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10-7

「それも一つの理屈だよね。でもさ、それはあくまであたしたちの理屈だから。あいつらにとっちゃ、生活や仕事を奪って、ずいぶん身勝手な言い草だと怒られるだけでしょ」

「でも、ユダヤ人は住んだ場所を彼らの富で独占している。ドイツでもフランスでも、アメリカでも。だから嫌われるんでしょ? だったら、世界の果てで彼らだけの世界を作って、よその世界とは関わらずに、そこで好き勝手にした方がいいと思うけど」

「まあねえ。そういう考え方が、ハイジの優しいところかもね。でもそれって、余計な優しさだと思うな。中途半端な同情は、あいつらにはむしろ一番残酷だと思うけど」


 イルマ・グレーゼと同じことを言われたと思った。見えない言葉の手で頬を張られたような気分になる。誕生日の歓びが急にしぼみ、自分の甘さ加減に自己嫌悪を感じた。


「でもグレーテルは言ったよね。私たちはユダヤの巨悪と戦う、正義の美少女戦士だって」


 アーデルハイトの言葉に、グレーテルが弾かれたように笑い始めた。ソファの背に仰け反り、泳ぐように跳ねあげた両足のせいでスカートの中身が丸見えだ。もっとも厚手の黒いタイツ故、グレーテルには「パンツじゃないから恥ずかしくない」のだろうが。


「ちょ、ハイジおかしい。だってそれ映画じゃん」


 ひとしきり笑って、目じりに浮いた涙を指で拭った。


「映画は映画だって。現実とごっちゃにしたらだめよん、ハイジ」

「で、でも……」


 年下に子ども扱いされて憮然とするアーデルハイトに、グレーテルはふんと鼻を鳴らして肩をすくめた。


「あのさあ、昨日あたしたちが見たスラブ人。あいつらにとっちゃ、爆弾で地下鉄を爆破してドイツ人をたくさんぶっ殺してさ、ズデーテンをもう一度チェコに戻すのが正義なんだよ、分かる?」

「そんな、そんなの正義じゃ……」

「でもあいつらはそう信じてる。それって、あたしたちがユダヤ人を国から追い出すのと、どう違うのかな」

「正義は、立場や国によって違うってこと?」

「そうだよ、あったりまえじゃん。絶対的な正義なんて、この世に存在しないって。神様だって信じるものが違えば、異端扱いで火焙りだよ。あたしたちの正義はドイツだけの正義で、他では通用しないよね」


 一瞬眩暈を覚えて、アーデルハイトはソファの肘かけを掴んだ。まるでアルコール中毒患者のように、手が震えている。よく知っていたはずのグレーテルが、全く知らない人間に見えた。一体彼女は何者なのだろうと、見開いた目で凝視する。

 グレーテルはそんなアーデルハイトの反応を楽しむように、不敵な笑みを浮かべた。


「だからさ、何を信じるかなんて、自分で決めりゃいいんだって。その点クララは分かりやすいよね。クララの正義は父親の復讐なんだから。ユダヤ人排斥運動に、これほど強力な大義名分はないでしょ。その先に尊敬する総統閣下がいるんだから、迷いはないよね」

「それじゃ、グレーテルは……」


 開いた口がからからに渇いていた。慌ててつばを飲み込み、掠れた声で再び訊ねた。


「そう言うグレーテルは、何を信じているの?」

「ああ、あたし? あたしはクララを信じてる。クララのためなら、何だって出来るよ」


 グレーテルはそう答え、ソファの上で膝を抱えた。栗色の瞳が狂信的なあやうい光に輝き、顔立ちの幼いこの少女を普段よりずっと大人びて見せた。


「あたしはずっと人間なんて信じてなかった。ドイツ人だろうが、ユダヤ人だろうが、人間なんて地球のゴミくらいにしか考えてなかったし。あたしの両親の話は聞いたことある?」


 アーデルハイトは黙って頷いた。

 フォン・エッセンベック、ドイツでも有数の化学工業メーカーの経営者。社長だったグレーテルの父親と、その後妻、つまりグレーテルの母親は自殺した。


「あたしの母親は死ぬ時、あたしを一人残しちゃ可哀そうだって、あたしも道連れにしようとしたんだよね。泣いてる母親に押さえつけられて、両手で首を絞められてさ。父親はそれを見てるだけで止めないし。あたし暴れに暴れて、母親の指に思いっきり噛みついてようやく逃げ出したんだ。その時、分かったんだよね。この世に神様はいないし、信じられるものなんてないって」


 その記憶を探るように、グレーテルは目を細めた。


「親が死んだあと、マルティンと二人きりになったけど、会社は国に没収されて、後は親戚をたらい回し。そのマルティンだって、今じゃ親衛隊の中尉だけどさ、あいつが昔何やってたか知ってる? 女装して、クーダムのカバレットで歌ってたんだよ。マレーネ・ディートリヒのカッコ真似して、すね毛出してさ。しかも実妹のあたしをレイプしようとした、幼女趣味の変態野郎だし」


 アーデルハイトはぎょっとして、椅子から飛び上がりそうになった。腹違いとはいえ、マルティンはグレーテルの実の兄ではないか。

 兄が妹を手籠にする。

 その醜悪さに、アーデルハイトの表情が嫌悪に歪んだ。


「あいつがさ、自分のアレをあたしの口に突っ込んで、しゃぶらせようとしたんだよね。だから、噛み切るつもりで思い切り歯を立ててやったんだ。そしたら泣き叫んでものすごく痛がって、そこら辺転がってのたうち回ってさ。親にぜーんぶバレちゃった。それからあたしのこと、悪魔か死神みたいに避けてんの、ばっかみたいだよね。それが今じゃ親衛隊の制服着て、中尉サマってんだから笑っちゃうよ。あんな女装趣味の変態、どっかの収容所のほうがお似合いだって」


 グレーテルの口調は淡々としている。だからこそその告白は重く、アーデルハイトの皮膚を粟立たせた。見えない棘で、肌の内側を擦られているような気分だ。何かを話すべきなのかもしれなかったが、どうしても言葉が舌に張り付いて出てこなかった。


「クララ」


 グレーテルはふと思い出したように呟いた。白磁のような冷たく滑らかな頬にその時、ほんの少しだけ赤味が差す。


「クララに出会えて、あたしは少しだけ変われた。クララが手を差し伸べてくれて、あたしは救われたんだ。だから、あたしがこの世で信じるのはクララだけ。今ここに居るのだって、クララがそう望んだからなんだよね。もしクララがそうして欲しいって思うなら、ユダヤ人を何百人、何千人だって殺せるよ、真面目な話」


 グレーテルはそこで言葉を切り、微笑んだ。分厚い雲の切れ目から光の奔流が溢れだしたような、心を打たれるほど美しい笑顔だった。


「ねえ、ハイジ。だからハイジも、自分の正義を持ちなよ。そうでないと、これからきついよ。ドイツのためとか民族のためとかでもいいけどさ、そういうのっていつか苦しくなるだけだからさ。大切な誰かのためとか、そういう個人的なほうをお勧めするけどな。カオルみたいにさ」


 今度こそアーデルハイトは、本当にソファから飛び上った。グレーテルはカールのことを言っているのだ。だがどうしてそれを知っている? カオルがアーデルハイト以外の誰かに打ち明けたとは思えなかった。彼女にとって、絶対に知られてはならない秘密なのだから。

 驚愕するアーデルハイトを前に、グレーテルはソファから立ち上がった。そして丁寧にスカートの皺を伸ばしながらこう言った。


「まあ、普通の人は分からないだろうけどさ、あたしの目はごまかせないから。だから、これだけは忠告しておく。イルマ・グレーゼに、あんまり近づき過ぎない方がいいよ」


 グレーテルは手をひらひらさせ、扉を開けて出ていった。

 扉が閉まった時、アーデルハイトは脱力のあまり椅子からずり落ちた。どれくらいそうしていたろう。ノックがあり、慌てて椅子に座り直す。

 どうぞ、と言うとカオルが扉を開けた。ゲッベルス夫妻が帰るので、みんなで見送ろうとの報せだった。


「なにかあったのか」


 怪訝な表情をしたカオルに、慌てて笑顔を見せ取り繕う。アーデルハイトはソファから立ち上がり、カオルと一緒に広間へと行った。

 頬を紅潮させながら、宣伝相の手を握るカオルの横顔を見つめ、アーデルハイトは決意した。グレーテルがカオルの想いに気付いていることは、死んでも言わないと。

 このことをカオルが知ったら、最悪、自らの命を絶つだろう。それだけはなんとしても避けなければならない。



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