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入浴を済ませ、髪をブラシで梳く。いつものように二つに分けて高い位置で結ぼうとするのだが、左右の位置が合わず上手くいかなかった。ゲッベルスさまにお会いするのだから、いつもよりきちんとしたいと思えば思うほど、指先が思うように動かず、何度もゴムで結んでは解いた。
いい加減イライラしてきたところに、ノックがしてクララが入ってきた。両手を後ろに隠し、首をいたずらっぽく傾げている。
「ハイジ、今いいかしら?」
「あ、うん。今、ちょっとテンパってるけど」
「どうしたの?」
「髪が上手く結べなくて」
うんざりした表情を浮かべるアーデルハイトの背後に回り、
「やってあげるわ。ブラシを貸してくれる?」
両肩に手を置いた。アーデルハイトからブラシを受け取ると、慣れた手つきで髪を梳いてまとめる。考えてみたら、クララに髪をいじられるのは初めてかもしれない。クララの細い指先が毛先を滑るたびに、背筋がくすぐったくなった。昔こうやって母に、よく髪を結んでもらったことを思い出す。甘美な思い出に胸が一杯になり、目をそっと伏せる。
二つに分けた束をゴムで結われ、
「さ、出来た」
とクララの声で鏡に視線を戻すと、左右の高さがきちんと揃いぴしりと決まった自分が居た。いつも自分がするより、どこか垢ぬけているような気がする。
「ありがとう」
と礼を言うと、クララが制服のポケットから牡丹色のリボンを取り出した。つややかな光沢を放ち、一目で高価な絹地だと分かる。
「これ、私が伯父さまから頂いたものなのだけど、ハイジにあげるわ」
アーデルハイトは言葉に詰まり、目の前のリボンを見つめた。リボンはクララの手のひらで、朝露に光る花弁のようななめらかな光をその細い身に帯びている。
「そんな、ダメだよ。そんな大切なもの」
「いいのよ、ハイジにどうしても使ってほしいの。ほら素敵でしょう、フランスの修道院で作られたものなのよ。伯父さまが、わざわざパリから取り寄せて下さったのですって」
クララはハイジの返事を待たず、リボンを結わえたゴムの上から巻き付け、蝶結びにした。長く垂れたリボンの端はアーデルハイトの眦の横でひらひらと踊り、いつもとは違う華やぎを与えていた。
「いいの? 総統閣下からの頂き物なのに」
「だからこそ、あなたに使ってほしいのよ。大切な仲間、ううん、家族ですもの」
「クララ」
「本当は怖かったの。昨日のことで、ハイジに失望されたんじゃないかって」
アーデルハイトの両肩に置かれた手に、僅かな力がこもる。鏡の中でクララは少しだけ哀しそうな顔をした。
「イルマ・グレーゼに敵わないことは、分かっているの。だからこそ、あんな風にかっとなるべきではなかったわ」
アーデルハイトは唇を噛んでうつむいた。彼女の口づけの感触を思い出そうとするのだが、一遍の名残すら失われていることに胸が痛む。
「クララ、私は……」
「いいの、無理に言わなくても。でもね、ハイジ。彼女は私たちとは、別の世界に住む人間よ。あまり近づき過ぎない方がいいわ。あなたはあまり気にしないようだけど、無防備すぎて、少し心配なの」
それにはあえて答えずに、アーデルハイトは肩に添えられたクララの手に己の手のひらを重ねた。
鏡の向こうには十七歳のクララと十五歳になりたての自分が座り、少し硬い表情で微笑んでいる。
もし十分後に二人がこの部屋から去っても、彼女たちは鏡の世界で、永遠を生き続けるのかもしれない。
****
広間の大時計が六時を告げる。
音が止むと深い静けさが屋敷全体に広がり、皆は息を殺して外の音に耳を澄ませた。やがて遠くの方から、大きなエンジン音が徐々に近づいて来るのを認めると、正装姿のヨハンさんとタフタのドレスに身を包んだアンナさんは、急いで裏口から出ていった。
アーデルハイトたちは一斉に整列し、みな堅い面持ちで玄関の扉が開くのを待っている。
制服に室咲きの白薔薇を飾り、眉目秀麗な少女たちが一列に並んでいるさまは、アンナさん曰く
「眩しくて目が潰れそう」
らしいのだが、アーデルハイトは自分がみっともない顔をしていないかと気が気ではない。ゲッベルス夫妻の前では主賓らしく、優雅に振舞いたかった。
扉が開く。タキシードに身を包んだヨハンさんの横をすり抜けて、賓客の二人が姿を現した。久々の主を向かい入れた屋敷の広間は、歓喜にうち震えたようにアーデルハイトの目には映った。それほど、二人の登場は輝かしい空気をまとっていたのだ。
宣伝相、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス。
映画で見た印象通りの小柄な体格だが、見る人を震え上がらせるほどの、鋭利な光を帯びた目が印象的だった。その眼光は、周囲のあらゆるものを瞬時に支配下に置き、従えさせる威厳に満ちている。右足を少し引きずるように歩くが、まるでそう歩くことが、彼の勤めだとでもいうようだ。
そして彼に寄り添い、現われたその女性。人間というより白い芍薬という言葉の方が的確な彼女に、アーデルハイトたちの心は奪われてしまった。
クララの言ったことに嘘はなかった。映画で見るより、実物はずっと美しい。波を打つ金色の髪、銀色につやめく毛皮のコートをはおり、微笑むと眼元と口元にしわが寄る。そのしわですら宝飾品のように彼女を飾り、他を圧倒するほどの美を構成する一要素であった。
「ようこそお越し下さいました。ヨーゼフさま、マクダさま」
クララが一歩前へ進み出て、膝を軽く折って挨拶をした。
「久しぶりにこちらに来たけれど、ずいぶん賑やかね。それで、主賓のお嬢さんはどちら?」
芍薬が口をきいたと思った。大輪の花に相応しい濃厚な花の香りが漂い、鼻孔をくすぐる。甘い芳香は鼻孔から全身へと沁みわたり、妖しげな媚薬のように、アーデルハイトの思考を麻痺させるようだった。
立ちすくみ身体が動かない主賓に、クララが
「ハイジ、ほらご挨拶を」
と助け船を出す。ようやく現実に返ったアーデルハイトが、
「は、はい。わたくしです、フラウ・ゲッベルス」
とつかえながら返答した。なんていうことだ、ちくしょうと心の中で悪態をつく。これのどこか優雅だよ、まったく。
「あらあら、そんなに緊張しなくても宜しいのよ。でも本当に可愛らしいお嬢さんだわ。クララからあなたのことは、よく聞いているの」
「は、はい。光栄です、フラウ」
「マクダで結構よ。ハイジ」
手袋をはめた手が、アーデルハイトの頬を撫でた。感極まって泣いてしまいそうになるのを、ぐっと堪える。
「奥さま、お召しものを」
声をかけたアンナさんの方へ振り返り、毛皮のコートを脱いだ。胸元が大きく開いた若草色のドレスには、隙間なく色とりどりの小さなガラスビーズが縫い止めてあり、広間の明かりを虹色に乱反射する。はあっと息を吐いたアーデルハイトに、芍薬が嫣然と微笑んだ。
「持病の腰痛はどうだね、ヨハン」
ゲッベルスが訊ねるのを聞いていたアーデルハイトは、彼らの背後で音もなく玄関の扉が開いたのに気がついた。扉の隙間から滑り込むように入ってきたイルマ・グレーゼを見つけ、息をのむ。
「いらっしゃい、イルマ・グレーゼ」
マクダが声をかけた。その口調はどこか犬を呼び付けるようにぞんざいだった。イルマはつかつかと歩み寄り、マクダとアーデルハイトの前で足を止める。視線を真っ直ぐ前方に向け、アーデルハイトの方をちらりとも見ようとしなかった。
「今日は、彼女も一緒にお祝いするのですってね」
「ええ、彼女も団員の一人ですので。ハイジがそう希望したことですし」
クララがマクダにそう答える。
「優しいのね、ハイジ」
マクダはアーデルハイトに笑いかけた後、イルマを冷たく一瞥して夫の方へと向き直った。ゲッベルスは妻の視線を受けて、マクダとイルマを交互に見遣った。そして黙って肩をすくめる。まるで
「私にどうしろと?」
そう言っているようだった。
「ささ、お食事の支度が出来ておりますよ」
ドレスの上からエプロンをつけたアンナさんが、一堂を来客用の食堂へと誘った。今日は特別に、あの素晴らしい特別な食堂で会食をするのだ。




