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12-3

 十一月十二日、土曜日。

 アーデルハイトはあの事件以来、初めて外出し、クーダムへと行ってみた。グルーネヴァルトは駅も列車もいつものようでいて、どこか違っている。人々の表情には拭い去ることのできない、複雑な感情の澱が沈んでいた。

 あるものは当惑し、怯えを皮膚の下に潜めていた。あるものは果たされた復讐に、隠すことのできない歓びの笑みを浮かべている。人々は時折小声であの事件を語り、ふと、自分たちの会話が周囲に聞こえていることが恐ろしくてたまらないというように口を噤む。

 久しぶりに見るクーダムは、すっかり様変わりしていた。

 あの夜、通りを敷き詰めたであろう硝子片は、きれいに掃き清められていた。それでも、破壊の爪跡は未だに生々しい。雪になりそうなほどの冷たい風が、割れたショーウィンドウへと吹き込み、引き裂かれたカーテンや、破かれたポスターを揺らしていた。

 通常営業しているのは、被害を受けていないアーリア系の店だ。その賑わいすら、今は余計に空々しく見える。普段と変わらぬ華やいだディスプレイの隣に、破壊し尽くされ、眼球を抉り取られた眼窩にも似た、店だったものの痕跡がある。通りはそんな光景が、見渡す限り続いていた。

 街を歩く人々は、あたかもそれが目に入らないかの如く、平然と過ぎ去っていく。無関心の殻に閉じこもることで、自分を守ろうとするかのように。

 誰もが温かなオーバーやコートに身を包み、肩をそびやかして、寒空の下を足早に歩いて行く。

 その中の一人になって、アーデルハイトもオーバーのポケットに手を入れ、黙々と歩き続けた。ふいに、通りを彩る円形広告塔のポスターが目に止まる。


 カブキ・タンツグルッペ・タカラヅカ


《歌舞伎舞踊集団タカラヅカ》の文字が、浮世絵風美人の上を鮮やかに飾っていた。

 カオルがあれほど心配し、気を揉んでいた《タカラヅカ》公演は、ようやく日が決まったらしい。十四日の夜、ハルデンベルク通りの《ベートーフェンザール》で、試演会が上演されることになっていた。

 もしカオルがこれを見たら、どんなに喜ぶだろう。アーデルハイトは広告塔を前に、深いため息をついた。

 カオルとは屋敷に帰ってから今日まで、ひと言も話せていない。アーデルハイトたち三人が屋敷に着いた時、カオルは具合が悪いと先に休んだ後だった。

 翌朝から激しい熱を出し、今に至るまで下がっていない。意識が混濁し、時々よく聞き取れない言葉を、譫言のように呟いた。このまま熱が下がらなければ非常に危険で、入院させなければならないと医者に警告されている。

 計画の遂行から二日が立ったが、アッシェンバッハ少尉からは何の連絡もなかった。朝からクララとグレーテルが宣伝相に呼ばれて、ヴィルヘルム通りに出向いている。これからの《白薔薇十字団》の活動についてらしいのだが、カオルのことを考えると素直に喜べず、どうも気が重かった。


 イルマ・グレーゼはあれから姿さえ見ていない。役目を終えてもとの古巣に帰ったのだろうが、別れを惜しめなかった寂しさより安堵を覚える。もし再びイルマに会った時、何をどう話していいのか分からないからだ。二人きりで顔を合わせるのが怖くもある。


(あの時さ、アウグスト通りでイルマを見たよ)


 とは口が裂けても言えない。だが言わなければ、それは重石となって二人の間に圧し掛かるはずだった。敏感なイルマが何かを飲みこんでいることを見逃すはずがないし、何も訊ねられなくても、うっかりこちらから白状してしまいそうなのだ。

 気がつけば、動物園の近くまで歩いていた。カイザーヴィルヘルム教会が鉛色の空を背景に、物憂げな様子でアーデルハイトを見降ろしている。街路樹が葉を落としたプラーガー通りは、前回来た時とはまるで違って見えた。

 何もかもがすっかり変ってしまったのだ。人も街も《白薔薇十字団》も。もう二度と、あの無邪気な時間には戻れないのだと、はっきり分かる。

 カリンの作る極上のデザートも、口にすることが出来ない。なぜなら、彼女は死んでしまったのだから。


 彼女の亡骸がファザーネン通りのシナゴーク近くから発見されたのは、昨日のことだ。もともとあった頬の傷痕以外は綺麗なもので、おそらく煙にまかれて亡くなったのだろうというのが警察の説明だった。遺体はヨハン夫婦が引き取り、ひっそりと埋葬した。

アンナさんのショックはひどいものだった。

あれほどカリンのことを心配し、行く末を案じていた彼女にとって、最悪の結末だった。もしカオルを看病するという精神的砦がなければ、寝込んでしまっただろう。料理を作るのも辛そうで、昨夜と今朝は皆で台所の缶詰を開けて冷たい食事を取った。

 おそらく事件の当時、カリンはユダヤ人の恋人と一緒にシナゴークに居たのだろう。シナゴークは燃え上がり(火をつけたのはグレーテルだ)、暴動が起きて彼と離れ離れになった時に、運悪く煙に巻かれたのに違いない。

 アンナさんは今朝も真っ赤に泣き腫らした目で、カオルの額に載せる氷嚢を二階にせっせと運んでいた。その様子に、アーデルハイトの心が痛む。

クララはカリンがユダヤ人と交際していた事実に不快感を露わにし、彼女の悲惨な最期にあまり同情的ではなかった。グレーテルは相変わらず、何を考えているか分からない。それが余計、アンナさんに対するアーデルハイトの憐憫を誘う。

見えない亀裂は、《白薔薇十字団》のなかにも確実に広がっている。


 十一月にもなれば、あっという間に日が暮れてしまう。屋敷に帰ったのは四時だったが、天候のせいか既に通りの街燈が灯るほどに暗い。


「お帰りですか」


 とヨハンさんが声をかけた。


「カオルはどうですか?」


 アーデルハイトの問いかけに、ヨハンさんは痛ましい表情で首を横に振る。四人のなかでも、特にカオルのことをとても可愛がってくれていた。今は心配のあまり、夜も眠れないという。今日熱が下がらなければ、信頼できる病院に入院させるつもりだと言った。


「クララとグレーテルは?」

「まだお帰りになっておりません」

「そう……」


 部屋へと戻るアーデルハイトの背に、ヨハンさんが思い出したように声をかけた。


「そうそう。午後の便で、ハイジさんにお手紙が届いてますよ。ご実家から速達で。なにか大切な用件かもしれません」


 慌てて階段を駆け上がり、廊下を走って扉を開けた。書き物机の上に置かれた封筒が、重苦しい沈黙をまとっている。封を切る指ももどかしく、乱暴な手つきで折りたたまれた便箋を開いた。


 愛する娘ハイジ


 こんな手紙を書くことになって非常に残念なことだが、昨日の十日の夜、ハンナが居なくなってしまった。彼女が残した手紙を読んだことで、私は大変混乱している。

 彼女の告白によれば、ハンナはユダヤ人だった。カトリック信者だというが、ユダヤ人はユダヤ人だろう。しかも、そのことを私たちに秘密にし、決して明かさぬように命じたのは、他ならぬお前の母親クララだった!

 これはいったいどういうことなのか、私は到底理解できず、とても平静ではいられない。一体なぜクララがそのようなことを言ったのか、しかもユダヤ人などを雇っていたとは!

 これは夫である私への背信行為にも等しい。まったく、理解に苦しむというものだ!

 ユダヤ人が我が家の一員として、素知らぬ顔で入り込んでいたなど、考えただけでもぞっとする。

 彼女の持ちものは、全て焼いて処分する予定だ。お前もあの女から貰ったものは、一日も早く捨てなさい。

 クリスマスには帰って来られるだろう?

 お前の顔が見たくてたまらないよ。


 お前を愛する父より



 アーデルハイトは便箋を折りたたんで、封筒にしまった。

 ぼんやりとベッドに座り込み、外の物音に耳を澄ませる。しんと静まり返った屋敷は物音ひとつ立てず、世界の果てに放り出されたような孤独感に苛まれた。

 殴り書きのような筆跡から、父の動揺ぶりが目に見えるようだ。彼にしてみれば、妻と愛人が二人で自分を謀っていたことになる。逆上するのも無理はなかった。

 記憶の細い糸を辿り、最後にハンナと別れた時のことを思い出そうとした。あの時、もう二度と彼女に会えない予感が本当になってしまった。ニュルンベルクの駅で、ハンナがなにを言ったかもう忘れてしまっている。


 とにかく、ハンナはユダヤ人だった。ユダヤ人嫌いの父の影響下で、自分の周囲にユダヤ人はいないとばかり思っていたが、灯台もと暗しだった訳だ。

 幼い時からユダヤ人が自分の傍らにいて、母の友人として寝食を共にしていた。母亡きあとは母の代わりに、自分を愛し、時には厳しく叱った。そうだ、ハンナは……。

 その時急に気分が悪くなり、発作的に立ち上ってクローゼットを開ける。掛けてあったマフラーと手袋を、手荒く掴み出した。部屋を出て、廊下を走る。今すぐこれをどこか遠くへ、見えないところへやってしまいたい。

 階段を駆け降りようとした足が、手前でピタリと止まった。階段を下りたその先に、イルマ・グレーゼが手すりに掴まりアーデルハイトを見上げている。いつも通りの仏頂面だったが、思いがけない再会にほっとした自分がいた。溺れかけて必死に伸ばした手を、力強く握りしめられた気分とでもいうのだろうか。

棒立ちとなったアーデルハイトに、一歩一歩階段を上がってイルマが近づいてくる。目の前で立ち止まり、例の灰色の瞳でアーデルハイトの表情を探るように観察した。


「気分はどう?」


 と珍しくイルマの方から声を掛けてきた。


「あんまり良くない。というより、最悪かな」


 弱々しく微笑んだアーデルハイトの言葉に、イルマは黙って首をかしげ、手にしたマフラーと手袋を見る。


「ハンナがね、前に話した母の話し相手、ユダヤ人だった」


 アーデルハイトは深く息を吐いて、泣きそうになるのを堪えた。


「一昨日、家から黙っていなくなったの。手紙を残して。それに書いていたらしいけど、もう何がなんだか分からなくなっちゃった」

「それは、彼女から?」

「うん、先月の誕生日にね。でも父は捨てなさいって。だから、地下のごみ置き場に捨ててこようって」

「そう……」


 視線をマフラーと手袋に据えたまま、イルマの手がそれらに触れ、指に絡めるように取った。


「私が処分する」


 イルマの言葉に気が緩み、アーデルハイトの指がマフラーと手袋を離した。

 正直なことを言えば、お気に入りのマフラーだった。ハンナはとてもセンスがいいのだ。良く似合っていると、クララとカオルに何度も褒められた。

 イルマに手渡してしまうと急に惜しい気持が出てくるが、未練を断ち切るように首を横に振った。


「どこでもいい、見えないところへやってしまって」

「分かった」


 頷くと、イルマは踵を返し階段を降りて行こうとする。その背中に慌てて声をかけた。


「もう会えないかと思ってた」


 イルマは振り向き、少し寂しそうな目でアーデルハイトを見上げた。それから無言で歩き去った。



* * * *



 夕食になっても、クララとグレーテルは戻って来なかった。イルマ・グレーゼは自室から出てこず、声をかけるのも億劫で、その晩はアーデルハイト一人だけの晩餐となった。

 メニューは黒パンと、小羊のシチューに温野菜のマヨネーズあえ。久しぶりに温かい食事を取ったような気がする。幸か不幸か、食欲だけは普通にあった。

 デザートには栗のケーキが出た。スポンジに栗を練り込んだクリームが挟められ、ほのかなブランデーの香りが鼻をくすぐる。一口食べて、カリンの味に近いとすぐ思った。


「これ、あの子が残していったレシピで作ったんですよ」


 ケーキの味に頬を緩ませたアーデルハイトに、アンナさんが言った。


「私にって手紙まで同封して、いろんなお菓子のレシピを一冊のノートにまとめてねえ。最初はなんだか腹が立ちましたよ。黙って家出するのに、そんなところだけ律儀なんだから。それなのに……」


 そこで言葉を詰まらせ、アンナさんは鼻をすすってエプロンで顔に押し当てた。


「そりゃあ、あたしだって、ユダヤ人は好きじゃありませんよ。でも、なにも、こんなことまでしなくたって……。可哀そうな……カリン……」


 堪え切れず、アンナさんは足早に食堂を出ていった。

 アンナさんはこの件に関しては、何も知らされていない。だが、うすうす気づいてはいるだろう。この一連の暴動が、あらかじめ綿密に計画されていたことも。それを実行し、暴動の一翼を担ったのがアーデルハイトたちであることも。

 ため息をついてフォークを置いた。舌に残るクリームとブランデーの香りが、口中に甘く広がっていく。食卓に肘をつき、両手で顔を覆った。

 なにかがごっそりと、自分から失われてしまったような気がした。それまで意識したこともない、存在するのが当たり前だったなにか。失われて初めてそれらの貴重さに気付き、でも決して取り戻すことが出来ないなにか。


 ここに居るのは、かつて自分だったものの残骸なのだ。

 シナゴークを焼いた焔とともに、あの輝かしい日々は燃え尽きて灰になってしまった。

 アーデルハイトは顔を覆ったまま泣こうとしたが、涙は一滴も出てこなかった。



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