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宣伝相がプロデュースしたアイドルを総統閣下はお気に召されたようです  作者: 長谷川蒼銀
第一章 一九三八年五月三日火曜日の、ながい長い一日
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1-4

「さて、いろいろとやらなくてはいけない事だらけね。でもあなた、本当にお腹は空いていないの?」


 クララが訊ねた。


「え、ええ。列車のなかで、お弁当も食べましたし……」


 祖父が持たせてくれたお弁当は白いパン二つに、大きなソーセージが三つ、ザワークラウトと砂糖漬けのレモン。

 十分すぎると言っていいはずなのだが、成長期のアーデルハイトにはまだ足りなかったらしい。大きな音を立ててぐうとお腹が鳴り、顔を真っ赤にしてうつむくアーデルハイトに、クララがおかしそうに笑った。


「その様子では、先になにか食べた方がよさそうね。いらっしゃい、食堂に案内してあげる。グレーテルたちは談話室にいて。後から行くから」


 こっちよと誘うクララに従い、広間を通り抜けて次の間への扉をくぐると、淡い若草色の壁紙を敷き詰めた部屋に出た。

 中央に置かれたテーブルに、マイセン磁器の大花瓶が溢れるばかりの花を飾って鎮座している。


「ここのお屋敷、古いせいで一階は廊下というものがほとんどないのよね。別の部屋に行くには、他の部屋を通らなくてはいけなくて、それが少し不便なの。食堂はこちらよ」


 クララが奥の白い扉を開けた。肩越しに中を覗き込んだアーデルハイトは思わず立ちすくむ。

 ほの暗い室内に並ぶたくさんの丸テーブルには、糊のきいた雪のように白いクロスが掛けられていた。


 木製の柱に施された唐草模様の彫刻には細やかな塗金が施され、南側奥にあるサンルームからの光を鈍く反射する。夜になりシャンデリアが灯されれば、照り映える黄金の絢爛さはいかばかりだろう。

 大理石のマントルピースの上には大きな鏡が飾られ、反射の効果で実際よりも部屋を広く見せていた。


「すごい」


 称賛のため息を漏らすアーデルハイトに、クララは(でしょう?)と首を傾げた。


「でもこっちは普段は使っていないの。ここは特別なお客様用なのよ。私たちもまだ一度も使ったことはないわ」

「そうなのですね」


 それを聞いて少し安心する。いつもこんな豪華な部屋で食事などしたら、贅沢な我儘娘になってしまいそうで怖い。


「奥のサンルームは、お天気の良い午後のお茶の時間に使うの。今日みたいな、素敵な午後のね」


 クララはそう言って、食堂の入口とは反対側にある、もう一つの白い扉を開ける。狭い使用人専用の廊下に出ると、らせん階段の横を通り過ぎ、突き当りの部屋に向かう。余りに広すぎて、一人だと絶対に迷子になりそうだった。


 奥の部屋は台所だった。かなりの広さで、アーデルハイトの自宅の倍くらいはありそうだ。火には大きな鍋がかけられ、バターの焦げる香ばしい匂いがただよっている。それを嗅ぐと、空腹感が急速に増した。


「あら、クララ様、何か御用ですか」


 先刻、入口でアーデルハイトを迎えてくれた年配の女性が訊ねた。袖をまくり上げ、ふっくらとした腕を露わにしている。飾り気のない白いエプロンをつけて、玉葱を刻んでいる最中だった。


「すみません、アンナさん。彼女に何か食べるものをいただけません?」


 クララのお願いに、アンナと呼ばれた女性はエプロンで手を拭きながら顔をほころばせる。


「ええ、ええ。冷たい鴨肉のハムがありますからね、すぐに出せますよ。パンとジャガイモのスープと一緒にどうですか?」

「十分ですわ。いつもありがとう」


 クララはアーデルハイトに言った。


「この方はアンナさん。私たちの食事と、身の回りの世話をして下さっているの」

「よろしくお願いします」


 軽く膝を曲げて会釈をしたアーデルハイトに、アンナさんは人懐こい笑顔を向けた。


「あらあら。本当に、こちらにいらっしゃるお嬢さん方は、みんな礼儀正しいですわね。感心ですわ。アーデルハイトさん、今お持ちしますからね、お隣で待っていて下さいな」


 台所の隣室が小さな食堂だった。使用人たちがささやかな食事を、ここで取るのであろうか。北向きの窓は日当たりが良くないのが欠点だが、飾られたチューリップや、淡い桃色の小花柄のカーテンのおかげで、明るい雰囲気である。

 据えられたテーブルも椅子も装飾のない簡素なもので、先ほどの華やかすぎる食堂より、アーデルハイトにはむしろ家庭的な温かみを感じられた。


「いつもご飯はこの部屋で食べるのよ。私たちは居候だから、ここで十分なの」


 クララは椅子をひとつ出してアーデルハイトに勧めると、自分は真向かいに腰を降ろした。


「それにこの部屋、昔私が住んでいたアパートに似ているの。とても懐かしいわ」

「さあさあ、ハムは冷たいですけど、スープは温かいですよ。冷めないうちにどうぞ」


 扉が開き、アンナさんがワゴンで食事を運んできてくれた。湯気を立たせているジャガイモのスープは、玉葱の甘い匂いを部屋いっぱいに満たす。

 はち切れんばかりの食欲の虜になったアーデルハイトは、食前の祈りを簡単に済ませ、熱いスープを胃に流し込んだ。この上なく美味しいのは、なにも空腹ばかりではないだろう。


「慌てて食べなくても大丈夫よ。ゆっくり召しあがって」


 アンナさんが入れてくれた紅茶を飲みながら、クララが笑って言った。

 いつもハンナには(食事はゆっくりと、きちんと噛んで召しあがって下さいね)と口をすっぱく注意されていた。気をつけているつもりでも、夢中になるとどうしても慌ただしい食べ方になってしまう。

 ふと気づけば、クララが感心したように眺めていた。


「貴方って本当に、すごく嬉しそうにご飯食べるのね。なんだか、見ている私の方まで楽しくなってしまうわ」

「す、すみません、不作法で」

「いいのよ、気にしないで。貴方のように喜んで食べてくれた方が、アンナさんだって作りがいがあるわよね」


 ハムとスープ、パンをきれいに胃袋に納めてしまうと、クララがカップにお茶を注いで出してくれた。


「あの、クララさん」


 アーデルハイトが紅茶を一口飲んで言った。


「さっき、居候っておっしゃってましたけど、このお宅はどなたのものなんですか」

「そうね」


 クララは頷いた。


「でもその前に、今の質問には大きな問題があるわ」

「大きな問題、ですか」


 アーデルハイトの顔から血の気が引く。何か聞いてはいけないことでも訊ねてしまったのだろうか。

 心配そうな表情を見せたアーデルハイトに、クララはいたずらっぽい笑みで答えた。


「まず、クララさんなんて呼び方はやめて。クララでいいわ。それから、そんな丁寧な話し方もしなくていいのよ。ここは《ドイツ少女団》とは少し違うの」

「そうなのですか、……いえ、そうなんだ」

「ええ、あまりに堅苦しいのはここに似合わないし。年齢がどうであれ、私たちは対等な仲間なのだもの」

「う、うん」

「では、最初の質問の答えに戻るわね」


 クララは椅子に座り直し、姿勢を整える。それにつられてアーデルハイトも居住まいを正した。


「この家はもともと、あるユダヤ人の持ち物だったの。でも彼は外国に移住することになって、その時にここを買ったのが、宣伝相ゲッベルスさまなのよ。正確に言えば、奥さまのマクダさまだけど」

「じゃあ、ここは」

「ええ、マクダ・ゲッベルスさまのお宅、ということになるわね。もっとも、ここを使うのは特別なパーティとか接待の時だけで、いつもはシュヴァーネンヴェルダー(白鳥の中州)のお宅にいらっしゃるの」

「シュ、シュヴァーネン……?」

「ここから西のヴァン湖のほとりにある島よ。とっても静かでいい所。シュペーアさまも、ご近所にお住まいなのよ」


 シュペーアって党大会の会場を設計した人だ。去年のパリ万博では、ドイツ・パビリオンも手掛けている。


「私たち《白薔薇十字団》の活動場所として、マクダさまがここを使っていいと、特別に配慮して下さったの。本当にありがたいことだわ。だから私たちは、しばらくはここの居候ってわけ」


 確かホルヒの中で、アッシェンバッハ少尉がここを《仮本部》と言っていたのを、アーデルハイトは思い出した。なるほど、話を聞けば確かにクララの言うとおり、居候という言葉がぴったりだ。


「もしこの計画が軌道に乗ったら、場所を移して本格的な活動をする予定なの。それがどこになるかは、まだ分からないけれど」

「その、肝心な活動内容なんだけど。私たち、いったい何をするの?」


 その時、クララが見せた表情を、アーデルハイトはしばらく忘れることが出来なかった。そこには厳粛さと神聖さが調和し、一つの小宇宙を成していた。

 瞼に焼きついたクララの顔を思い出すたび、こう思ったものだ。きっと聖母マリアに受胎告知をした大天使ガブリエルは、こんな顔をしていたのだろうと。

 クララは口元に微笑みを浮かべ、アーデルハイトの問いに答えた。


「総統閣下の理想を実現するお手伝いよ」



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