7-8
《放送塔》の展望台へは、エレベーターで登る。
入口は予想通り、家族連れや恋人たちで混雑していた。降りてきたエレベーターの箱から大勢の人々が吐き出され、同じくらいの人数が展望台へと上がっていく。箱の中でぎゅうぎゅう詰めにされるのは苦しかったが、その甲斐あって、展望台からの眺めは素晴らしいものだった。
高所恐怖症のアーデルハイトだが、四方をしっかりとガラスの窓で囲われているなら全然怖くない。
東にはクーダムやティーアガルテンの森を、南にはグルーネヴァルトを望み、西の遥かにはヴァン湖の水面を見渡せる。西日がきらめく湖面はオレンジ色に輝き、薔薇色に染まり始めた雲と、地平線の彼方で混ざり合うかに見えた。
「きれいだね」
ため息交じりにアーデルハイトが呟いた。
「うん」
低い声でイルマも答えた。
イルマの横顔を改めて見つめた。夕焼けをきれいだと思える心が、彼女にはあるのだ。それが嬉しくて、口元に微笑みが浮かぶ。
大勢の人々がエレベーターに乗って、展望台へとやってくる。しばらく周囲を眺め、飽きるとまた下へと降りていった。そんなせわしない流れの中で、二人だけの時間が特別に過ぎていた。あの時と同じだった。アレクサンダー広場で、八月の陽ざしを背に、イルマが微笑んだ時に感じたものと。
言葉にならない何かが、並んで下界を見下ろす二人の間にはあった。クララにもカオルにもない、イルマに対してだけ感じることの出来る心の震え――
結局、イルマとアーデルハイトは太陽がすっかり地平へと隠れるまで、その場所にたたずんでいた。ヴァン湖を染めながら沈んでいく光景は見事なもので、たなびく雲も森も湖も、全てが真紅に燃えあがっていた。その色はまるで血のようでもあり、どこか凄惨で不吉な印象ですらあった。
「行こうか」
アーデルハイトが声をかけ、二人は既に暗くなった地上に降り立った。これから真っ直ぐ屋敷へと帰るのだが、イルマはずっと一緒に居てくれるのだろうか。
地下鉄でフリードリヒ通り駅まで行き、そこから列車でグルーネヴァルトへと戻った。二人とも終始無言だったが、気まずさはなく、むしろ何も話さないことが心地良い。
グルーネヴァルト駅を降りると、辺りは深い闇に包まれ、住宅の窓から明かりがもれている。緑深い閑静な住宅街とあって、夕食どきの人通りはまばらだ。歩いて二十分ほどの距離を、手をつないで、いつもより時間をかけて歩いた。
もうまもなく屋敷の門が見えるという所で、イルマは立ち止った。
「屋敷へはあなた一人で戻って。私はこれから行かなくてはならないところがあるから」
人目をはばかるような低い声で告げる。
「これからって、もう遅いよ。晩御飯は?」
「ごめんなさい、急用なの。真夜中までには戻るわ」
イルマはそう言って、繋いだ手を解く。
アーデルハイトはうつむいた。急に知らない場所に一人にされたような心細さが湧きおこる。だが、ここで一人にしないでと頼むのは、余りにも子どもじみていた。
「分かった。アンナさんには、適当にごまかしておくね」
「ありがとう」
そう言ってくるりと踵を返し、今来た道を早足で戻っていく。取り残されたアーデルハイトは、イルマの姿が闇にまぎれて見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。なんだか捨てられた犬みたいな気持ちだ。
記念すべき特別な一日の締めくくりとしては、あまりにもあっけなさ過ぎて深いため息をつく。映画の途中でキスをされたことが嘘のようだ。あるいは、イルマにとっては、ほんの軽い気持ちだったのだろうか。もしそうなら、いろいろ悩んだ自分がバカバカしい。
時間が遅いこともあって、裏の使用人口をノックするとアンナさんが開けてくれた。
「大丈夫ですか、遅かったので少し心配していましたわ」
電話を一本くらい入れれば良かったのだろう。遅くなったことをアンナさんに謝罪し、イルマが所用でまた出かけたことと、真夜中まで戻らないことを告げた。食堂の椅子に腰かけると、急に疲れがどっと出た。
「それにしても、イルマさんはこんな時間に何の用事なのでしょうねえ」
アンナさんはハムサンドイッチを並べながら、不満げにぼやいた。
「アッシェンバッハ少尉にも『彼女のことは詮索する必要がない』って言われてますし、門限も全くなしで、まるきり特別扱いですわ」
「たしかに、秘密が多い子ですね」
アーデルハイトは調子を合わせた。
「秘密と言えば、ですねえ」
アンナさんが珍しく沈んだ口調になった。
「最近、カリンの様子が変なんですよ」
「カリンの?」
思ってもみなかった話に、アーデルハイトの好奇心が首をもたげる。アンナさんが頷いた。
「そうなんです。珍しく今日も出かけているんですよ、こんな時間に。最近、外に出ることが多くなりましてね。最初は男友達でも出来たのだろうかって、ヨハンと二人で喜んでいたんですけど」
「違うのですか」
「ヨハンが外に用事を足しに出かけた時、偶然見てしまったそうなんですよ。あの子が、男と二人で話をしているところを。それがですねえ、相手の男がどうも……」
そこでアンナさんは言葉を切って、用心深く声をひそめた。
「ユダヤ人なんじゃないかって、ヨハンは言うのですわ」
「ユダヤ人?」
思いがけない言葉にアーデルハイトは目を丸くする。そういえばカリンの顔に傷をつけた元カレはユダヤ人だった。
「じゃあ、ひょっとしてカリンの元恋人?」
「そうなんですよ。もっともこれは憶測だから、なんとも言えないんですけどね。もしかしたら、上手いこと口車に乗せられてヨリを戻したんじゃないかって、ヨハンも私も心配しているんですよ」
「それ、カリンに直接訊いたほうがいいんじゃないでしょうか」
ニュルンベルク法で、ユダヤ人とアーリア人の結婚や恋愛は禁止されているはずだ。もし事実なら、かなり不味いことになるのではないのだろうか。アーデルハイトがそう言うと、アンナさんは哀しそうに首を横に振った。
「そうかもしれないんですけどね、分かったところで仕方のないことなんですよ。あの子だって大人なんですから、自分の考えがあるでしょう。それに私たちが横槍を入れて、追い詰めるのもまずいんじゃないかって。ほら、よく言うでしょ、反対されるほど燃え上がるって」
「たしかに、そういうことはありますよね」
「なんだか、とても嬉しそうだったって、ヨハンが言ってましてね。また大変な目に遭うんじゃないかって心配な一方、そんな幸せそうなのを邪魔するのも気が引けるんですよ。なんですかねえ、本当にどうしたらいいのか……」
食事が済み、アーデルハイトは広間に行ってあたりを見回した。
今この屋敷には、ヨハン夫婦と自分しかいない。そう考えると、高い天井や精巧な彫刻の獅子や天使、きらびやかなシャンデリアまでもが、どこか自分を威嚇しているような圧迫感を感じてしまう。
そそくさと談話室に逃れると、孤独感が余計募った。本当はイルマと二人きりで、談話室でお茶でも飲みながらいろいろ話したかったのだ。予定が狂ってしまったことで、恨みがましい気持ちにすらなってしまう。自室に引き上げる気にもなれず、談話室に置いてある新聞に目を通した。
見出しに大きなタイトルで「大ドイツ」の文字が躍り、総統閣下やゲッベルス宣伝相の写真が出ていた。昨日五日の前夜コンサートでは、フルトヴェングラーの指揮でヴァグナーが演奏され、盛大に盛り上がったらしい。
フルトヴェングラーはクララが大ファンの指揮者だ。クララとグレーテルには、素晴らしい夜になったことだろう。
さらに新聞をめくると、日本を訪問中の《ヒトラー・ユーゲント》の記事が載っていた。一行は津軽海峡を渡り、北海道へと上陸していた。昨日五日には札幌に到着し、《札幌グランドホテル》に宿泊している。
予定を見ると、今日六日は北海道庁を視察し、札幌神社や大日本ビール会社札幌支店を見学の後、午後からは北海道林野庁、野幌原生林を訪れることとなっている。
(サッポロなんて、なんだかアフリカの奥地みたいな、変な名前だな)
アーデルハイトは思った。
その夜、寝ずにイルマ・グレーゼが帰ってくるのを部屋で待っていたのだが、結局、十二時を過ぎても彼女は戻らなかった。




