8-5
「カオル……」
言葉を失った刹那、頭を強く殴られたような衝撃を覚えた。
彼女の涙が全てを語っていた。
こんな簡単なことに、なぜ今まで気がつかなかったのだろう。この時ほど、アーデルハイトは自分の愚かさを呪ったことはない。
カオルはカールを愛しているのだ!
アーデルハイトなかで、全ての疑問が氷解した。
なぜカオルがカールの写真を決して見せなかったのか、彼のことになると言葉少なになるのか、彼を意図的に避けるのか。
「ごめん、ごめんなさい、カオル」
駆け寄って、泣いているカオルを胸に掻き抱いた。震えている身体はいつもよりずっと頼りなく、アーデルハイトの腕をすり抜けて、何処かへと消えてしまいそうだ。
「ハイジが謝ることではない」
アーデルハイトの胸に顔を埋めたまま、押し殺した声を振り絞るように答えた。
「全ては私が悪いのだ。私の邪な心根が」
「でも」
喉元までイルマのことが出かかるのを、アーデルハイトは飲み込む。言ってしまえば、楽になるのだろうか。しかし、ここで自分とイルマのややこしい感情を告白することは、さすがに憚られた。
「人を好きになってしまうことは、悪いことではないよ」
「母はおそらく気がついている。賢い母のことだ、娘の気持ちに気がつかない訳がない。だが分からないふりをしてくれているのだ。何も知らない顔で、変わらず私を愛してくれている。それが私には辛い。いっそ邪険にされた方が、罰として受け入れられるものを」
「カオル……」
なんと言うことだろう。アーデルハイトは己の鈍さが恨めしくなった。始めからカオルは言葉の裏に、カールへの想いを隠していたではないか。
(義父は弟と血のつながらない私を分け隔てなく接してくれて、本当の親子のように気に掛けてくれている。だからこそ、ふと思うのだ。……自分は、ここに居てはいけないのではないかと)
(おかしなもので、彼らが私にそういった気を使ってくれればくれるほど、ときどき、自分がいったい何なのか、見失いそうになるのだ)
(もっと私が大人になり、自分が何者なのかという問いに答えを見つけられたら、義父や母と気兼ねなく付き合えるのだろう。全ては私の未熟な心が原因なのは分かっている)
そうだ。自分は表面上の言葉だけしか理解できていなかった。もしもっと注意深く鋭い人間なら、この言葉の裏に隠されたカオルの真意を、とうに見抜いていただろう。
「カオル、気がつかなくて本当にごめん」
アーデルハイトはカオルを抱いた腕に力を込めた。
それでも、分かっていたのだ。こんな風に彼女を抱きしめても、おそらく彼女の心は癒せないと。彼女を癒せるとしたら、それはカールの愛情だけだろう。自分の腕は、決して彼の代わりにはなれないのだから。
叫び出したいほどの後悔と寂寥が、アーデルハイトの全身を貫いた。こうして抱きしめていても、アーデルハイトもカオルも一人ぼっちだった。
ニュルンベルクでは数万という群衆が心を一つにして、ドイツと総統の未来に歓喜し、祈っている。なのに……。
ここに居る二人は、それぞれの孤独を抱え、決して埋めることのできない空白になすすべもなく途方に暮れていた。
それでも、カオルが泣きやむまでアーデルハイトは彼女を抱きしめ続けた。
濃い栗色の髪が頬をくすぐるのを感じながら、カオルの思慕と慟哭を、魂に刻みつけるようにじっとしていた。
* * * *
クーダムは別名《ユダヤ人商店街》といわれるほど、ユダヤ人経営者の店が多い。だからなのだろうか、他の通りなら嫌でも耳に入る党大会の中継放送が、ここではあまり聞こえないようだった。
閉めた厚いカーテンは外の光を一縷だに漏らさず、明かりを消した室内は静寂と暗闇が支配している。その夜の水底に、アーデルハイトとカオルは同じベッドで身体を横たえ、お互いの存在を感じながら眠りの訪れを待った。
目を閉じても、尖った神経が鎮まることはなかった。眠ろうとすれば、傷つけてしまったことへの後悔が募り、悶々と寝返りをうつ。それの繰り返しだ。
カオルも眠れないのか、時々身じろぎをしては身体の向きを変えていた。こんなことがなければ、思い出深い楽しい一夜になっただろう。
アーデルハイトはカオルに聞こえないようにため息をついて、彼女に背を向けた。
「ハイジ、起きているか」
背後からの声に、慌てて首だけ振り向く。カオルがやはりこちらに背を向ける格好で話しかけていた。
「うん。なんだか、眠れなくて」
「ハイジに、まだ話していないことがある。私がこの《白薔薇十字団》に来ようと思った、もう一つの理由だ」
アーデルハイトはカオルの方に体ごと向き直り、背を向けた彼女の肩にそっと触れる。ナイトドレスを通して感じる肌の温かみに、自分がしたことの赦しを求めたかった。
「カールは、以前ベルリンで外務省に勤めていた。あれはオリンピックの前だったからな、総統が首相になられて一年くらい後のことだ。カールは上司に直言したのだ。党の行っているユダヤ人政策が、外交でドイツを孤立させ、やがて袋小路へと追い詰めるだろうと」
「そんなことを?」
「カールはその一週間後、自宅謹慎を命じられた。下手をすればそのまま免職だったろうが、伯父が手を尽くしたらしい。在職のまま、ドレスデンへと出向になった。島流しとカールは自嘲して笑っていたがな」
アーデルハイトの脳裏に、会食の時に見せたカールの厳しい面差が浮かぶ。そんなカールを心配そうに覗うリリーと、隣のカオルの苦渋の眼差しも。
「誤解してもらいたくないが、カールは本当の愛国者だ。心の底から、ドイツのことを考えての発言だった。だから……」
カオルがそこで言葉を切った。沈黙が雪のように音もなく降り積もる。アーデルハイトはカオルの背に触れたまま、辛抱強く続きを待った。
しばらくたってから、カオルは体の向きを変え、アーデルハイトと向き合い、再び口を開いた。
「もし、私がここで功績を上げれば、ゲッベルスさまの伝手で、カールをベルリンに戻すことが出来るかもしれない。そう考えた」
「カオル……」
アーデルハイトはそれ以外言葉が見つからない。闇に慣れた眼に、カオルの目がうっすらと濡れているのが分かる。頬に触れると、冷たく湿った感触が指先に伝わった。
「私は偽善者、なんだろう」
枕に顔の半分を埋めるようにして、カオルはアーデルハイトから視線を背ける。
「私はどんなことがあっても、ここで結果を出したいのだ。彼のために。そのためには誰かを犠牲にすることを、心のどこかで許容しているエゴイストだ」
アーデルハイトはカオルの髪に唇を押し当てた。他にどうすることが出来ただろう。幼い時に母がしてくれた口づけ。母がかつての自分にとってそうだったように、今は自分がカオルの苦しみを受け止める器になりたかった。
ふいにイルマ・グレーゼの灰色の瞳と昨日の映画館での口づけが、鮮明に蘇った。うろたえてイルマを傷つけてしまった昨日の自分、つまらない羨望に駆られてカオルを傷つけてしまった今日の自分。
なんだか昨日も今日も、とてもおかしな日々だった。今まで上手く回っていた歯車がほんの少しずつずれて、空回りをし始めているように思える。その歯車に振り回され、どこか知らない場所へと放り出される怯えが、アーデルハイトの心を通り過ぎる。
(イルマ……)
心の中でアーデルハイトはイルマ・グレーゼに呼び掛けた。
彼女に無性に会いたかった。カオルの悲哀を受けとめながら芒洋とした不安に慄く自分を、確たるものに繋ぎ止めてほしかった。
それが出来るのは、おそらく、この世界でイルマただ一人なのだ。
怖れから縋っているのではない。原始に分かたれた一つの魂の片割れ、人々がそれを探すことを生きる目的とする己の半身、それが本当に存在するのだとすれば……。
それはなにも男性だけとは限らないはずだ。
いつの間にか、カオルは寝息を立てていた。
肩を抱いていた腕をほどき、アーデルハイトは仰向けになって闇色に霞む天蓋を見上げる。大きく息を吐いて瞼をかたく閉ざし、眠りの片隅に潜り込もうと頭をからっぽにする。
不意に訪れた夢の襞の中で、アーデルハイトは長い廊下を歩いていた。
暗く石造りの廊下は人一人がようやく通れるほど狭く、気を許せば押しつぶされそうな圧迫感がある。
廊下の先に誰かが立ってアーデルハイトを待っていた。
彼はアーデルハイトの目を真っ直ぐ見て、こう言った。
(大丈夫だ、すぐに終わる)




