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9-2

「ああー、やっぱり我が家だよね、帰ってくるとほっとする」


 談話室の椅子に座ったグレーテルが、両手を上げて大きく伸びをした。午後の薄い光が栗色の髪に揺らめき、磁器のような白い頬を滑る。隣にはクララが座り、微笑みながらニュルンベルクで買い求めたチョコレートを摘んでいた。

 アッシェンバッハ少尉をニュルンベルクに残し、クララとグレーテルが屋敷に戻ったのは九日の昼過ぎである。荷物をほどき、少し早い午後のお茶の時間になった。


「本当に、何もかもが素晴らしかったわ。今までにない大規模な大会だったもの」


 興奮からクララの頬が淡いばら色に染まる。伯父である総統閣下に会えたのが、よほど嬉しかったのだろう。緑柱石を思わせる美しい瞳は、いつにもまして輝いていた。


「前夜祭のオーケストラは、フルトヴェングラーが指揮をしたのよ。とてもすごい演奏だった。ハイジとカオルにも聴かせたかったわ」


 フルトヴェングラーはクララが大ファンの指揮者だ。総統閣下と一緒にコンサートを見られたのだから、クララにとっては二重の歓びだったに違いない。

 ハイジの隣で、カオルは今朝の《フェルキッシャー・ベオバハター》に目を通している。熱狂する大会の様子と、参加した日本代表団の写真が掲載され、彼らの動向についての記事が書かれていた。


「日本の方々にも、少しだけお目にかかったわ。皆とても礼儀正しくて、びっくりするくらい。礼節を重んじると聞いていたけど、本当にそう。カオルは例外ではないのね」

「そう言ってもらえて、私も誇りに思う」


 カオルがそう言って、畳んだ新聞をテーブルの上に置く。大会の熱気を伝える文字が踊り、写真の中でユーゲントの少年たちが、腕がちぎれんばかりに力強い敬礼を捧げていた。

 大会は十二日まで行われ、それまで《白薔薇十字団》は小休暇状態だ。授業と軍事教練の再開は十三日火曜日からで、それまでは自由に過ごして良いことになっている。


 クララはニュルンベルクに溢れていた活気を、事細かに話して聞かせた。泊まったホテルの豪華さや、夜のイルミネーションと鳴り響いていた音楽。

だが、彼女の口からあまり総統閣下のことは語られない。クララの中で総統閣下は、語るには重すぎる存在なのだ。丁度カオルにとっての義父カール、アーデルハイトにとってのイルマ・グレーゼと同様に。


「ゲッベルスさまとマクダさまにもお会いしたのよ。ここでの活動を、とても褒めて下さったわ」

「マクダさまが?」


 上半身を乗り出すアーデルハイトに、クララは頷く。


「ええ。それにハイジ、びっくりするニュースがあるのよ」

「あんまり驚いて、漏らしちゃうかもよ」


 ニヤリと笑って横やりを入れるグレーテルを、クララは


「もう、下品なこと言わないの」


 とたしなめた。

 漏らしちゃう? そんなにびっくりするニュースって、いったい何だろう。


「あのね、来月ハイジの誕生日でしょう? その誕生会に、ゲッベルスさまご夫婦がいらして下さるのですって」


 人間というものは自分の理解の範疇を超えると、脳が一瞬動きを止めるらしい。ぽかんとした表情で、クララとグレーテルをかわりばんこに見た。来月の誕生会? ゲッベルスさま? ここにいらして?

 頭の中でバラバラになった部品が、ゆっくりと少しずつまとまってくる。二人は期待と困惑が混ざり合った微妙な表情で、アーデルハイトの反応を辛抱強く待っていた。


「ハイジ、大丈夫か」


 カオルの言葉がきっかけだった。アーデルハイトはふらりと立ち上がり、思い切り叫んでいた。


「きゃあああああああああああ☆」


 アーデルハイトはカオルの膝に乗って抱きつき、足をバタつかせた。


「うそ、うそ、うそ! 信じられないっ! やだっ!いやっ! マジ!」

「ハイジ、落ち着け」


 抱き着かれたカオルが、笑いながら背中に手を回す。


「しかし、本当なら凄いことだな。私もにわかには信じられなかった」


 ふふふと笑ったクララが、頬にかかる髪を指にくるくると巻きつけた。


「ゲッベルスさま、私たちのことをずっと気にかけて下さっていたようなの。でもなにしろ、お忙しいお身体でしょう。なかなか私たちを訪ねる時間がなくて、心苦しく思って下さっていたみたい。それで、来月ハイジの誕生会をすることをお伝えしたら、ちょうどいい機会だからって、お二人でこのお屋敷に来て下さることが決まったのよ」

「あああ、なんてこと! どうしよう、クララ」


 カオルに巻き付けた腕を緩め、途方に暮れた表情になる。

 そんなアーデルハイトに、グレーテルが呆れたような口調で言った。


「あのさあハイジ。ハイジのお誕生会なんだから、お祝いされる側なんだよ。そんな慌てふためかないでさ、もっとでーんと構えてなよ」

「そうよ、ハイジ。あなたは主賓なんだから、楽しみに待っていればいいの」

「そ、そうかな」

「クララとグレーテルの言うとおりだ、ハイジ。お誕生会のことは、私たちに任せておいてくれ」


 カオルにもそう言われ、アーデルハイトはようやく落ち着きを取り戻した。カオルの膝から下りて自分の席へと戻り、まだ早鐘を打つ心臓の上に手のひらを当てた。


「それから、これはハイジだけではなくて、カオルや私たちにも関係のあることなのだけど、ゲッベルスさまからみんなに贈り物があるそうよ」

「贈り物?」


 カオルが怪訝な顔になる。


「ええ、一応ハイジの誕生祝いだけど、ハイジだけじゃ不公平だからってマクダさまが」

「そ、そんな、私まで頂くのは申し訳ない!」


 カオルが顔を真っ赤にして立ち上がった。


「わ、私のような者が、げ、ゲッベルスさまに……。ど、どうしようハイジ」

「カオル、大丈夫よ、落ち着いて」


 小刻みに震えるカオルの手を、今度はアーデルハイトが笑って取った。


「んもう、二人ともだいじょおぶ?」


 グレーテルが眉を寄せて胸を反らした。


「ゲッベルスさまって言ったってさ、神様じゃないんだから、もっと普通にしなよ」

「でも、気持はわかるわ」


 クララは紅茶を一口飲んだ。


「私だって、初めて総統閣下に御目にかかった時は、夢じゃないかと思ってほっぺをつねったくらいよ。グレーテルは誰が相手でも、リラックスし過ぎなんだから」

「ふふふん」


 グレーテルはチョコレートを口に放り込む。


「ま、それより先に、六日の実地訓練が先だけどね」


 グレーテルの一言で、場の空気がさっと沈み込んだ。

 アーデルハイトとて、決して忘れていた訳ではない。正直な話、誕生会への期待が大きすぎて、あえて考えないようにしていたのは事実だった。だが実地訓練を済ませなければ、誕生会もへったくれもない。浮ついた心に、いきなり冷や水を浴びせられた気がした。


「六日というのは、間違いないのか」


 先ほどとは一変した厳しい面持ちで、カオルはグレーテルに訊ねた。


「アッシェンバッハ少尉がゲッベルスさまに言っていたから、間違いないね。今度は前より、もっとハードな内容になるみたいだけど」


 カオルが息を詰めるのが、アーデルハイトには分かった。

 グレーテルの言わんとすることが何なのか、嫌でも理解できる。既に馴染んでしまったヴァルターP38の質感が、手のひらに鮮明に甦る。

 頭の片隅では分かっていたのだ。射撃訓練をするということは、いつかどこかで本番があるのだと。

 グレーテルはカオルとアーデルハイトに、覚悟を付きつけているのだ。ここまできたら腹をくくれと。それは分かっている。前回のような無様な姿を晒すわけにはいかない。


 だが本当に出来るのかと、もう一人の自分が心の片隅で問い掛ける。練習用の的に向かって引き金を引くのと、生身の人間に対してでは決定的に何かが違う。


(人を殺すことに慣れれば慣れるほど、魂は少しずつ死んでいくの。やがては何も感じなくなるわ。私みたいに)


 イルマの声が記憶の底から響いて、冷たい汗が脇の下を流れた。ここにいれば変わらざるを得ないと言ったイルマの言葉の重みが、今更ながら両肩に圧し掛かる。


「脅かすようでごめんなさい」


 クララが静かな声で言った。


「でも今から、心の準備をしておいた方がいいと思うわ。二カ月先の任務のこともあるし」


 カオルが紅茶に口をつけて咳を一つした。


「その任務のことだが、詳細はまだ分からないのか」

「日にちだけは分かったわ。決行は十一月の九日。ちょうど二カ月先なの」

「十一月の九日、それじゃ」


 アーデルハイトがクララを凝視した。一九二三年十一月九日、それは父ラインホルトから何度も聞かされた、ミュンヘンでのビアホール一揆の日だ。総統閣下が行動を起こされ、空しく逮捕、投獄された苦難の過去の一頁。


「ええ、帝国にとっては屈辱的な日。ゲッベルスさまがその日を意図的に選んだのには、もちろん理由があると思う」

「だが、内容についてはまだ分からないと」

「その内容については、来月の十九日に、アッシェンバッハ少尉から説明があるということだわ」


 緊張を孕んだ声で、クララはカオルにそう答えた。詳細についてはクララも知らないのだろう。


ゲッベルスさまとその周囲で、極秘裏のうちに進められてきた計画だ。《白薔薇十字団》もそのために厳しい軍事教練をこなし、着々と準備を進めてきた。

そして、それはパンドラの箱のように開けたら最後、もう二度と取り返しは付かない。計画の全貌を知ってしまえば、ここを抜け出すことは不可能だ。


「まあ、あと二カ月だもん。時間はたっぷりあるしさ」


 グレーテルだけは、いつもの通り飄々としたものだった。口元を引き締めたカオルとアーデルハイトに、チェシャ猫のような笑いを投げかけた。


「ねえねえ、それよりさ、知ってる?」


ロクでもないことを話す時の常として、グレーテルはおかしくてたまらないといった様子で声をひそめた。


「ほらほら、一昨年の党大会で、少女団の女の子たちが軒並み妊娠しちゃったでしょ。なんかそれで今年は、ユーゲントの男の子たち全員に、コンドームが支給されたんだってさ」



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