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十一月七日、月曜日。パリ・ドイツ公使館書記官エルンスト・フォム・ラート氏は、ユダヤ人青年ヘルシェル・グリューシュパンに銃で撃たれ、翌々日九日に死亡する。
この事件によって、ドイツ愛国者たちによるユダヤ人への復讐心は煮えたぎり、瞬く間に沸点に達した。
即ち「フォム・ラートの死は、全ユダヤ人の血で贖わなくてはならない」と。
政府発表することの曰く「自発的な国民の怒り」は、十一月九日の深夜に、具体的な形となって表れた。
ユダヤ人達への暴行、商店の破壊と略奪、放火。
暴動は夏の草原を奔る野火のように、ベルリン全域へと広がった。いや、ベルリンだけではない。ドレスデンでも、ハンブルグでも、ミュンヘンでも、あらゆる都市や街が同じ状況にあったのだ。
大勢の人々が熱に浮かされたように、徹底的な破壊と蹂躙に自ら進んで飛び込み、暴虐の限りを尽くした。
それはまるで悪い熱病が、猖獗を極めるのにも似て―
十一月九日の深夜。
フリードリヒ駅から北方向、オラニエンブルク通りとの突きあたりを目指し移動中のアーデルハイトは、行く手右方向の空が、真紅に燃えあがっていることに気がついた。
計画通りなら、火を放ったのはクララだ。そして時を同じくして、ファザーネン街とカイザーヴィルヘルム通りのシナゴークも、イルマとグレーテルにより始まりの狼煙を上げられている。
「ほれ見ろ、シナゴークが燃えてるぜ!」
「ざまあ! ユダ公ども思いしれ!」
「燃えろ、燃えろ! シナゴークは全部焼いてやる!」
炎で血色に染まった上空を指さし、突撃隊員やそれに乗じた一般市民たちが、嘲るように声を上げた。
通りに溢れかえった、血気に逸った男たち。異様に光る獣めいた目を、焔の明かりに光らせ、ユダヤ人に対する精一杯の罵倒と呪詛を宙に浴びせている。
いや、男たちだけではない。アーデルハイトと同じくらいの少年や、少女、大人の女性たちまでもが、初冬の空に巻き上がる火の粉に向けて口々に叫び、拳を振り上げていた。
「フォム・ラートの魂に、ユダ公の血を捧げろ!」
「歩道の上で、長いナイフを研げ!」
「全てのユダ公に償わせろ!」
冷たい風と共に、煙と何かが焼ける匂い、細かな灰が吹き付ける。喉と鼻に絡みつく臭気を振り払うように、アーデルハイトはフリードリヒ街の一角、明らかにそれとわかる印を付けられたユダヤ人商店へと駆け寄った。
燃える空を映し、茜色に輝くショーウィンドウ。マネキンが着た、美しいシルクのワンピースに毛皮のコート。足元にディスプレイされた、繻子の靴と絹の靴下。レースを飾ったサテンのバッグ。
店主の人柄さえ窺わせるような、繊細で調和に満ちた小世界。そこを目がけて、アーデルハイトは手にしたゴム棒を振り下ろした。衝撃が手と腕に伝わると同時に、硝子の割れる大きな音が辺りに響く。割れた硝子がウィンドウの中へと散り、毛皮もドレスも破片まみれになった。
衆目が割れたウィンドウとアーデルハイトに集まり、その視線を振り切るように次の目的へと駆けた。フリードリヒ通り北方面が自分の担当だ。そこにあるユダヤ人商店のショーウィンドウを、一つ残らず叩き割らなければ。
人々がアーデルハイトの背後で、狂ったような雄叫びを上げた。
「お前たちもやれ。印を間違えるな!」
「やれ、全部壊しちまえ!」
「いいじゃない! これぜーんぶ、あたしのものよお!」
口々に叫ぶ声が耳に届いたが、後ろは振り返らなかった。行く手の通りは大勢の人々がユダヤ人商店に押し入り、商品を勝手に漁っていた。止めに入る店主を引きずり出し、殴る蹴るの暴行をしては、小便をかけて笑っている。
それらがなるべく視界に入らないように、アーデルハイトは窓を叩き割った。店内で品物を物色していた男たちに破片が降り注いだが、構わずに走り去る。やがてあちこちで破壊の音が聞こえ始めた。窓を割る音と喧騒、悲鳴の残響が、燃えるシナゴークの煙とともに空へと吸い込まれていく。
(君たちの役目は小さな火を灯すことだ)とアッシェンバッハ少尉は言った。(どんな大火も最初はほんの僅かな火だ。君たちに、このベルリンでの火付け役となってもらう。そしてもう一つ)
そう、もう一つ大切な目的がある。そのために今、クララはシナゴークの裏手にあるアパートの屋上に待機し、カラビーナの照準器で地上を覗いているはずだ。
(ユダヤ人地下組織《約束の地》のリーダー、ラビ・エッシェルバッハが、このベルリンに潜伏しているという情報がある。先日、本拠地のパレスチナからこっそり入国したらしい。保安情報部がずっと追っていたのだが、なかなか尻尾が掴めなかった。我々はこの際、奴が潜伏しているというシナゴークに火を放ち、鼠を焙りだす。奴が出てきたところを、屋上から狙撃し、騒ぎに乗じて始末する。クララ、これは君に―)
任務を最初に聞いた時は、むしろ安堵した。いくらユダヤ人とはいえ、命を奪うという行為はやはり気が重すぎる。それなら、器物の破壊だけならまだましだ、と。
いや、正直に言えば、破壊の行為は普段は抑えている衝動を、思い切り解放できる爽快感を伴なった。自分の手の中で形あるものが粉々に砕け散って行くことに、アーデルハイトはぞくぞくするような興奮さえ覚えたのだ。
そろそろフリードリヒ通りとオラニエンブルク通りが交わる辺りだった。一端足を止め、怖いもの見たさで後ろをそっと振り返る。通り一面は割れたガラスの破片が散らばり、ショーウィンドウの中身がぶちまけられていた。
店を襲っているのは、突撃隊ばかりではない。どう見ても普通の《善良な》人々が、口汚く喚きながら品物を通りに放り出し、止めに入った人々に暴行を働いていた。
アーデルハイトは急に嘔吐感を覚えた。咄嗟に口に手を当てながら、何度も深呼吸をする。
一体これはなんなのだろう。
本当にこれが、あの美しかったフリードリヒ通りなのだろうか。歩くだけで、夢の国に誘われるような華麗なディスプレイたち。それらは今や無残にはらわたを引き裂かれ、醜悪な骸を晒している。
その死肉に群がる人々は、生きた人間というより、まるで彼岸を彷徨う幽鬼の群れだった。これは夢なのだろうかと、アーデルハイトは痺れる頭で考えた。決して覚めない悪夢を見ているような気がする。
吐き気を堪え、再び歩き始めたその時、空気を裂くような激しい悲鳴と硝子の割れる音が頭上で聞こえた。反射的に飛び退けたのと、どさりと鈍い音がして、地上に人間が落ちたのが同時だった。
思わずぞっとして立ちすくむ。もし一瞬遅ければ、間違いなく衝突していたはずだ。
落下した人物は仰向けになって横たわり、四肢を通りに伸ばしている。眼球がこぼれそうなほど開いた目が、茫然と見下ろすアーデルハイトとかち合った。
「た、助けて……」
そう呻き、でたらめに伸ばした左手が、アーデルハイトの足首を掴んだ。
「お、お願いだ……、カメラだけは、壊さないで……」
何かがアーデルハイトの脳裏をひらりと横切った。
視線を店に戻すと、通りの異状に無関心な突撃隊たちが、店を手当たり次第に荒らしていた。店内に飾られたたくさんの写真たちは、叩き割られ、床に落ち踏みつけにされている。
軍服を着た紳士の肖像が割れた窓越しに通りに放り出され、額縁ごと音を立てて砕け散った。
慄きながら、破壊された窓ガラスの縁に金文字で描かれた店名を見付け、目を凝らす。そこにはこう書かれてあった。
ベルリンで一番古い写真館
ユリウス・シュタウト写真館
急速にアーデルハイトの周囲の景色が歪み始めた。眩暈とともに、初夏の記憶が意識の表層に上がってくる。
暑い六月最後の日曜日、ながい長い動物園の行列。
アイス売りと絵葉書売りの、朗らかな声。
日本式の瓦屋根、象の門の前で撮った写真。
皆の笑顔と、イルマの仏頂面。
そして、グレーテルのむくれた顔つき。
あの時、人懐こい笑顔と白い歯を見せて、カメラのファインダーを覗いていた青年は……。
「なんで、なんで、こんなことに……」
喘ぐ声はやがて擦れて、冷たい石畳に沁み込んでいった。目を宙へ泳がせたまま青年はこと切れ、硬直した手だけが、呆けたアーデルハイトの足首を強く掴んでいる。未来永劫、外すことの叶わぬ重い枷のように。
突如、アーデルハイトを強いパニックが襲った。叫び声が喉まで上がり、慌てて両手で強く抑える。足先が震え、彼の手を外そうとするのに、指先ががっしりと食い込んでままならない。もつれる指で落としたゴム棒を拾い上げると、力を込め、手首に向けてめくらめっぽう振り下ろした。
ぐしゃりと骨の潰れる音がする。だが何度やっても食い込んだ指はびくともせず、とうとう諦めて、歯をカタカタと鳴らしながら一本一本、慎重に外していった。
「おい、あれを見ろ!」
誰かが声を限りに叫ぶ。その時全ての指を外し終わったアーデルハイトは、ゴム棒を放り出してオラニエンブルク通りへと走り出した。
角を曲がったアーデルハイトの視界に、燃えさかるシナゴークの鐘楼が映り込む。その中を、火だるまになった一人が、踊るような仕草で出口を探し求めていた。やがて鐘楼の柵を乗り越え、そのまま燃えながら地へと落ちていく。
それがアーデルハイトの限界だった。
通りの真ん中にへたり込み、胃の中が空洞になるまで吐き続けた。数えきれないほどの人々が、その横を通り過ぎる。歓声を上げ、ユダヤ人を罵り、破壊を繰り返し、誰もアーデルハイトに注意を払わなかった。
シナゴークを焼き続ける熱は、風となって吹きすさぶ。
その温かな風は、十一月の冷気を退いて、アーデルハイトの身体を異臭とともに包み込んだ。




