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10-6

 驚くアーデルハイトの前で、そのまましばらくじっとして動かない。両肩が苦しそうに上下し、気分が悪そうに見えた。


「あの、ゲッベルスさま。どこかお身体の具合でも」


 アーデルハイトが思い切って話しかけると、ようやく顔から手を話し、潤んだ瞳で彼女をじっと見つめた。白目が充血して赤い。


「大丈夫だ。最近忙しくて少し疲れてね」

「冷たいお水でもお持ちしましょうか」


 腰を浮かせかけたアーデルハイトを、ゲッベルスは手で制した。


「大丈夫だ。なんともない」

「そうですか。分かりました」


 ゲッベルスは右手で頭部をひと撫ですると、


「君はミュンヘンの出身だったな」


 と訊ねた。

 アーデルハイトは、はいと頷く。ゲッベルスは酔っているのだろうかという疑念が頭をかすめた。酔うとやたらに泣き出すという性質があるらしい。だが、目前の宣伝相は酩酊した人間の口調ではない。淡々として、冷静だ。


「アーデルハイト・フォン・マイヤー。君は、なぜ自分がこの《白薔薇十字団》に選ばれたと思う?」


 そう訊ねられて、アーデルハイトはゲッベルスを凝視し、素早く考えを巡らせた。これは何かの試験なのだろうか。答え如何では、落第させられて、ここから追い出されるのかもしれない。そうだとすれば、下手なことは答えられないと、静かに生唾を飲み込んだ。


「そのことについてですが」


 アーデルハイトは両膝の上に置いた両手のひらを、ぐっと組み合わせた。


「私もずっとそのことで、ゲッベルスさまのお考えを推し量っていました。なぜ私がここに入れたのか、私自身も疑問だったからです」

「ほう」


 ゲッベルスの目が笑ったようだった。


「なぜそう思うのか、正直に話してくれたまえ」

「私がどちらかといえば、平凡な人間だからです。クララのような素晴らしいリーダーシップもありませんし、グレーテルのような明晰な記憶力や計算能力もありません。カオルは武道の達人ですし、イルマ・グレーゼルは全てにおいて飛び抜けています。ですが、私はどちらかといえば、なんでも『そこそこ』の人間です」

「なるほど」

「一応、護身術として柔術も習わせてもらいましたが、それだってずば抜けて凄いという程のものではありません。学校の成績は悪くありませんでしたが、かと言って、特に良いという訳でもありません。それは私に関して、あらゆることに当てはまることだと思います」

「いや、素晴らしい自己分析だ」


 ゲッベルスはニヤリと笑って、口元の前で手のひらを合わせた。


「そして私が君を選んだ理由は、まさにそこにある」

「そう、おっしゃいますと?」

「君は容姿こそ良いが、その他は人並みか或いはそれ以下だ。君の言う通り、なんでも『そこそこ』のレベル。だが、それが私の計画においては重要だった」

「計画というのは、来月の?」

「君がその本領を発揮するのは、むしろその後だ」


 ゲッベルスはそう言って懐から銀の煙草ケースを取り出し、煙草を一本取り出した。卓上にある大きなライターで火をつける。ライターは真鍮製で、月桂冠に囲まれた鍵十字を背負った鷲が翼を広げていた。


「聞いているだろうが、来月の計画が成功を収めたら、君たちはウーファーの映画に出演することになっている。その時の主役は君だ。そしてベルリン以外の、ドイツ各地への慰問や啓蒙活動も、中心は君にやってもらう」

「わたし、ですか? でもリーダーは……」

「もちろん、団のリーダーは今まで通りクララに勤めてもらう。しかし、映画に出た後は、《白薔薇十字団》の人気は君が一番集めることになるだろう」


 理解しかねるという表情のアーデルハイトに、ゲッベルスは勢いよく煙草の煙を天井に吐いた。


「これは私の壮大な実験でもある。宣伝の力でどれだけ凡庸な人間を売り込み、人々の心を掴み得るか。この世の中で、自分の価値観だけで物事を判断できる人間が、いったいどれだけいると思うかね。たいていの人間は、影響力のある誰かの価値観にのっとっているものだ。批評家や偉い学者、あるいは新聞やラジオの評判なんかを気にしない人間はいないだろう?」

「たしかに、それはそうです」

「だからこそ、宣伝の力は偉大なのだよ。皆が良いといえば、最初はそうでなくとも、なんとなく良さそうに思えてくるものだ。煙草やチョコレート、アイスクリーム、咳止めシロップに至るまでなんでもだ。それはたとえ人間でも変わらない。売り込み方次第で、平凡な女の子が国民的人気スターになることだってある」

「それが、私というわけですか」

「容姿は人並み外れて良く、そしてそれ以外には全く取り柄がないことが私の条件だった。計画の対象は、思わず応援したくなる、励まして、育てたくなるような余白がなくてはならない。しかも性格が良く、教師や親に対しては従順、育ちもまあまあの少女が適任だった。それに一番適ったのが、君だったということなのだよ」

「はあ」


 アーデルハイトはゲッベルスの言葉に、もどかしいものを感じた。何かを言いたい気がするのだが、頭の中でうまくまとまらない。どこかでイルマ・グレーゼに、厳しい視線を送られているような気がする。

 イルマは知っているのだ。自分が《凡庸》、《そこそこ》の枠に自ら嵌ろうとしているのは、本当にやりたいことから逃げているからだと。もし彼女の言葉を受け入れ、バレエ学校への入学を決意していれば、このようなもどかしさとは無縁だったはずだ。

 ゲッベルスはアーデルハイトの顔色など意に介さず、話し続けた。


「そういう場合、クララは全く逆だ。総統閣下の姪で容姿端麗、頭脳明晰、優れたリーダーシップ。あらゆる面でずば抜けているが、大衆受けはしないだろう。太陽と同じだよ。輝き過ぎるものは人の目をくらませて、焼き潰すだけだ」


 ゲッベルスはそこでようやく話を止め、煙草を灰皿に押し付けて揉み消した。喋り疲れたというように、煙草のやにが残る右手の人差指と中指で、瞼を押すような仕草をする。

 本当に具合が悪いのではないのかと心配になり、声をかけようとした矢先、扉が遠慮がちにノックされた。開かれた隙間から、マクダが顔を覗かせる。


「なんだ?」

「あなたにお電話よ」

「こちらから掛け直す。そう言ってくれ」

「急ぎですって。プリンツ・アルブレヒト街から」


 ゲッベルスが一瞬、右手の拳をきつく握りしめたのが分かった。そして拳を開き、妻に向けて指を三つ立てた。


「分かった、今すぐ行く。あと三分待てと伝えろ」


 扉が閉められ、ゲッベルスがタキシードのカラーを緩めた。


「話の途中ですまないな。あと何か聞きたいことはないかね」

「あの、ひとつだけお聞きしたいのですが」

「なんだね」

「映画には、イルマ・グレーゼも出演するのですか?」


 イルマの名前を出した途端、ゲッベルスがきつく眉を寄せた。なんで彼女の名前を出すんだと言わんばかりだ。


「彼女は来月の計画が実行された後、《白薔薇十字団》からは脱退する。今、彼女が抜けた後の補充の団員を、アッシェンバッハ少尉が探している最中だ。映画には新しい子がでることになる」



* * * *


 ゲッベルスが退室すると、アーデルハイトは張りつめていた姿勢を崩し、ソファの背に身体を沈めた。なんとなく予想はしていたが、イルマはやはり来月でいなくなってしまうのだ。その事実を目の前に突きつけられると、胸の奥に石がつかえたような苦しさを覚える。

 天井を見上げると、ゲッベルスが吐き出した煙が漂っていた。昔まだ小さかった頃、『世界の怪奇』という本で読んだ《エクトプラズム》を思い出す。体内の霊魂が鼻や口から飛び出している写真を、友人と怖がりながら見たものだ。今ならあんなもの、子供騙しのトリックだと笑い飛ばすが。


 だが今、この天井に漂っている紫煙には、ゲッベルスの思惟の残滓が間違いなく感じられる。疲弊し、何かに倦んでいた彼の、苦悩の一部であり残像だった。

 カチャリとドアのハンドルが下がり、


「なんだ、ハイジまだいたんだ」とグレーテルが入ってきた。

「ゲッベルスさまは、まだお電話?」

「うん、なんか話しこんでるけど」


 そう言って先ほどまでゲッベルスが掛けていたソファに座る。


「どうだった? 宣伝相と初めて会った感想は」

「うーん、マクダさまは想像以上にお奇麗だったけど。宣伝相は少しお疲れだったみたい」

「まあ、彼もプライベートでいろいろあるからね。しかも反ユダヤキャンペーンでも先鋒に立っているし、身体がいくつあっても足りないんじゃないの」

「確かに、そうだよね」


 グレーテルはよいしょとソファの上に胡坐をかいた。


「今度の体育の授業、ヨガがあるんだってさ。珍しいから楽しみだよね。本物のインド人の教師らしいけど」

「あのさ、グレーテル」


 遠慮がちに訊ねたアーデルハイトを、アーモンド形の双眸が見据える。相変わらず少年でも少女でもない、でもどちらでもあるような中性的な容貌は、真面目な表情をすれば胸を突かれるほど美しい。


「私たち、ユダヤ人をドイツから追い出すのが仕事なんだよね」そう続けたアーデルハイトに、グレーテルは頷いた。

「そうだよ。それで?」

「ドイツではユダヤ人がこれほど嫌われて、仕事を辞めさせられたり、お店を閉められたりしている。でも彼らはなかなかドイツから出ていかない。だから、私たちが彼らをドイツから追い出す旗印になるってことでしょ」

「うんうん、そうそう」

「私、いろいろ考えてみたんだけど。これだけ嫌われてるんなら、ユダヤ人はやっぱりマダガスカルとかに移住した方が、むしろ幸せになれるんじゃないかな? そこでドイツ人とは一切関わらないで、彼らだけの王国で暮らせば、お互いにいいことなんじゃないかって」

「ふうん。面白いね」


 グレーテルは胡坐を解いて脚をぶらぶらさせた。



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