルがイルマを見張っていたのは、そういう理由があってのことだったのだ。つまり自分が知らなかっただけで、おそらくクララたちは承知していたのだろう。耳元に自分の心臓が鳴る音が聞こえ、膝の上の手を痛いほど握りしめた。
「君はイルマ・グレーゼと、たいそう親しいとクララの報告にはあるが、実際はどうなのかね」
「たいそう親しいという訳でも、ないと思います」
警戒心を強め、慎重に答えた。下手なことは言えない。声が震えないよう、ゆっくりと話し始める。
「イルマ・グレーゼは、なかなか他人に心を開かないタイプです。でも私は、出来れば同じ団員として、彼女と仲良くしたいと思いました。彼女の心の垣根を取り払うために、一緒に映画にも行ったこともあります。ですが、やはり、彼女は保安情報部の人間ですし、どうしても心おきなくという訳にはいきません。踏み込めない領域、というものを感じてしまうのです。そう言う意味では、イルマよりはカオルの方がより親しかったと、私は思います」
「なるほど」
アッシェンバッハはつまらなさそうに肩をすくめた。そのような答えなど、想定内だとでも言わんばかりだ。
「その答えを聞いて、ひとまず安心したよ。君がイルマ・グレーゼと親しすぎる関係ではないかと、心配していたのだよ。もしそうだったら、真実は君にとって、あまりにも残酷なのでね」
「それは、いったいどういうことでしょうか」
それを聞いてはいけないと、もう一人の自分が頭の片隅で叫ぶのだが、考えるより先に口が開いていた。
アーデルハイトの反応に、アッシェンバッハは身を乗り出して、さもおかしそうにこう言った。
「イルマ・グレーゼはユダヤ人だ。正体はユダヤ人の地下組織、《約束された土地》の二重スパイだと分かった」




