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11-1

《ハウス・ファーターラント》がポツダム広場に出来たのは、今から二十六年前の一九十二年のことだ。

 それ以降、世界大戦と敗戦、ドイツ革命を経て二十八年に再建され、大恐慌、ヴァイマール共和国の終焉、総統閣下の治世と、移り変わりの激しいこの国で、ドイツ最大のレジャー施設としての威厳を保ち続けている。


 祖国(ファーターラント)という厳めしい名称に関わらず、堅苦しさとは無縁だ。華やかに着飾った大勢の男女が毎夜、タクシーから降りては蜜に群がる昆虫のように吸い込まれていく。

 女性の手にはたいていきらきら光るビーズやスパンコールで飾られた小ぶりのバッグ、首には羽や毛皮のストールが巻かれ、高いヒールの華奢な靴が、エントランスの絨毯を優雅に踏んだ。


 一階のカフェとウーファー専用映画館以外は、大人のための娯楽施設だ。

 黒人のチャールストンダンサー、肌も露わに羽飾りで全身を飾った踊り子たちがポスターの中で、けばけばしいほどの極彩色で繁華街の広告塔を飾る。

 最上階「椰子の園」のレビューホールは、ベルリンにおける夜の社交場であり、誰もが憧れるステイタスでもあった。


 その《ハウス・ファーターラント》の二階に、目指す《ラインテラッセ》はある。午後六時きっかり、イルマ・グレーゼを除く《白薔薇十字団》一行はタクシーで堂々と正面に乗り付けた。昨日と同じ、制服の胸に室咲きの白いバラを飾っている。アーデルハイトだけは特別に、クララから贈られたリボンをつけることを許されていた。


 ドアマンに恭しく迎えられ、重厚な扉をくぐる。足を踏み入れた直後、頭上に広がるどこまでも高い吹き抜けを見上げると、アーデルハイトは軽い立ち眩みを覚えた。

 天井は四階と同じ高さにあり、こうして下から覗きこむと深い井戸の底に沈んだようだ。天頂には屋敷のシャンデリアにも負けない豪華な照明が下がり、春の霧にかすむ陽のような温かな光を投げかけていた。


 四階まではエレベーターも使えるが、アーデルハイトたちは混雑を避けて階段を上った。

 吹き抜けを挟むようにして前方の地階から一階までがカフェ、二階から三階が《ラインテラッセ》、三階の小区画にトルコ風カフェがある。後方の地階から一階までは映画館で、二階は《グリンツィング》というヴィーン風カフェ、三階にはビアホール、四階にテキサス風のカウボーイバーがあった。

 この吹き抜けの天井にあたる四階には《ボデガ》というスペイン風カフェもあり、本当はそこにも行ってみたかったのだが、残念ながら次の機会に後回しだ。


(映画が成功すれば、いくらだって行くチャンスはあるわ)


 クララは言った。


「なんだか、外で見るのよりずっと広く感じるね」

「うむ、そうだな」


 天井を見上げながら、カオルが答えた。さすがに今日ばかりは、形見の日本刀を持ってきていない。たとえ持って来たとしても、入り口でドアマンに断られただろうが。着物姿の時も感じたが、帯刀していないカオルは物腰が少しだけ柔和になるような気がする。

 アーデルハイトたちと同じく、エレベーターの混雑を避けて階段を使う客は多い。女性は高いヒールにも関わらず、軽やかな仕草で器用に上ってくる。

 温かみのある照明がドレスの光沢をなめらかに照らし、鱗のように輝かせる。階段やテラスのところどころに置かれた、背の高い観葉植物や花瓶の花たち。それらの隙間を縫うように行きかう彼女たちは、巨大な水槽に泳ぐ色鮮やかな熱帯魚を思わせた。


 二階手前の踊り場にまで出ると、頭上を巨大な地球儀が飾り、四本の柱が《ラインテラッセ》、《グリンツィング》其々へと上がる階段のたもとに立つ。柱の上には、店の特色を表す木彫彩色の人形が据えられていた。

 向かって左、《ラインテラッセ》方の柱上には、ローレライを思わせる半裸の女性。右の《グリンツィング》には、オストマルクの民族衣装をまとい、ビアジョッキを手にした少女。

 いつか友達に絵葉書で見せてもらったのを全く同じだと、アーデルハイトは感激に震えた。


「さあ、行きましょ。今日はうんと楽しまなくちゃ」


 クララが先頭に立ち、店の入口へと歩き出す。明らかに周囲から浮いている一行に目を止めたボーイが、おやおやというような表情の後、丸くした目を細めた。


「いらっしゃいませ、クララさま。マクダさまから、ご予約は承っております」


 と深々と会釈をする。


「アーデルハイトさま、お誕生日おめでとうございます。今日は一番良いお席をご用意いたしました。存分にお楽しみくださいませ」


 ボーイの挨拶を奥で聞いたのだろうか、背広に身を包んだ支配人が出てきて、クララに挨拶した。髪型と髭が、どこか総統閣下に似ている。


「これはこれは、クララさま。お久しぶりでございます。この度はいらしてくださり、感謝に堪えません。相変わらず、とてもお美しいですな」

「ありがとうございます。でも今日の主役は彼女ですわ」


 そう笑ってクララがアーデルハイトの方を振り返る。


「伺っております。アーデルハイトさま、昨日は十五歳のお誕生日だったそうですが、おめでとうございます。どうぞ楽しいひと時をお過ごしくださいませ」


 ボーイに案内され、毛足の長い絨毯を踏んだ一行の唇から、驚嘆の声が漏れた。

 百八十度に広がる、呆れるほど巨大な硝子の窓が真っ先に目に飛び込む。窓越しに見える稜線と、その向こうに流れる悠々としたラインの流れ。

 パノラマはまさに山の中腹からライン川を俯瞰するそれであり、一瞬ここがベルリンのど真ん中であることを忘れてしまう。


「すごい、本当に本物のライン川みたい」


 アーデルハイトの感嘆に、クララが頷いた。


「前に来た時もそうだったけど、信じられないのよね。ここがベルリンの建物の二階だなんて」


 歩きながら、アーデルハイトは視線を上へと移した。

 金の糸で編まれた飾り紐が幾重にも連なって、首飾りのように下がっている。両端を垂直に垂れ、シャンデリアの光に揺らめくさまは、夕暮れの川面を連想させる。この上には大きなガラスの天井があり、飾り紐の隙間から窓に映る青い空と白い雲が覗く。もちろんこれも作りものの空である。


 用意された席は、目の前にパノラマを望む特等席だった。パノラマを流れる川には、本物の水が通されている。パノラマの部分は天井から水底まで六メートルで、水深はそれなりにありそうだった。時々ライン川を下る貨物船や観光船が本物さながらに行き交い、空には飛行機まで飛ぶのだ。


 早い時間にもかかわらず、周囲の席は既に満杯だ。

 ズデーテンがドイツに返還されてから、ベルリンには浮かれた気分が満ち満ちて、誰もが享楽的になっている。総統閣下の治世の元、これからのドイツは繁栄を迎えると皆が信じて疑わない。客には親衛隊や突撃隊の制服も多く、アーデルハイトたちのテーブルの方を見ては、何かを囁き合っていた。


「クララはやはり有名人だな」


 カオルが言うと、クララはつまらなさそうに肩をすくめた。


「確かにそうかもしれないわね。でも別に私に取り入っても、なんの得にもならないし。義理の姪というだけで、それ以上のなにものでもないわ」


 ボーイが来てクララが適当に料理を頼んだ。ライン川沿いの名産品である白ワインと、それに良く合う川魚のグリルや豚肉の塩漬け、ハム、ソーセージに、今しか食べられない鹿肉のパテ。

 昨日の晩餐会に続き、今夜も御馳走漬けである。アーデルハイトはこの二日間で太ってしまわないか、本気で心配になった。

 しかし、この《ラインテラッセ》が最も誇るのは料理ではない(もちろん、出てきた料理はどれも絶品だったが)。

 そしてアーデルハイトがここに来た目的は、また別にある。それは、彼女の目の前でもうすぐ起ころうとしていた。



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