11-2
何の前触れもなく室内が一気に暗くなる。
それまで流れていた優雅な弦楽四重奏がピタリと止み、客の話声も波が引いたように静かになった。期待を孕んだ沈黙は闇の中ではち切れんばかりになり、居心地の悪そうな咳ばらいが時々起る。
やがてパノラマとガラス張りの空に、雷光が赫耀と走る。激しい雷鳴は空気を震わせ、耳をつんざき、あちこちの客席からは女性の悲鳴が上がった。
閃光に浮かびあがる黒い川面、そして雷が鳴りやまぬうちに、雨が降り始める。雨は頭上のガラス窓に打ちつけられ、ザーッという音が雷鳴とともに室内に響いた。パノラマの木々は強い風に煽られてしなり、ラインの川面は大量の雨で濁り嵩を増す。これが作りものとはとうてい信じがたいほどの精巧さだ。
どれくらい雨が降っていたのか。時間にするとほんの僅かなものだったろう。だが暗闇の中で時は奇妙に引き延ばされ、アーデルハイトにはずいぶんと長く感じられた。
雨足が少しずつ弱まり、そのうち完全に止んだ。ガラス越しの空を覆っていた厚い雲が、風に押し流されていくのが見える。割れた雲の隙間から再び青空が現われ、眩しい光が降り注いだ。その瞬間「おおーっ」という歓声が、客席から湧きおこる。
「見てみろハイジ、あれ」
誰より早く気付いたカオルが、パノラマを眼で誘導した。七色の虹がくっきりとした輪郭で弧を描き、ライン川の上にかかっていた。空が再び明るさを取り戻した時、割れるような拍手が客席に渦を巻いた。
「これが噂の《ラインの嵐》かあ。あたしも初めて見たけど、予想より面白かったな。本当に雨が降るなんて凄いじゃん」
斜め向かいに座ったグレーテルが、手を叩いて屈託のない笑みを浮かべた。その様子を見ていると、昨夜の彼女とのやり取りが悪い幻だったのではないかと思えてしまう。
「まったくだな。ベルリンで、このようなものが見られるとは。ここに来た甲斐があったというものだ」
目を輝かせてカオルが言った。彼女は何も知らないのだ。グレーテルがカオルの秘めた思いに気付いていることに。
パノラマに見入るふりをして、アーデルハイトは二人から目を背け、気付かれないように軽く唇を噛んだ。
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頬を撫でる十月の夜風は、痛みを感じるほどに冷たかった。木々の間を吹き抜ける寒風は、手風琴にも似た響きを奏で、屋敷の庭の枯れ葉がかさかさと乾いた音を立てる。
父の贈ってくれたオーバーコートに身を包み、アーデルハイトは吸った煙をゆっくりと吐き出した。白い息と一緒に吐き出されるそれは、凍えた空気を震わせ、瞬く間に霧散する。
十五歳になったら挑戦してみたかったことの一つに、煙草がある。同級生には、教師の目を盗んで吸っているませた子も多かった。彼女たちにどんなに誘われても、十五歳までは吸わないと自分で決めていたのだ。
母クララが喘息持ちだったせいで、ハンナも父も煙草は吸わなかった。もっとも、父は外で吸っていたが。母亡きあとも、ハンナにアーデルハイトの健康に悪いからと言われて、娘の前では吸わないようにしている。
ハンナによれば義母のリナはかなりのヘビースモーカーらしいが、記憶のなかでは吸っているところを見たことがない。子供が出来て、煙草は止めただろうか。
ミュンヘンの《ドイツ少女団》でも、一本を回して吸う悪戯は結構ある。その度に彼女たちが少しだけ大人に見えて羨望を覚えたが、それでも自分で決めた誓いには忠実だった。
かつて子供だったアーデルハイトには、十五歳は輝かしい大人の入り口だった。だからボーイフレンドを作るのも、キスをするのも煙草を吸うのも、全部十五歳でしようと誓いを立てた。そして昨日十五歳になって、これで全部が叶ったわけだ。たった一つ予想外だったのは、ボーイフレンドではなく、相手が女の子だったということだが。
屋敷の庭の葉はすっかり色褪せ、早いものは地に落ちて厚い層をなしている。庭の小天使の噴水には、そろそろシートが掛けられるだろう。夏に溢れんばかりの水を湛えた噴水が涸れ、落葉の吹きだまりになっている様は、過ぎ去った季節の侘しさを感じさせる。
指に挟んだ煙草に唇をつける。慎重に吸いこむと、肺の奥まで届かないうちに吐き出す。こうするとむせないのだと誰かから聞いたことがあった。髪やコートに匂いがついてしまうだろうが、気にしない。つい数時間前までいた《椰子の園》など、客のほとんどが煙草を吸うので、すっかり全身が煙くさくなってしまっていた。
コートの暖かな羊毛に包まれていても、厳しい寒さは肌に沁みとおり粟立たせる。だが《椰子の園》での興奮は体の芯に未だ残り、眩い記憶は瞼の裏に鮮やかに蘇った。
金と銀、赤銅色の装飾で彩られたダンスホール。木目が美しい床の上では無数の男女がワルツを、タンゴを、チャールストンを踊り、バンドの演奏は止むことがなかった。
ホールの柱を飾るのは黄金に輝く椰子の彫刻で、天空まで伸びた葉が円形のドームを優雅に縁取る。
ダンスタイムが終わり、レビューショーが始まると、人々はホールを囲むように設えたレストランの席についた。
やがて音楽はワルツから軽快なスウィングへと変わり、黒人の音楽隊とダンサーが舞台の中央へと躍り出た。
一人は背の高い黒人男性、もう一人は金髪の白人女性で、鱗のような水着に羽飾りをつけている。この二人の見事な足さばきと言ったら!
一秒たりとも目を離せないタップに、客の視線は釘づけだった。
客席からの手拍子に、軽やかなステップは一層華麗さを増して磨かれた床を蹴り、跳ね、滑る。二人がくるりと回って両手を広げ、最後のポーズを決めると、総立ちになって贈られた歓声と拍手の嵐は、ホールの丸天井を突き抜けるほどだ。
手が痛くなるほど叩いていたアーデルハイトの向かい側、カオルの後ろにいた女性の横顔が、ふと目に止まった。
小ぶりのバッグからシガレットケースを取りだし、銀色のシガレットホルダーに挿して吸い始める。歳はリリーと同じくらいだろうか、黒い短髪に白い肌がはっとするほど艶麗で、煙草を吸う仕草が同性から見てもかっこいい。
アーデルハイトは手洗いに行くふりをして席を立ち、《椰子の園》入口に向かった。入り口では案内係が次から次へと来る客をさばき、テーブルへと誘導している。
「すみません、煙草はどこで買えますか?」
アーデルハイトの質問に、案内係は怪訝そうな顔をした。
「こちらでお求めになれますが、お客様がお吸いになるのですか?」
案内係の問いにアーデルハイトはしばし逡巡し、
「ええ、昨日十五歳になったので」
と胸を張った。
「そうですか。銘柄は何になさいます?」
「《パンコウの女王》をお願いします」
そう言ってから、アーデルハイトは顔を赤らめた。六本で二十ペニヒもする高級品だ。さぞ生意気な小娘と思われるだろう。だが、初めて吸うならこれと、ずっと決めていたのだ。
「はい、どうぞ」
案内係が涼しい顔で、棚の奥から出してカウンターに置く。
初めて買った煙草は、魔法のかかった秘密の小箱にも似て、灯火の下で不思議な輝きを放っていた。お金を払って、アーデルハイトはそれを大切に制服のポケットにしまった。
「ハイジ、まだ外にいたのか」
突然背後から話しかけられ、慌てたせいで煙草が指から滑り落ちる。
「か、カオル。まだ起きてたんだね」
足元の枯れ葉を適当に踏み、煙草を消す。話しかけられるまで、全然気がつかなかった。カオルが気配を消していたのか、回想に浸って分からなかったのか。アーデルハイトの慌てた様子に、カオルが笑いを含んだ声で話しかける。
「大丈夫だ、誰にも言わない。堂々と吸え」
「あ、ああ。ありがと」
ほっと一息ついて、ポケットから煙草の箱を取り出した。慣れない手つきで一本取り出し、たどたどしくマッチを擦って火をつける。
「十五歳になった記念に、やってみたかったんだ」
吐き出した煙を手で払いながら、そうカオルに笑った。
「なんだかすごく、大人っぽくみえるぞ」
「そうかなあ」
照れ笑いをしながら、灰を落とす。
「リリアン・ハーヴェイとか、マレーネ・ディートリッヒには負けるけどね。吸ってる姿がカッコよくてさ、ずーっと憧れてた」
「そうか」
吐いた白い息が、煙草の煙と混ざり合う。それを見つめるカオルは、コートも着ない制服姿のままだった。
「ごめん、寒いでしょ。もう戻るから。心配させて悪いね」
「いや、実はハイジに聞いてもらいたいことがある」
そうアーデルハイトを制したカオルは、しばらく足元を見つめていた。その様子に、なにかいやな予感がして
「何かあったの?」
と訊ねる。
「いや、実はだな」
とカオルは二三度咳払いをした。




