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イルマと再び顔を合わせたのは、七日の朝食どきだった。
「昨夜は結局帰らなかったの?」
アーデルハイトは朝食のカフェオレを一口すすって、向かいのイルマにそう訊ねた。イルマはゆで卵を黙って食べている。アーデルハイトの質問に、頷いて肯定した。
「今日はカオルのご両親に会うんだ。イルマはどうする?」
「これから出かけるわ。行かなくてはいけない所があるし」
その後は二人で黙って朝御飯を済ませ、アーデルハイトは自室に引き上げて出かける準備を始めた。
カオルの両親の好意で、今晩はカオルと一緒にホテルに泊まることになっている。床に座り、着替えやパジャマ、歯ブラシ、ヘアブラシなどをトランクに詰めていたところに、ノックがした。
「どうぞ」
との答えに扉が開き、イルマ・グレーゼが入ってきた。
手を止めて、イルマを仰ぎ見る格好になる。疲れを知らず、機械じみた彼女にしては珍しく、頬が削げ、目の下にうっすらと隈が出来ている。もしかして、昨日から全然寝ていないのかもしれない。
「大丈夫?なんだか具合が悪そうに見えるけど」
イルマはそれには答えずに、アーデルハイトに歩み寄り、膝をつく。トランクの上に置いたアーデルハイトの手に、自分の手を静かに重ねた。
昨日の軽い口づけを思い出し、心臓が大きく波打つ。頬がかっと熱くなるのを止めようがなかった。すぐ目の前に、イルマの灰色の瞳がある。しらじらと輝く満月を思わせる、吸い込まれそうなほど深く神秘的な瞳だ。
「昨日はあんなふうに別れてしまったけれど」
イルマは口を開いた。
「付き合ってくれてありがとう。お礼も言えなくてごめんなさい」
「う、ううん。別に気にしてないから。私の方こそ、ありがとう」
アーデルハイトはイルマの手に目を落とす。
「あのね、図々しいお願いなんだけど、きいてくれないかな」
顔を上げてイルマと目を合わせた。イルマは無言で話の続きを待っていた。
「来月七日、私の誕生日なんだ。クララがね、誕生日のお祝い会をしてくれるって言っているの。良かったら、一緒に祝ってくれないかな」
「分かったわ」
イルマは即答した。
「その日は、何があっても空けておく」
イルマは立ちあがって、出ていこうとした。それを「待って」と慌ててアーデルハイトは引きとめる。振り返った唇のすぐ横に、アーデルハイトは素早く唇を押しつけた。
「こ、これは」
アーデルハイトは照れ隠しに、わざと唇を尖らせた。
「あくまでも、友情の印だからね」
イルマは少し眩しそうにアーデルハイトを見つめる。それから右手の指先を自分の唇に押しあて、アーデルハイトのそれに軽く触れた。そして、扉を開けて出ていった。
* * * *
かつてはクーダム、つまりクアフュルステンダム(選帝侯通り)と呼ばれた一劃がブダペスター通りになったのは、一九二五年の四月二十二日だったという。
ベルリン動物園正門のすぐ近く、そのブダペスター通り三十五番地にかの《エデンホテル》は建っている。
(《エデンホテル》と言えば、クーダムでも最高級のホテルですよ。私も一度、泊まってみたいんですけどねえ。カオルさんの御両親は、ブルジョアなんでしょうか)
アンナさんが羨望のため息をついたのも無理はない。
くっきりとした青空を背に立つ白亜の重厚な外観は、ネオ・バロック様式とでも呼べばよいのだろうか。正面玄関をくぐると、毛足の長い、ロビーに敷き詰められた深紅の絨毯が靴の裏を柔らかく包み込む。椅子や照明、壁紙に至るまですっきりとしたアールデコ様式でまとめられ、いかめしい外観に似合わず、モダンで軽やかな印象だった。
ロビーにいる客はみな真新しいスーツ、流行のファッションに身を包んだ紳士淑女ばかりで、素晴らしく洗練されていた。ミュンヘンにももちろん高級ホテルはあるが、ここまで都会的ではない。
女性たちの腕にも首にも眩しいくらいの宝石が飾られ、首にはミンクやキツネの毛皮が例外なく巻かれていた。
ロビーの時計は、まもなく十一時を差すところだった。ロビーの片隅に飾られた大きなマイセンの花瓶には、バラや芍薬、百合が溢れんばかりに活けてある。それをぼんやり眺めていると、背後で声がした。
「ハイジ、来てくれたのか」
声の方を振り向くと、あっと思わず声を上げた。
あざやかな真紅の地に桃色、うす紅、真珠色を散りばめた着物が目に飛び込み、それに身を包んだカオルが、恥ずかしそうにたたずんでいた。
黒目がちの瞳と濃い栗色の髪が絹の光沢に映え、東洋的な美しさを醸し出し、あでやかなことこの上ない。腰を締める幅広の帯はすみれ色の絹地に、金銀の糸で刺繍された毬や蝶が軽やかに踊る。
ロビー中の視線が、カオルの着物姿に釘づけになっていた。
「まあ、可愛らしい。日本のお人形さんみたいだわ」
若草色のドレスを着た女性が、感嘆の声を上げる。
「すごい、すごいよ、カオル。すっごーくキレイ!」
顔の前で両手を組み合わせ絶賛するアーデルハイトに、カオルはますます恥ずかしそうな顔になった。
「母上がハイジに、私の着物姿を見せたいと張り切ってな。最近はめったに着ないから、なんだか仮装パーティみたいで気恥かしい」
「そんなことない、すごく似合っているよ。やっぱり日本女性は着物だね」
「いや、ありがとう。そんなに褒められると照れくさいな」
着物のせいか、いつもと仕草が違う。普段は大股ですたすたと歩くカオルだが、今日は小股でしなりしなりとゆっくり進む。
「どうもあの短いスカートに慣れてしまうと、この格好がすこし不自由でな。母などあれを最初見た時、びっくりして笑い出したのだ」
カオルと広いロビーを歩く。エレベーター近くにあるソファに、夫婦と小さい男の子の家族連れが座り、カオルが彼らに目で合図して微笑んだ。アーデルハイトたちを見て、夫婦が立ちあがった。
女性の顔には見覚えがある。写真で見たことのある、カオルの母親。あの写真より少し歳をとってはいたが、美しいことに変わりはなかった。いや、写真よりこうして見る実物の方がずっときれいだ。
紺色のベルベッドのワンピースに、同じ色の帽子をかぶっている。帽子には、きらきら光る石がついたハットピンが刺さっていた。
隣の男性が彼女の再婚相手、カオルの新しい父親なのだろうが、意外なことにアーデルハイトが想像していたよりもずっと若かった。
明るい茶色のスーツをまとい、葡萄酒色のネクタイを締めている。短く刈りあげた金色の髪に青い瞳、長身で引き締まった身体つき、そしてなによりとても端正な顔立ちをしていた。映画俳優の誰かに似ているような気がするのだが、どうしても思い出せない。
「はじめましてハイジ、カオルの母のリリーよ。いつも娘がお世話になっているわね。あなたのこと、カオルからの手紙でよく知っているわ」
リリーは微笑んで、ハイジを抱き締めたあと両頬にキスをしてくれた。ほのかな百合の香りとともに、成熟した女性の柔らかな体温に包まれる。
にっこりと笑うと眼元にしわが出来るのだが、それは彼女の美貌を少しも損なわない。まるで始めからそこにあったかのように自然で、しっくりとなじんで調和していた。
美しく年齢を重ねている、大人の女性だった。しかし全体の印象はむしろ若々しく、肌はつややかだ。ほっそりした身体つきは若い娘のようであり、とても子どもを二人も生んでいるように見えない。きびきびとした身のこなしは、カオルにも負けていなかった。
「なんだか初めて会う気がしないわ。カオルは手紙にあなたのこと、本当に楽しそうに書いていたから」
「私もです、フラウ・ローゼンタール」
「リリーでいいわ、そう呼んで下さって結構よ」
カール、とリリーが声をかけると義父が手を差しだした。
「カオルの父親、カールだ。はじめまして、ハイジ」
大きな手にがっしりと掴まれた。だが粗暴とは違う。繊細で細やかな心遣いに裏付けられた大胆さと言うべきか。
祖父や父親、学校の教師以外の男性に手を握られたのは、アッシェンバッハ少尉と握手をしただけで他にはない。繋いだ手に感じる男性の力強さに、少しだけ胸を昂ぶらせた。
「あら、恥ずかしがり屋さん。ハイジさんに、ちゃんと挨拶はしたの?」
とリリーが後ろを振り向いて、カオルの陰に隠れていた少年に微笑む。
カオルの弟、マックス。カオルには全然似ていないが、敢えて言うなら、眼元がすこし似ているかもしれない。この八月で三歳になったばかりの少年は人見知りらしく、もじもじと姉の後ろで、半分泣きそうな表情になっている。
「大丈夫だ、マックス。ハイジは私の親友なのだ」
そう言ったカオルに手を取られ、ようやく頭をぺこりと下げた。まるでラファエロ描く天使のような愛らしさだ。
「はじめまして、マックス。よろしくね」
膝を折り、マックスの目の高さと同じになる。にっこり笑ってマシュマロみたいな頬を指でつついた。くすぐったそうに笑い、身をよじってカオルの後ろの再び隠れてしまう。
「私たち、といっても私とカールとマックスは、これから私の兄の家を訪問するのよ。慌ただしくてごめんなさいね。それまでハイジとカオルはここで待つか、どこかに遊びに行っていても構わないわ」
「分かりましたリリー、お気をつけて」
「母上、父上、伯父上にどうぞよろしくお伝えください」
カオルは丁寧に頭を下げた。




