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10-2

 誰かがアーデルハイトの左にふらりと立った。


 そう思った次の瞬間には耳を劈く銃声が六発、初冬の凍える大気を切り裂いて鳴り響いていた。

並んでいた男たちが膝を折り、どさりと鈍い音を立てて地に転がる。頭から流れ出た血はみるみるうちに硬い土に広がり、人工的な灯りの下で、溶かした樹脂にも似た粘着質の光を帯びた。


 あっけに取られた周囲の視線の先に、銃を下したイルマ・グレーゼがいる。その両手には、銃口から煙をたなびかせるヴァルターP38が二丁、各々握られていた。むせるような火薬臭の中で、アーデルハイトは呆けた表情でイルマを見つめていた。いや、この場にいる誰もが、奇妙な放心状態のなかにいたのだろう。

 真っ先に我に返ったのは、アーデルハイトたちの背後で事の成り行きを見守っていた親衛隊員だった。


「確認しろ、急げ!」


 兵士に声を荒げ、一人ずつ処刑された男たちの体を検めさせた。四人の兵士たちが男たちの頭部を持ち上げ、首の後ろあたりを詳細に調べていく。検分が終わった兵士は親衛隊員に駆け寄り、そっと耳打ちをする。親衛隊員がにやりと口元を歪めイルマの方に目をやった。

 その表情に説明のできない嫌なものを感じ、アーデルハイトは唇を噛んだ。どうしたらいいのだろうと混乱する頭で考えた矢先、


 ぱん!


 と手のひらで何かを打つ音がして、反射的に音のした方へと素早く視線を切り替えた。

クララがイルマの頬を打った手をわなわなと震わせている。


「一体どういうつもり?」


 クララの声は怒気を含んで強張っていた。


「勝手なことをしないで。一人で先走って、そんなに銃の腕前を披露したいの? 自分だけが特別と思ったら大間違いよ。これは重大な命令違反だわ!」


 打った手を握りしめ、クララはアーデルハイトを見た。

 唇が震え、頬の内側を必死で噛み締めているような、痛みを押し殺した表情だった。いつも穏やかで天使か聖母かという彼女の初めて見る激昂に、アーデルハイトは言葉を失う。

 打たれた方のイルマは銃を腰のホルダーに収め、アッシェンバッハ少尉を直視した。今までに見たこともない凄惨な殺気を宿した、灰色の冷ややかな瞳。思わず肌が粟立ち、そっと窺うと、少尉がごくりと喉を鳴らすのが分かった。


「お取り込み中、申し訳ありませんな。少尉」


 四角い顔の親衛隊員が、話に割って入った。どこかこの状況を楽しんでいるような口調だ。嵌めた右の革手袋を左手で引っ張り、右手のひらを握って開く。


「兵士たちに奴らの体を調べさせましたが、銃弾は全て首の付け根、ここの窪みに綺麗におさまっているそうです」


 親衛隊員は左手の人差し指で、自分のうなじのあたりを指差した。アッシェンバッハ少尉は「ほう」と一言答える。


「実に見事な射撃の腕前ですな。芸術的と言ってもいい。噂には聞いていましたが、あの《長いナイフ》の技術をこの目で見られるとは、実に幸運でした」

「クラーマー少尉にそうおっしゃって頂けるとは、この上ない光栄です」


 アッシェンバッハ少尉はそう答えて、放り出された死体たちを見やった。


「長官への報告は私からしておきますよ。これの後始末も」

「では、お言葉に甘えてお願いしたい」

「待ってください、少尉」


 それまで黙って聞いていたクララが口を開いた。


「まだ終わってはいませんわ」


 クララはアーデルハイトの手を取った。


「いらっしゃい、ハイジ」


 そう言って手を引き、地面に伸びた死体の一つに寄った。


「これを撃つのよ」


 アーデルハイトはクララと向き合い、しばし見つめあう。灯火のほの白い明かりに揺れる瞳は、殉教の覚悟を決めた者だけが宿す、狂気を孕んだ熱情を底に沈ませていた。

 クララの意図は分かっている。

今はこうなってしまったが、それは問題を先延ばしにしただけのことだ。総統閣下とゲッベルスさまに選ばれたものとして、必ず成し遂げなければならない通過儀礼。


たとえ生きてはいない死体でも、訓練の的板とは雲泥の差である。それなら、今ここで出来ることをさせたいという、クララの心遣いなのだ。

それが分かるから、アーデルハイトは黙って頷いた。存在を忘れかけていた手のなかのヴァルターを、しっかりと握りなおす。左手を添え、引き金に掛けた指に力を込める。

男は目を閉じ、髭のなかに埋もれた口元から血泡を吹いていた。血の気を失った顔は蝋のように白い。その顔に既視感を感じ、いったい誰だったろうと素早く頭を回転させた。

どこかで見た顔だった。それなのに思い出せない。


「ハイジ」


 クララが耳元で囁く。その声で引き金に掛けた指を思い切り引いた。

 銃声が響く。男の顔が、母が持っていた聖画のイエス・キリストに似ていると分かったのは、二発目の銃声を聞いたのと同時だった。

 十字架に磔にされ、死んだ後聖母マリアに抱えられたピエタの像。画家の名前は知らない。若く美しい母の腕に抱かれた顔は、足元に横たわる彼にそっくりだった。

 その顔の真ん中に、銃弾を撃ち込んだ。二発続けて。銃弾をめり込ませても、血は流れない。すでに肉塊と化した、ただの《もの》だった。良心だって痛まないはずだ。


(エロイ・エロイ・レマ・サバタクニ)


 わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?

 知らない声が、耳元で聞こえたような気がした。いや、ただの空耳だ。アーデルハイトは目を閉じ、縋るように、汗ばんだ手のひらでクララの手をそっと握った。



* * * *



 結局、死体を撃ったのはアーデルハイトだけだった。

 少尉の命令で、イルマ・グレーゼ以外の団員はバスで帰ることになり、それぞれ屋敷で休息を取ることを命じられた。アーデルハイト以外は何もせずに帰ることになったわけで、帰りの車内には白けた空気が漂っていた。

クララはカーテンのかかった窓から視線を外さず、グレーテルは堂々といびきを掻いて寝てしまった。カオルは労わるような視線を度々アーデルハイトに送る。そして当のアーデルハイトは疲労と緊張からの解放で、車酔いにかかっていた。


とにかく、やるべきことを終えたのだ。屋敷に着いたらお風呂に入り、少し眠ろう。遅い朝昼兼用の食事を済ませ、出された課題をやり、夕食を終えて眠れば明日になる。

明日は何と言ったって誕生日なのだから。待ちに待ったゲッベルスさまとマクダさまにお会いできる、一世一代の晴れ舞台の日なのだから。夢にまで見たことが、とうとう本当になるのだ。胸がときめかないわけがない。

喉元までせりあがってくる吐き気と闘いながら、アーデルハイトは出来るだけ楽しいことを考えた。屋敷中を飾りつける金モール、レコードから流れる、チャールストンやタンゴの音楽。大きな誕生ケーキ、フルーツポンチ、シャンペン、花瓶に活けられた花たち。


玄関の大扉が開き、登場したタキシード姿の宣伝相と美しく着飾ったマクダが揃って絨毯を踏みしめ、広間へと進んで来る。歩みの先にはアーデルハイトが『ハイジ』で観たシャーリー・テンプルみたいなお姫様のドレスを着て、恭しく頭を下げていた。


「お待ちしておりました。ゲッベルスさま、マクダさま」


ドレスをつまんだ手をマクダが優しく取り、にっこりとほほ笑んだ。感動のあまり泣き出しそうなアーデルハイトの頬を、マクダさまが優しく撫でた。


「マクダさま……」


 アーデルハイトがそう答えようとしたまさにその時、背後からクララの声がした。


「待ってください、マクダさま。まだ何も終わっていませんわ」


 クララはそう言って、アーデルハイトの手を引いた。

 彼女が連れて行った先には、何百人もの裸の死体が山のように積み重なっていた。やせ衰え、骨と皮だけになったそれは、目路のはるか向こうまで無造作に転がっている。息をのみ、ふと見た足元には、底が見えないほど大きく深い穴がぽっかりと黒い口を開けていた。


「さあ、ハイジ、これをこの穴に捨てるのよ」


 どうしようかと考えた時、バスが止まりカオルに肩を叩かれた。


「ハイジ、着いたぞ」


 肩を貸そうかと申し出たカオルの厚意を断り、おぼつかない足取りでバスを降りた。冷たい空気は饐えた腐臭に満ちた肺腑にありがたく、深呼吸をして嘔吐感を紛らわせる。


「ハイジ、顔色が悪いぞ、大丈夫か」


 カオルの声が妙にくぐもって遠い。鋭い痛みが下腹部に走り、両手で押さえてその場にしゃがみ込む。どろりとした粘液の感触を太ももの間に感じ、うずくまると同時にアーデルハイトは気を失っていた。



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