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8-2

 ホテルの正面玄関まで彼らを見送った。


「びっくりしたなあ」


 アーデルハイトはカオルに言った。


「カオルのお父さま、すごく若いんだね。勝手に、うちの父と同じくらいかと思ってたけど」

「彼はまだ三十代の前半だ。母よりたしか、六つか七つくらい年下だからな」

「年下かあ……」


 ベルリンならともかく、ミュンヘンなら年下の男性と結婚するなんて、まず考えられない。アーデルハイトの通っていた女学校の生徒は皆、卒業すると一年か二年は社会奉仕活動などをした後、しかるべき年上の男性と結婚する。

 年下と結婚するなんて、娼婦かカバレットの踊り子が、ジゴロを養うのと同じような目で見られるだろう。


「なんかさ、カオルのお母さまってかっこいいね」

「ありがとう。だが少し変わっているだろう。年下と結婚したり、剣術の師範代をやったりと、とても総統閣下が理想とする女性とは言えないな」

「でも、カオルは大好きなんだよね。お母さまのこと」


 アーデルハイトの言葉にカオルは頷き、誇らしげに頷いた。


「うむ。母は私が、この世で最も尊敬している女性だ」

「なら、それでいいんじゃないかな。私もカオルのお母さまのこと、とっても素敵な女性だと思う」

「ありがとう、ハイジにそう言ってもらえて、とても嬉しい」


 ロビーを横切って、エレベーターホールへと向かう。

どうしても見せたいものがあるからと、エレベーターに乗り、カオルの部屋に通された。


「うわあ、広い」


 一歩踏み入れて歓声を上げた。普通のビジネスホテルの二倍から三倍はあろうかという広さに、天蓋付きのキングサイズベッドが鎮座している。ベッドはアーデルハイトが五人並んで寝られるほどだ。

 ベッドカバー、窓際にしつらえられたリビングコーナーのソファ、一人掛け用の椅子、窓を飾るカーテンに至るまで、くすんだ金糸雀色に統一され、ところどころに飾られた真っ赤なバラの花束が鮮やかに映えた。


「適当に座ってくれ。今お茶を入れてくる」


 カオルがドアの向こうのキッチンコーナーに姿を消した。アーデルハイトはリビングコーナーのソファに腰を降ろし、傍らに飾られたロココ様式の花瓶に目をやった。金で彩色された花綵模様の中に、リュートを弾く若者と、うっとりと耳を傾ける少女の姿が描かれている。

 ふとイルマ・グレーゼのことが気になった。今頃は何処で何をしているのだろうか。月の裏側を決して見ることが出来ないように、彼女が自分の知らないところで何をしているのか、全く予想もつかない。


「そういえば、イルマ・グレーゼとの映画は楽しかったか」


 銀のトレイにティーセットを載せたカオルが、戻ってきた。


「ああ、うん……」


 どう答えたら良いのか素早く考えた。まさかキスをされて途中で退席したとは言えない。だがもし、カオルに映画を最後まで観たと嘘をついた場合、内容について聞かれれば困ったことになる。

 去年ミュンヘンで観た『七回パンチ』はともかく、新作の『カプリチオ』については、全く知らないのだから。


「実は、途中で具合が悪くなっちゃって。『カプリチオ』は観ないで出てきちゃったんだよね」

「そうだったのか。大丈夫なのか、今は」

「大丈夫、だいじょーぶ。ちょっと貧血みたいになっちゃって。外の空気を吸ったら治ったから、心配しないで」


 嘘をつき、心配までさせた良心の呵責を感じて、懸命に取り繕う。カオルは先ほど弟のマックスに、自分のことを親友と紹介してくれた。それはアーデルハイトにとっても同じだ。まだ出会って五カ月しかたっていないが、今やカオルはとても大切な親友だった。

 その親友にすら隠しごとをしなければならないことに、気が咎める。だが正直に言ったとしても、むしろカオルを戸惑わせ、心配させるだけだろう。


 カオルが注いでくれた紅茶を飲んでいる間、カオルは見せたいものとやらを取りにクローゼットを開けた。しばらくごそごそとしていた後に、菓子箱のようなものを抱えてアーデルハイトの隣に座る。

 金属製の缶箱は、目にしみるような黄色の地に大きな白い鳩の絵が描かれてあった。鳩の上に日本語で赤い文字が躍る。なんて書いてあるのは読めないが。


「ハイジにずっと見せたいものがあったのだ」


 そう言って缶のふたを開けると、なかにはブロマイド写真がびっしりと入っている。日本人の男女が悩ましげな視線をこちらに向け、微笑んでいる。察するに日本の映画スターのようだった。


「この人、日本の映画俳優? すごくきれいな男の人だね」


 箱を覗きこんだアーデルハイトは、その中の一枚を指差した。テンガロンハットをかぶり、首にはスカーフを巻いたカウボーイの格好。ふっくらとした面差といい、涼しげな目もとといい、男性にしては美しすぎる気がする。


「ああそれはな、男の格好をしているが本当は女の人なのだ」

「ええ、女の人?」


 改めて見ると、たしかに男装している女性と言われればそう見えた。


「これはみな《タカラヅカ》のスター写真だ」

「た、タカラヅカ?」


 写真を一枚一枚取り出して、カオルは丁寧に説明してくれた。

《タカラヅカ》とはカオルが住んでいたコーベ近くにある街の名前であり、そこには女性ばかりで構成された歌劇団がある。男性の役は《男役》と呼ばれる男性役専門の女性が男装し、歌ったり踊ったりする。


「彼女はカスガノ・ヤチヨという、有名な男役なのだ」


 カオルは先ほどのカウボーイ姿の写真を手に取った。


「こっちはツキノ・ハナコ、これはチチブ・ハルヨだ」


 日本に居た時から《タカラヅカ》のファンだったと、カオルは打ち明けた。日本を離れ、ドイツに来てからも、父方の親戚に頼んでブロマイドやパンフレットを送ってもらっていたという。


「実際に舞台を見ないと分からないかもしれないが、本当に素晴らしいレビューなのだ。日本が世界に誇る文化だと、私は思う」

「ふうん」


 女性が男装することは、舞台では珍しいことでない。だが、こういう女性だけの歌劇団というのは、アーデルハイトの知る限りドイツにはないと思う。


「それでだな」


 カオルが改まった態度になった。


「ここからが本題だが、この《タカラヅカ》が、なんとこのベルリンに来て公演をするのだ」

「ええ? すごいじゃない!」

「だろう?」とカオルも目を輝かせて頷く。「それでだな、良かったら私と一緒に、《タカラヅカ》のレビューを見に行かないか?」

「えええ?」


 目を丸くしたアーデルハイトに、カオルは続けた。


「実は父と母が、来月のハイジの誕生日に、チケットをプレゼントしたいと言ったのだ。私の分は、私がお小遣いを貯めた分から出す。ハイジは、誕生日プレゼントとして受け取ってくれないか」

「いやいやいや、そんな悪いよ。チケットって、けっこう高いよね」

「公演はおそらくさ来月、ちょうど例の計画のころだ」


 アーデルハイトははっとして、カオルと目を合わせた。真っ直ぐな瞳が少し不安に揺らめいて、じっと見返している。その時、カオルが本当は何を言いたいのか、少しだけ分かったような気がした。


「二カ月先、もう目の前に迫ったな」

「うん、そうだね」


 アーデルハイトは箱の中の写真たちに目を落とした。


「さ来月、その例の計画を上手くやり終えたら、ハイジと一緒に、《タカラヅカ》のレビューを見に行きたい」


 決行はさ来月になるというのに、例の計画の詳細は、まだ明らかにされていない。アッシェンバッハ少尉の言うことでは、情報漏れを防ぐため、ギリギリまで秘密にされるとのことだった。


 正直、アーデルハイトは怖かった。

 二か月前の、プロッツェンゼーでの銃殺刑を思い出す。それが当然の報いだと分かっていても、目の前で人が死ぬのを見るのはいい気持はしない。

例の計画も、今までにない大掛かりなユダヤ人排斥運動になるとのことだが、どんなにユダヤ人が排除に値する民族だとしても、それを自分の手で行うとなると気が重かった。


始めから分かっていたはずなのに、あの銃殺刑以来、当初のように気軽には考えられなくなっている。現実は映画とは違う。そしてたぶん、それはカオルも同じなのだ。


「うーん、じゃあ、ありがたく受け取ろうかな」

「そうか、すまないな」とカオルはホッとした表情になる。

「そんな、カオルが謝ることないじゃない」


 アーデルハイトが笑った。



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