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食事の後、カールとリリーの部屋で少しだけ話をした。部屋はスイートで、リビングと寝室とバーコーナーが別になっている。眠くなったのか機嫌が悪くなったマックスを寝かせようと、カオルが寝室へと連れていく。リリーはバーコーナーで、温かい紅茶を入れてくれていた。
「今日は君に会えて、とても嬉しかったよ。本当に来てくれて感謝している」
リビングのソファで二人きりになったアーデルハイトに、カールは静かな声でそう告げた。
薄手のセーターに着替えた彼は、ディナーの時より若々しく見えた。三十代前半とカオルは言っていたが、二十代といっても通じるだろう。
彫りの深い端正な顔立ちに、しなやかな身体つき。カオルの義理の父親だと分かっていても、映画俳優を目の前にしたように心が浮かれてしまう。イルマには少し悪いような気もするが、これはこれと頭の隅で言い訳をした。
「いいえ、私の方こそ、食事に呼んで下さってありがとうございます」
「君も聞いているかもしれないが」
カールは膝の上で手を組んだ。
「カオルはドイツに来てから、親しい友人がいなくてね。家に友達を呼んだこともなかった。だから、私もリリーも、とても言葉では表せないくらい喜んでいるよ」
「お気持ちは分かります」
「君やカオルがベルリンで何をしているのか、それを我々は知る必要はないが、でもこれだけは君に分かって欲しい」
カールはそこで言葉を切り、アーデルハイトの目を真っ直ぐに見つめる。再び口を開いた時、その声は低くかすれ、まるで懺悔室の告白のようだった。
「これからのドイツは、カオルのような子にとっては厳しい時代になる」
カールは先ほど一瞬垣間見せた厳しい表情になり、カオルとマックスがいる寝室に目線を送る。きっとマックスが寝付くまで、カオルは辛抱強く付き合っているのだろう。
ふとアーデルハイトは、プロッツェンゼーで貧血を起こして倒れた時の彼女を思い出した。体調が悪かったと言っていたが、目の前で銃殺刑が行われたことのショックが引き金になったのは間違いない。
常に沈着冷静な印象のカオルだが、おそらくその心根は誰より繊細だ。だから、カールの言わんとすることが、アーデルハイトには理解できる。
「もし、君さえよければ、ずっと彼女の友人でいてほしい。余計なお世話と、カオルには叱られるだろうがね」
「もちろんです、カールさん。私にとっても、カオルはとても大切な友人です」
「ありがとう、恩に着るよ。僕が父親として彼女にしてやれるのは、こんなことくらいだ」
カールは弱々しい微笑みを、形の良い唇に浮かべた。
一瞬、アーデルハイトはカールにずっと以前から恋をしているような気になった。彼はアッシェンバッハ少尉とは全く違っていた。
アッシェンバッハ少尉は、どこまでも親衛隊員という自分を崩さずにいる。役職に忠実な己をどこまでも信じ、そこには一部の隙も迷いもない。だから、どんなにアーデルハイトやクララたちと親しくなっても、それは任務の延長線上のことなのだ。
だがカールはアーデルハイトの目の前で、自分の迷いと弱さをさらけ出していた。彼にはアッシェンバッハのような、己と外を隔絶する殻がない。
殻のない生身の心はアーデルハイトを柔らかく包み込み、ぞくぞくするような官能的な何かが背筋を走った。
「お話は終わった?」
銀のトレイに紅茶と温めたラム酒を載せ、リリーがバーコーナーから出てきた。どうやらカールの話が終わるまで待っていたらしい。
「さあ、どうぞ」
そう言って受け皿とカップを目の前のテーブルに置く。その時寝室の扉が開いて、ようやくマックスを寝かせたカオルが戻ってきた。
「やっと寝てくれたのはいいのですが、なんだか私の方まで眠くなってしまいました」
「ありがとうカオル。マックスったら久々にカオルに会えたものだから、すっかりはしゃいでしまって」
嫣然と微笑むリリーの手が、隣に座るカールの膝の上に置かれた。それはごく自然に、当たり前のような仕草だったのに、見てはいけないものを見てしまったような気になる。彼らの親密さに、アーデルハイトは微かな嫉妬を覚えた。
そのリリーはカオルとマックスのことを話していた。話を聞きながら、彼女が入れてくれた紅茶をすする。悔しいけれど、とても上手に入れられていた。
女学校の悪友が見せてくれた猥褻な本には、女性が男性をどのように喜ばせるのか、そのことが挿絵で詳細に解説されていた。リリーも同じようなことを、カールにしたのだろうかとつい考えてしまう。
親友の父親に横恋慕して、母親に嫉妬するなど、余りにも馬鹿げている。なによりカオルに対して、許されないことをしていると思う。
急にアーデルハイトは自分がハンナになったような気がした。ハンナもラインホルトとリナを目の前に、このような想いを味わっていたのだろうか。
いつからハンナがラインホルトとそのような関係にあったのかは、はっきりとは分からない。だが今考えれば、アーデルハイトを生んでからのクララは、《そのようなこと》が出来る身体ではなかったはずだ。
もしかして母は、病弱な自分が夫を満足させられないのを分かって、ハンナと夫の関係を黙認していたのかもしれない。
だとすると、ラインホルトとリナを前に苦しむハンナはかつての母であり、リナはハンナ自身だということだ。
「大丈夫か、ハイジ?」
カオルの声にわれに返った。リリーが気がかりな面持ちでアーデルハイトを見ている。
「ごめんなさい、興味のないお話で退屈だったかしら」
「い、いいえ。その、失礼しました」
頭の中の淫らな想像を見透かされたようで、自分が恥ずかしくなった。詫びなければならないのはこっちの方だ。勝手に想像して、勝手に嫉妬している。
「母上、ハイジはおそらく疲れたのでしょう。そろそろ部屋に引き上げたいと思います」
カオルの助け船に心底ほっとした。正直なところ、これ以上この場所に居たくなかった。カールとリリー、この二人の前に座っている今の自分が好きではない。嫉妬と羨望、つまらない妄想に捕らわれた愚かな自分。早くいつもの快活なアーデルハイトに戻りたかった。
「本当に申し訳ありません。昨夜少し眠れなかったもので」
「私の方こそ、引きとめて申し訳なかったわ。楽しくてつい時間を忘れてしまったの」
「私の方こそ、楽しい時間でした」
差し出されたリリーの手を、ぎこちなく握り返す。こんな出会い方でなかった方が良かったのかと思いながら。
「ゆっくり休んでくれ。僕たちは明日の午前、ドレスデンへ帰る」
カールが差し出した手に、アーデルハイトは軽く触れた。
これ以上この人の側に居てはいけないと、もう一人の自分が警告する。軽く会釈をして、逃げるように、そそくさとカオルと共に退室した。
「すまないな、長話に付き合わせてしまった。疲れただろう」
「ううん、なんだか失礼しちゃったかも」
「私も少し疲れたな。慣れない着物のせいかもしれないが」
部屋に戻り、カオルはさっそく帯を解いた。解かれた帯は衣擦れの音を立てて、床へと滑り落ちる。ベッドの上で帯に施された毬と蝶の刺繍を眺めているうちに、アーデルハイトの目がちくちくと痛んできた。
仰向けになり、指で眼窩に添うように押さえると、またたく光の輪が瞼の裏に映る。
「ねえ、カオル」
目を閉じながら声をかけた。
「なんだ?」
「どうしてカールさんと上手くいかないの? カオルのことをすごく思ってくれているし、いい人だと思うんだけど」
いくつもの光輪がうごめく眼裏に、カールの気弱な微笑みがぼんやり浮かぶ。
(僕が父親として彼女にしてやれるのは、こんなことくらいだ)
そう言った時の、少し悲しそうな笑顔。
彼にあれほどまで思われているカオルに、激しい嫉妬を感じている自分がいる。
カオルは答えなかった。ぎこちない沈黙の中で、カオルが着替える気配だけが部屋の空気を動かしている。
もし普段のアーデルハイトならここで留まり、あえて追及はしないだろう。だが、嫉妬の小さな棘はアーデルハイトの思慮を麻痺させ、舌を不必要に滑らかにした。
「ずっとカールさんと話さないし、ロクに目も合わせないし。見ていてちょっと、カールさんに同情しちゃったんだけどな。それとも、なにか訳でもあるの」
不自然な沈黙に構わず、アーデルハイトは追及の手を緩めなかった。
「カオルはいつも、『問題は彼にではなく、自分の未熟さにある』とか言うけど、それってなんなのか分からない。カオルの問題っていったい何? ねえ、黙ってないで……」
アーデルハイトは目を開いてベッドから起き上がった。床に脱ぎ捨てられた帯と着物の傍らに、下着姿のカオルが膝を抱えて座っている。
そして、信じられないことに、カオルは声を殺して泣いていた。




