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9-1

「昨日は何をしたの?」


 傍らに立つアーデルハイトの問いに、イルマは顔を上げた。 彼女の手の中で、ヴァルターP38は今まさに組み立てられようとしているところだ。テーブルの上に散らばる大小さまざまな部品は、灯りの下、甲虫の死骸めいた姿を晒している。


 図書室の柱時計は夜の十時を回っていた。カオルは疲れたらしく、夕食の後早々と自室に引き上げ休んでいる。

 今日の午前十一時、リリーとカールはぐずり、泣きべそをかくマックスを連れて、動物園駅からドレスデンへと帰って行った。見送ったカオルとアーデルハイトはそのまま動物園へと繰り出し、午後まで遊んで屋敷へと戻った。


 カオルはすっかり元の通りの彼女になり、昨日の泣き顔が夢の一部だったのではないかと思えるほどだ。アーデルハイトに告白をしたことで、ある意味心の重石が取れたのだろう。どこか吹っ切れたような、晴れ晴れとした顔つきであった。

 九月八日木曜日は昨日に引き続き、気持ちの良い秋晴れだった。気温が上がってまるで夏に戻ったような陽気となり、人々は着こんだ長袖の上着を、流れる汗を拭きながら脱いでいた。それでも降り注ぐ光は透明さを増し、硝子細工のような繊細さを帯びている。照らされた夏草は黄色く変色し、徐々に枯れ始めていた。


 アーデルハイトとカオルが屋敷へと戻ったのは、午後三時過ぎだった。一日しか空けていないのに、久しぶりに戻ったような気がした。アンナさんとヨハンさんの顔を見て、心の底から安堵し、この屋敷が今ではもう一つの我が家であることを改めて実感する。

 イルマはしばらく答えを考えていたようだった。


「いろいろと、やらなければならない用事を済ませたわ」


 そう答えて、イルマは再び手を動かし始める。甲虫の死骸たちが、彼女の手のひらの中で別の生命を宿す。あっという間に完成したヴァルターは闇に潜む獣の、凶暴な輝きを宿した双眸にも似ていた。

 銃を懐に仕舞い、イルマ・グレーゼはアーデルハイトをじっと見上げた。数秒の後、


「ハイジ」


 と呼びかけた声に、アーデルハイトは飛び上るほど驚いた。彼女が自分を名前で呼ぶのは初めてだ。


「昨夜、あなたが私を呼ぶ声が聞こえたわ」


 イルマが囁くように言った。


「夜の十時か、その後くらい」


 イルマは目を伏せて、細い指で銀色の髪を梳く。図書室の時計の音が、いつもより乾いた音を立てる。

 不可解で奇妙な沈黙だった。何か大切なものが舌の上まで来ているのに、それは言葉に出されることを拒否している。語らないことでしか伝えられないものがそこにはあって、外の世界とは全く別の時間が二人の間には流れていた。

 右の指先をおずおずとイルマの肩に置く。イルマの手が甲に重なり、包み込むように触れた。官能とは違う温かなものが全身を貫くのを感じ、泣きたいような衝動に駆られて、アーデルハイトは思わず目を閉じた。


 これは罪なのだろうかと、アーデルハイトは自身に問い掛ける。かけがえのない、一人では決して見つけられないものが、イルマとの間には確かに存在した。彼女の手の温かさには、自分に欠けているもの全てがあるように思える。もしこの先誰かに恋をすることがあっても、このような一体感を感じることはないだろう。


 だがもし誰かに見咎められたら?


同性愛の罪で収容所に入れられたら、父やハンナがどんなに悲しむだろうか。ドイツの未来を担うという、輝かしい希望は失われる。収容所は一度入ったら、二度と出てこられないという噂だった。

アーデルハイトは嫌な考えを頭から押しのけ、目を開ける。


「以前私が言ったことを覚えている?」イルマが包んだ手のひらに微かな力を込めた。

「なに?」

「あなた以外の何者かになろうなんて、思わないことねと」

「ああ、そういえばそんなこと言われたね」

「あなたはそのままでいいわ。ずっと変わらないでいてほしいと、私は願っている。でも……」

「でも、なに?」

「ここにいれば、そんなことは言っていられなくなる。容赦なく、変わらざるを得ない状況になるわ。そうなれば、あなたは今のままのあなたではなくなってしまう」

「それは、ここを出て行けってこと?」

「はっきり言えばそう。こんなところに居るよりも、あなたには行くべきところがあるはず」


 行くべきところ? アーデルハイトはとっさにミュンヘンの実家のことを考えた。だが、イルマの言っているのはそれとは違うような気がする。


「例えば?」

「どこかのバレエ学校に入学する気はない?」


 アーデルハイトはイルマの肩に置いた手を引っ込めた。甲に残る彼女の体温が、皮膚を伝って胸の奥へと刺さるような鈍い痛みを感じる。


「私は……」

「分かっている。でも、私が学費を出すと言ったら?」

「イルマが?」


 驚愕のあまり自分の声が少し上ずっていたのを、アーデルハイトはどこか他人事のように耳にした。


「あなたには、才能があると思う」

「バレエ学校って高いんだよ。そんなお金、どこから」

「私にもささやかながら、財産というものがある。でも私には使いようがない。たぶん、これからもずっと。だから、あなたに使ってもらえるのならそれで満足だわ」

「そんな、無理だよ……」


 アーデルハイトは途方に暮れて、イルマの隣席に座りこんだ。

 もし本当にバレエ学校に行けるのなら、これほど嬉しいことはないだろう。夢を諦めなければならない寂しさを、笑ってごまかしながら生きてきた。

 来月でアーデルハイトは十五歳になる。本格的にバレエのレッスンを受けるとすればギリギリの年齢だった。

 だが、学費の出所が何処にせよ、ここを出てバレエ学校に行くということが、今のアーデルハイトには不可能に思えた。


 人として、女性としての幸せと引き換えに、人生を総統に捧げると誓ったクララ。カールのために、どうしてもここで結果を出したいと切望するカオル。この二人を置いて、ここを出ることなど出来ない。それは個人主義の悪しき弊害、ただの自分勝手な我儘に過ぎないように思えた。

 それだけではない。この計画には宣伝相ゲッベルスが直々にアーデルハイトを指名し、参加させている。ここを出てバレエ学校に行くなどと言えば、娘を送り出した父の面目をも潰すことになるだろう。


「私には……、出来ない」


 膝の上で両手を痛いほど握りしめた。最後のチャンスをこの手で握りつぶす苦痛だった。だが、これ以外の選択肢が何処にあるというのだ。アーデルハイトは項垂れて、何もないテーブルの木目を凝視する。


「分かった」


 感情のこもらない声でイルマは答え、席を立った。


「残念だけど、それがあなたの出した答えなら尊重するわ。でも、これだけは覚えていて」


 イルマは姿勢を低くし、椅子に坐したままのアーデルハイトの肩を抱いて額に口づけた。冷やりとした唇が離れると、そのままアーデルハイトの耳朶に近づける。耳の奥に温かな吐息が囁きと共に流れ込んだ。


「あなたのその優しさが、いつか多くの人を、不幸にするかもしれない」


イルマの声は予言者のような確信に満ち、アーデルハイトの心をざわめかせる。


「善意が報われるとは限らない。良かれと思った行為が、最悪の結果をまき散らすことだってあるわ。私はそれを、嫌というほど知っている」


 イルマの手のひらが、アーデルハイトの両頬を包み込んだ。見下ろす灰色の双眸に、悪い熱病を患ったような暗い光が宿っている。いつかこんな目で見られたことがあったような気がして、アーデルハイトは記憶の糸を辿った。


(なぜ、あなたは、ここにいるの?)


 抑揚のない問いが、鼓膜の奥底から浮き上がった。そうだ、あれはイルマが雨に打たれて、濡れて帰って来た日だった。身体中に煙草の匂いをしみこませ、ぼんやりとねじが切れたように立ち尽くしていた姿を思い出す。


「イルマ?」


 あの時と同じだった。イルマ・グレーゼはアーデルハイトを見ているようで見ていない。自分の背後に居る別な誰かを、その瞳に捉えているのだ。

 イルマは頬から手を離し、目を逸らして天井を仰いだ。


「昔、あなたによく似た人がいたわ。顔も、その優しさも、何もかもが生き写しと言っていいくらい瓜二つ。でも彼女の優しさは、何一つ誰かを幸せにはしなかった。私は今でも、彼女を激しく憎んでいる」

「それは……、誰なの」


 問いかけた声は乾いて、自分のものに聞こえなかった。

唐突に、傍らに居るイルマがどこか幻めいた実体のない存在に見えた。過去からの幻影。そう、本当の彼女はもうとっくに死んでいるのではないか。アーデルハイトの背筋を、ざらついた感触が這い上がった。

 長い静寂の後に、イルマはぽつりと言った。


「私の姉だった人。彼女が死んだとき、私も別の意味で死んだわ。ここに居る私は、死んでしまった私。肉体としての生命を生きているに過ぎない、魂のない空の器……」


 イルマは足音も立てずに、図書室を出ていった。

 ばたりと扉が閉まる。と同時に顔を両手で覆い、アーデルハイトはテーブルに突っ伏した。



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