12-2
いったいどれだけ歩き続けたのか分からなかった。
何処を歩いているのかそれすら把握しないまま、夢遊病者のようにあちこちを彷徨っていた。シナゴークの焼ける明かりから判断した方向と距離を考えれば、おそらくアウグスト通りだと思うのだが、頭が上手く働かない。
狭い道の左右は、ホフ(中庭)を囲んでコの字型に建つアパート群がひしめいているが、周囲は墨を流したように真っ暗だった。おそらく、暴徒に街燈を割られたのだろう。
通りから見上げる窓は例外なくカーテンをぴったりと閉め、明かり一つついていなかった。不自然な静寂に包まれた建物の奥では、誰もが息を殺し、闇の中にうずくまっている。
口を水で漱ぐことも叶わず、饐えた胃液と胆汁が口の粘膜に絡みつく。不快さを押し殺しながら、おぼつかない足を一歩一歩進めた。
本当なら、アレクサンダー広場で待機している連絡係に、任務の完了を知らせなければならない。それが済めば、この計画におけるアーデルハイトの役目は終わる。早く行かなければと理性では分かっていたが、足は勝手に暗い通りを歩き続けた。
時折硝子を割る音が遠くから響き、その度に足を止めて深呼吸をした。空っぽの胃は音に敏感に反応し、固く縮んで耐えがたいほどの激痛が走る。しゃがみこみ、両手を地について肩で息をする。その時、左側前方に明かりが灯った。
はっと顔を上げるアーデルハイトの視線が、通りにぱっくりと開いた中庭への入口を捉える。昔は馬車が走ったという間口は広く、明かりはその奥から漏れていた。そして通りの方へゆっくりと近づいてくる。
「消して」
と誰かが厳しい声で命じた。その声に飛び上るほど驚いて、起き上がったアーデルハイトは慌てて背後の壁に張り付いた。早鐘を打つ鼓動はどくどくと耳に響き、全身に冷たい汗が流れた。聞き覚えのある、誰よりも記憶に残っているはずの声を間違えるはずがない。
だが、いったい何故ここに?
イルマは既に任務を終えて、アレクサンダー広場に行っているはずではないのか?
混乱する思考がぐるぐると回り、眼球の奥がずきずきと痛む。その時風が流れ、瞬く間に空が明るくなった。
昨夜は満月。彼の威光をまだ十分に残す十六夜は、煌々と夜空に輝いている。降り注ぐ月光は通りを照らし、闇に沈んだ二つの人影を冷たく浮かび上がらせた。とっさに、アーデルハイトは停めてあった車の影に隠れる。
光よりも透き通る銀色の髪。厳しい双眸は獲物を探す目で通りを眺めやる。慌てて身を低くしたアーデルハイトは、思わず生唾を飲み込んだ。
もし見つかったら、殺されるかもしれない。そう思わせるものが、その時のイルマの目にはあった。
「月が出た。急いで」
イルマが低く呟く。
何者かが一緒に居ることは間違いなかったが、いったい誰なのか。その誰かの靴音が、足早に遠ざかっていく。足音は一人分。イルマは絶対に足音を立てない。
建物の壁に背をつけ、大きく息を吐いて座り込んだ。
今ここで見たことが何であるのか、アーデルハイトには分からなかったし、分かりたくもなかった。理解できたのは、自分が全く知らない彼女のもう一つの顔を、目の前に容赦なく突きつけられたということだ。
カオルやアッシェンバッハ少尉に見せたのとは比べ物にならない、憐みのない陰惨な眼差しは、鋭利な抜き身の刃を思わせた。あれが保安情報部で《長いナイフ》と呼ばれ、恐れられているイルマの本当の姿なのだ。
「なんだ、ハイジじゃん。こんなところで、なにしてるの」
いきなり呼びかけられ、顔を上げるとグレーテルが覗きこむように見降ろしていた。イルマの次はグレーテルかと、まとまらない頭で考える。何もかもが非現実的で、どれほど不可解なことが起こっても変ではないように思えた。
「そろそろ、アレクサンダー広場に行かなくちゃ。クララもきっと待っているよ」
グレーテルの担当は西のクーダム一帯だ。そこからアレクサンダー広場に行くにしても、こんな薄暗く狭い通りにいるのは余りにもおかしな話だった。もしかして、イルマ・グレーゼを見張っていたのだろうかと、疑念の目を向ける。グレーテルは素知らぬ顔でアーデルハイトの視線をかわし、上空を仰いだ。
「月が出たね。良い眺めになりそうだな」
そう言って屈託のない表情で手を差し出した。
「ほら、立って。そんなところに座ってたら、風邪ひいちゃうよ」
差し出された手を握り、緩慢な動作でようやく腰を上げた。グレーテルの言った通り、身体の芯が冷えていたことに今更ながら気付く。ぶるりと身震いをして、グレーテルと肩を並べて歩き出した。
グレーテルがここに居合わせたのは、決して偶然などではないだろう。だとすると、いったい何時から彼女はイルマを探っていたのだろうか。もしかすると、図書室での口づけも陰から覗かれていたのかもしれない。それを考えると、アーデルハイトの胃が再びキリキリと痛み始めた。
(これだけは忠告しておく。イルマ・グレーゼにあんまり近づき過ぎない方がいいよ)
あれは忠告ではなくて、警告だったのだろうか。
こうして一緒に歩いているのも、もしかして罠なのかもしれない。アレクサンダー広場に警察官が待機していて、アーデルハイトを同性愛者として逮捕しようと、手ぐすね引いて待ち構えているのかもしれなかった。
アウグスト通りからグロッセ・ハンブルガー通りに出て、アーデルハイトは思わず瞠目し、声をあげた。ユダヤ人街のこの辺りの惨状は、フリードリヒ通りの比ではない。
目路の限り、割れた硝子片は通りに敷き詰められ、月の明かりに反射してきらきらと輝いている。生気のない身体を巌のように横たえた、ユダヤ人らしき男たち。まるで通り全体が、光の粒子で満たされた川底のように見えた。おぞましい光景にも関わらず、この世ものとも思えないせいか、鳥肌が立つほど禍々しくも美しい。
「こりゃまた、派手にやっているねえ」
グレーテルがニヤリとすると、アパートの上の階から罵声と悲鳴、食器類が大量に割れる音が聞こえてきた。かたやすぐ近くのカフェでは、肩を組み酩酊した突撃隊員たちが酒瓶を片手に、大声で『ホルスト・ヴェッセル』を歌っている。割られた酒瓶から流れてくるアルコール臭が鼻をつき、匂いだけで酔ってしまいそうだった。叩き割られた木の椅子たちは月光に長い影を落とし、虚ろな裂け目を地に穿つ。
「グレーテル、走ろう」
アーデルハイトは堪らずに駆けだした。二人の靴が硝子片を踏むたびに、パリパリという冷たい音を立てる。途中、酔っぱらった突撃隊員たちに卑猥な言葉を投げられたようだったが、よく聞こえなかったのは幸いだった。
やがて、左手にユダヤ人墓地が見えてくる。大量に散乱した墓石の残骸とおぼしきものを踏み越えて、二人はようやくハッケシャー・マルクトに出た。
「グレーテルは平気なの?」
アーデルハイトが訊ねると、しれっとした顔で返された。
「あったりまえじゃないさ」
ハッケシャー・マルクトからディルクセン通りを線路沿いに歩き、やっとアレクサンダー広場に到着した。
普段から眠りを知らぬ不夜城は、いつもと変わらない賑わいを見せているが、人々が歌う『ホルスト・ヴェッセル』が広場の隅々にまで響き渡り、異様なまでの熱気に包まれている。広場の隅にはベロリーナの像が二カ月と変わらぬ姿で、左手を人々に差し出していた。
広場に到着したアーデルハイトたちの目に、真っ先に赤々と燃えあがる焚火が飛び込んできた。広場の真ん中で突撃隊員たちが、うず高く積み上げられた本や写真、手紙を火の中に勢いよく放り込んでいる。その周囲ではよれよれの背広をまとった十名ほどの男たちが、直立不動の姿勢で、『ホルスト・ヴェッセル』を唱和させられていた。
混乱と悲哀と、屈辱がないまぜになった表情。髪は乱れて、ひどく疲れ切った様子だった。眠っているところを叩き起こされ、抵抗することも出来ないまま、ここに引き立てられてきたのだろう。
「ハイジ、良かった。遅かったから心配したのよ」
背後の声に振り向くと、クララがにこにこといつも通りの笑顔を浮かべていた。手ぶらで武器は持っていない。
「ハイジったら、アウグスト通りで迷子になっててさ。あたしと会えなかったら、今頃どうしてたか」
そう言ってグレーテルがふんと鼻を鳴らす。
「そうだったのね。大丈夫? 顔色が良くないようだけど」
「う、うん。大丈夫。ちょっと喉が渇いて」
「早く屋敷に戻って、温かいお茶でも頂きましょう。お風呂に入って、ぐっすり眠りたいわ」
「カオルは?」
アーデルハイトはそう言ってから、カオルの担当区域を思い出した。カオルは南のカイザー大通りが担当だ。そこからアレクサンダー広場は遠すぎるので、カオルだけは先に屋敷に帰ってよいということになっていたのだ。
「もう屋敷に着いている頃だと思うわ。私たちが帰るときには寝てしまっているかもね」
そうして腕時計に落としていた目を、アーデルハイトに向けた。微熱を帯びて潤んだような緑柱石の瞳が、宙高く焚き上げられる焔を指した。つられてアーデルハイトもその方を見やる。
「歌うのを止めろと誰が言った? え?」
そう怒鳴り声を上げた突撃隊員の一人が、頭の禿げた眼鏡の男を突き飛ばした。男は後ろによろめいて広場の敷石に頭から倒れる。そしてそのまま動かなくなった。どっと嘲笑がおこり、「ざまあ」と誰かが叫ぶ。
「この夜のことを、生きている限り忘れないわ」
クララは恍惚とした表情で呟いた。
「ここから新しいドイツが始まるの。きっと記念すべき一日として、永遠に語り継がれるはずよ」
焔の明かりを受けたクララの端正な横顔を、アーデルハイトは見つめる。頬のあたりに、小さな血の染みがついていることに気がついた。
(グレーテルに時々言われるのよ、『クララってイカレてるね』って……)
ずっと以前に聞いた覚えのあるクララの言葉が、頭の片隅に甦った。あの時は、グレーテルがただふざけて言ったのかと思っていたが。
だが、いったいどうなのだろう。
果たしてクララはイカレているのだろうか。
この状況を見ていると、彼女や突撃隊の方が、むしろ普通なのかもしれないと思えてくる。何が普通で異常なのか、平静で狂っているのか、その境目が曖昧になって、訳が分からなくなってくるのだ。
「さあ、行きましょう。計画は大成功だったわ。あとは、ドイツ全土のシナゴークが焼き尽くされるのを待つだけよ」
クララは広場前の警察署に向けて歩き出した。そこに屋敷へと帰る車が待機しているのだ。警察署と目と鼻の先であるにも関わらず、広間には一人の警察官も出てこなかった。
* * * *
十日、ゲッベルス宣伝相は次のような声明を発表した。
「ユダヤ人の卑劣な、パリ駐在ドイツ人外交官暗殺に対するドイツ民族の正当にしてかつ当然の憤りは、昨夜大規模な形で爆発した。ドイツの多くの都市や町や村で、ユダヤ人の建物と商店に対し報復活動が行われた。今後はしかし、全住民に向けて、ユダヤ民族への以後のあらゆるデモ行動と反撃行動を、その種類を問わず、即時中止するようにとの厳命が発せられている。ユダヤ人によるパリの暗殺に対する最終的回答は、いずれ立法化ないし政令を通じて、ユダヤ民族にあたえられよう」
それでも、破壊行為は十日を過ぎても止むことはなかった。暴動は獣じみた人々の破壊衝動を正当化する格好の場であり、ゲッベルスが制御できないところまで広がっていた。
ゲッベルスにとって誤算だったのは、この暴動が思ったより党内の賛同を得られなかったことだった。
暴動で破壊されたユダヤ人商店・企業は七千五百にもおよび、それに支払われる保険金は莫大なものとなる。
また破壊された商店や企業には、アーリア系企業と取引をしているものも多かった。当然、暴動によってそのアーリア系企業も多大な損害をこうむり、ドイツの経済に無視できない打撃を与えたことになる。
それ故、ドイツ経済の立て直しを図る《四カ年計画》の責任者、ヘルマン・ゲーリング国家元帥の不興は甚だしいものがあった。
チェコ人女優との不倫がスキャンダルとなり、党内での立場を危うくしていたゲッベルスにとって、計画の成功は起死回生の命綱でもあった。だが、事が思った通りに進まなかったことを敏感に察した彼は、自らの保身のために、邪魔になるものを無情にも切り捨てる算段に出た。
そして、そのとばっちりを一番くらったのが、《白薔薇十字団》の責任者、ヘルムート・アッシェンバッハ少尉その人であった。




