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11-3

「昨夜のゲッベルスさまとの面談だが、ハイジはどんなことを訊かれた? 具体的ではなくていいのだが」

「ああ、私は……、そうだね。私がここに選ばれた理由を話されたよ。そんな感じかな」

「そうか。他には何か言っていなかったか」

「うーん、それくらいしかなかったけど」

「そうか……」


 眉をひそめ、瞼を伏せたカオルに


「どうかしたの、なにか嫌なこと言われたとか?」


 と顔を覗き込んだ。


「実は、来月に決まっていたはずの《タカラヅカ》公演のことなのだが」


 カオルは目を上げた。


「ゲッベルスさまにお尋ねしたところ、そのような話は聞いたことがないそうだ」

「ええ? でも、たしかそれ、外務省の伯父さまから聞いた話じゃなかったっけ」

「そうなのだ。だが宣伝省には、そういう話は上がって来ていないそうだ。一体、何がどうなっているのか、私にはさっぱり分からん」


 難しい顔をするカオルに何か言おうとして、指に挟んだ煙草を思い出す。形なりに灰になった部分を落とし、一口吸った。

 あれほど公演を楽しみにしていたカオルは、さぞやガッカリしたのだろう。深いため息をそこでついた。


「それだけではない。実はつい最近まで、宣伝相はドイツを離れて、日本に行くことを考えられていたそうだ」


 思いがけず強く吸い込んだ紫煙が肺の奥に満ちて、アーデルハイトは激しく咳き込んだ。


「げ、ゲッベルスさまが……、ゴホ、ゴホ、に、日本……ゴホ」

「驚かせてすまない。このことは、ゲッベルスさまにも内緒にしてくれと言われたのだが……。どうしてもハイジにだけは話したかったのだ」


 カオルに背中を優しく叩かれて、アーデルハイトは息を大きく吸いこんだ。

 ゲッベルスさまがドイツを離れて日本に? いったいどういうことだ?

 タカラヅカよりも、その方がアーデルハイトには大問題だった。


「おっしゃるには、ゲッベルスさまは宣伝相の職を辞され、駐日大使として日本に住むことを考えておられていたらしい。もちろん、実現はしなかったが」

「い、いったいどういうこと?」

「『果たされることのなかった、手の届かない儚い夢だった』とおっしゃって、なにやら哀しそうな目をされていたな。今から考えれば、マクダさまも宣伝相も、少し様子が変だったように思える」


 カオルはそう言って腕を組み、空を仰いだ。どんよりと厚い雲がかかった夜空には、星ひとつ見えない。

 アーデルハイトはゲッベルスの疲れた表情を思い出した。あの理想的な夫婦の間に、何かがあったのというのか。


「もし《タカラヅカ》公演の話がダメになったのだとしたら、ハイジには申し訳ないことをしたな。せっかく楽しみにしてくれていたのに」

「ううん、気にしないで」


 煙草を足元に落として、靴で踏んだ。身体にまとわりついた煙をはたき、ポケットに両手を入れて身ぶるいした。


「寒いね。早く入ろう」

「うむ。それと、このことはクララたちには」

「分かってる。口が裂けても言わないって」


 声をひそめて答え、アーデルハイトは安心させるようににっこりと微笑んだ。



* * * *



《白薔薇十字団》にとって、それは最後の平和で穏やかな日々であった。

 グレーテルが言った通り、体育の授業には本物のインド人教師がヨガを教えてくれた。クリシュナという名前の教師は、たどたどしいドイツ語と流暢な英語を話し、これから英国でヨガ教室を始めたいのだと言っていた。


 少しだけ事件になったこともある。カリンが黙って仕事を辞め、行方知れずとなったのだ。ヨハンさんとアンナさんの落胆ぶりは、傍で見ていて気の毒なほどだった。

 荷物をまとめて出ていった様子から、例のユダヤ人の彼氏と駆け落ちしたのではないかというのが、警察とグレーテルの一致した見解だった。

 クララはカリンに、あれだけアンナさんに世話になっておきながら恩知らずだと、本気で腹を立てている。


 がっかりしたのはヨハン夫婦だけではない。カリンの作るデザートを何より楽しみにしていたアーデルハイトにとって、生きる喜びの一つを奪われたも同然だった。

 アンナさんの作るケーキも美味しいのだが、どうしてもカリンにはかなわない気がする。


 イルマ・グレーゼとは時々目を合わせるが、言葉を交わすことはない。だが、彼女の視線はこう言っていた。


(本当にこれでいいの? もう逃げられないわよ)と。


 アーデルハイトは顔を背け、問いかけを黙殺することしか出来ない。二人きりになるのが怖くて、図書室にも行かなくなった。もし今度二人きりで何かを話せば、自分の中で何かが音を立てて壊れてしまいそうな気がする。


 それでも、表面上は穏やかに過ぎていった。


 十月の第二週には最終筆記試験があり、成績の如何に関わらず、十八日に全ての授業が終わった。これがアーデルハイト・フォン・マイヤーがその短い生涯で受けた、最後の授業となった。


 そして十九日。とうとうアッシェンバッハ少尉から、計画の全容が明らかにされた。

 それからの二週間は、計画の細部までを頭に叩き込まれ、シュミュレーションをする繰り返しであった。決して失敗の許されない、ドイツの未来を決める大事である。そしてこの成功が、《白薔薇十字団》の輝かしい一歩となることは、間違いないであろう。

 訓練中、アーデルハイトは時々自らにこう言い聞かせた。これは総統閣下のために、そしてドイツのために必要なことなのだと。それだけではない。今は恨まれるだろうが、結局ユダヤ人たちにとっても良いことなのだと。

 そのことは、この先十年後二十年後の歴史が、きっと証明してくれるに違いない。


 十月の後半はそのように過ぎていった。

 一方、訪日していた《ヒトラー・ユーゲント》代表団の旅程も最終段階を迎え、一行は関西方面を巡っていた。

 十八日大阪市に到着した代表団は、熱狂的な歓迎の嵐に包まれ、十九日には大阪城とその天守閣で開催されていた「乃木将軍遺品展」を見学している。

 新聞記事の写真には、大阪城を見学する代表団一行の姿が写り、カオルはアーデルハイトに大阪城の歴史と、その美しさを語った。

 何もかも全てが上手く行ったら、一度カオルと一緒に日本に行きたいとアーデルハイトは願った。ユーゲントの代表団が行けるのであれば、日独友好活動の一環として、《白薔薇十字団》が日本を訪問することだって出来そうなものだ。

 もしかしたらその時には、カールもめでたく外務省に戻れているかもしれない。


 アーデルハイトは談話室で二人きりになった時、カオルにこっそりそのことを話した。

 カオルはアーデルハイトの願いに目を輝かせ、


「必ず一緒に日本に行こう、約束だぞ」


 右手の小指を差し出す。

 その仕草の意味が分からず、カオルと小指を眺めて困惑するアーデルハイトに、


「日本では堅い約束を交わす時、お互いの小指を絡めるのだ」


 と微笑んだ。


「ふうん、そうなんだ」


 アーデルハイトはカオルの真似をして、軽く握ったこぶしの小指だけをぴんと張る。二人の小指が絡まり、カオルが少しだけ縦に振った。


「ゆびきり、げんまん。必ず、行こうな」


 そう言ってカオルは絡めた小指を解き、談話室から見える庭の光景に視線を移した。

 午後の弱い光に浮かび上がるカオルの眼差しは、少しだけ哀しそうだった。



* * * *



 一九三八年、ポーランド政府は五年以上外国に住み、祖国との結びつきを失っていたポーランド国籍ユダヤ人に対し、公民権を取り消してポーランドへの帰国を阻止するという決定を下した。


 当時、ポーランド国籍を有するドイツ在住ユダヤ人の数は、およそ七万人。この決定で、彼らの旅券は十月三十日で効力を失うことになっていた。

 それに伴い、ドイツ政府は二十七日から翌日にかけて、一万二千以上のユダヤ人男性を逮捕し、ドイツ・ポーランド国境へと追放させた。

 後世に語られることの《一九三八年十月のポーランド系ユダヤ人第一回大量強制移送》である。


 その追放されたユダヤ人たちのなかに、ヘルシェル・グリューンシュパンという青年の身内が居た。

 身内は当時パリに居たヘルシェルに自分たちの困窮を手紙で伝え、助けを求めた。

 このヘルシェル・グリューンシュパンこそ、十一月九日のユダヤ人虐殺、後の「水晶の夜」と呼ばれる事件の引き金となった「パリ駐在外交官暗殺事件」の犯人である。


 ユダヤ人の大量検挙の翌日。

 十月二十九日は、ゲッベルス宣伝相の四十一歳の誕生日であった。ベルリンでは宣伝相の誕生日を祝して、大量のラジオが市民に無料で配られる。


 人々は何も知らない。

 これからいったい、何が起ころうとしているのか。

 彼らの祖国が何処へ向かおうとしているのか。

 人々は知らない。

 そのラジオを通して、これから何が語られようとしているのかも。

 彼らは何も、知らなかった。



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