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地下鉄をアドルフ・ヒトラー広場駅で降りると、雨はとっくに止んで、地上はところどころ乾いていた。風が雲を押し流し、澄んだ空を、そして太陽を覗かせ、輝かしい陽光が待ちかねたように地上に降り注ぐ。
太陽が出ると、先ほどまでの肌寒さが嘘のような温かさが戻ってきた。陽炎が立ち上る広場には、数えきれないほどの鍵十字旗が掲げられ、雨に濡れそぼって滴を垂らしている。
広場とその周辺は、まさにお祭り騒ぎだ。
雨が止んでから、大勢の人がぞろぞろと広場へと集まって来ている。誰かがつけたラジオから党大会の中継が聞こえ、人々の喧騒やアコーディオンや手回しオルガンの音と混ざり合った様子は、ひどく無秩序でいてどこか耳に心地よかった。
皆興奮した面持ちで、じっと家に閉じこもってなどいられないという様相だった。ラジオの解説に耳を傾けている人々は、ところどころで相槌を打ち、こぶしを振り上げた。その隣ではユーゲントの制服に身を包んだ少年と少女たちが、貧しい人々のための献金を募っている。
雨の間は暇だったであろう屋台も、一気に活気づいた。
アイスクリーム売りの屋台が出て、最後の稼ぎ時とばかりに客を集めている。その隣には温かいワッフルやじゃがいもパンケーキ、茹でたてのソーセージを挟んだホットドッグの屋台が並び、食欲をそそる匂いがアーデルハイトの空腹感を煽った。
そういえば、朝ご飯を食べてからそれきりだったのを思い出す。
「ちょっと、そこで待ってて」
イルマを残して、屋台に走り寄った。じゃがいもパンケーキを二つ買い求め、中にたっぷりの林檎ソースをかけてもらう。焼き立てのパンケーキはあつあつで、持っている手から落としそうになるほどだ。
「はい」
パンケーキを差し出すと、イルマは両手で受け取った。
二人で広間を歩きながら、黙って頬張った。ほくほくしたジャガイモのケーキに、リンゴの酸味が絶妙にマッチしている。お腹が空いていたのもあって、すぐに平らげてしまった。
賑やかなのは、輪投げ遊びの屋台だった。たくさんの細長いグラスがずらりと並び、一番中央奥にあるグラスに輪をかけると素敵な景品がもらえる。グラスを倒したらそこでゲームオーバーだ。
子供連れのお父さんが真剣な表情で投げているのだが、全部外してしまい、周囲から落胆と冷やかしの声が上がった。
「ねえ、イルマもやってみない?」
そう訊ねると、面倒そうに首を横に振る。
「じゃあ、私がやってみるから、そこで見ててね」
屋台のおじさんに小銭を渡した。総統に似たひげを蓄えた、恰幅のいい人だった。
もらった輪は五つ。だが、思った以上に難しく、ちゃんと入ったのはひとつだけだった。景品はキャラメルひと箱だ。遊びとはいえ、少しガッカリしてしまう。そこに
「私もするわ」
イルマがいつの間にか隣に立っていた。
イルマはおじさんから輪を受け取る。彼女を取り囲む空気が一瞬のうちに変わったのが分かった。それまで失敗していた客に野次を投げていた男たちまでが、黙って彼女の手元を見つめている。咳払い一つ、起こらなかった。
イルマの手がすっと前に出ると、五つの輪がまとめて宙に舞い、まるで吸い込まれるように、奥のグラスへすとんと落ちた。あっけにとられた屋台のおじさんに、イルマは
「景品は五つくれるの」
と涼しい顔で訊ねる。少し遅れてから、「おおお!」と周囲に歓声が上がり、割れるような拍手が巻き起こった。
おじさんは慌てたように
「いや、その……。景品はひとつしかないんで、勘弁してくれないかな」
と頭を掻いた。テント張りの屋台の奥に引っ込むと、新聞紙でくるんだ小さな包みを手に戻って、イルマに困った顔で差し出した。
「本当にまいったね。今日はもう店じまいかな」
おじさんはやれやれと肩をすくめる。出された包みを、イルマは無表情で受け取った。
広場のベンチに腰掛け、新聞紙の包みをていねいに開くと、光沢のある空色の紙箱が姿を現した。箱にはきちんと赤い絹のリボンがかけてあり、おそらく高価なものなのだろうと期待がもてた。
「ねえねえ、早く開けてみて」
アーデルハイトの催促で、イルマはリボンを解き、箱を開けた。
「わあ、素敵」
アーデルハイトが声を上げた。
入っていたのは白い小さなハンカチで、光沢のあるリネン地に貴婦人の袖飾りのようなレースが縁取りしてあった。クーダムか、ライプツィガー通りの高級デパートで売っていそうなものだ。
「いいじゃない、奇麗なもので良かったね」
イルマは再び箱のふたを閉め、新聞紙で簡単に包んだ。そして
「あげる、私はいらないから」
と言ってアーデルハイトの膝に置いた。
「ええっ、ダメだよ」
慌ててそれをイルマの膝の上に置き返した。
「こんな素敵なもの、もらえないよ。輪投げをしたのはイルマなんだから、ちゃんと自分で使って」
「でも、私は使わない。持っていても豚に真珠だわ」
「うーん、そうかなあ」
アーデルハイトは包みを手にして、じっと見つめた。ずいぶん古い新聞紙を使っている。よく見ると新聞は《フェルキッシャー・ベオバハター》で、日付を見たら去年の九月七日、つまり今頃の記事だった。
一九三七年九月六日、党大会に日本の皇族が出席されたというニュースが、大きく取り上げられている。
去年の党大会の時、十三歳の自分は何をしていたのかとアーデルハイトは考えた。
「ドイツの貧しい子どもたちに、援助をお願いします!」
広場の隅で、ユーゲントの少年たちが叫んでいるのを見つめる。やはり彼らと同じように、ミュンヘンで《ドイツ幼女団》の募金活動をしていたような気もするが、あまりよく思い出せない。
来月七日は、アーデルハイトの十五歳の誕生日だ。夜にはクララたちが、誕生会を開いてくれることになっている。特別なご馳走が出ると聞いて、今から楽しみだった。
「ねえ、イルマの誕生日はいつ?」
ベンチで足をぶらぶらさせながら、アーデルハイトはイルマの横顔を見つめた。《白薔薇十字団》でイルマ・グレーゼだけが年齢不詳だった。見かけは自分と同じくらいなのだが、時々、実はクララより年上なのかもしれないと思う時がある。イルマは
「知らない」
と素っ気なかった。
「誕生日を祝うような、そんなのんきな家じゃなかったわ」
「そ、そうだったよね」
項垂れて、手元の包みに目を落とす。その瞬間、アーデルハイトの頭の中に、とても素敵なアイディアが天啓の如く閃いた。きっとこれなら、イルマだって
「うん」と言って使ってくれるだろう。
「これ、私にくれたんだよね」
手元の包みを指差したアーデルハイトに、イルマは首を縦に振った。
「じゃあ、私がこれをどう使おうと別にいいよね?」
「構わないわ。どうぞ、お好きなように」
「なら、決まり。それよりさ、場所変えない? どこか行きたいところ、ないかな」
アーデルハイトの質問に、イルマはしばらく宙を見つめて考えている様子だった。それから「あそこ」と広間から東の方向に指差す。
示された先には、ベルリンのランドマークともいえる《放送塔》がそびえ立っていた。十二年前、パリのエッフェル塔にならって建てられたというそれは、確かによく似ている。展望台にはエレベーターで行くことが出来るのだが、アーデルハイトもまだ行ったことがなかった。
「了解、ここからだと十分くらいかな。行こう」
広間の時計は、そろそろ六時を回ろうとしていた。日没までは間があるが、今から行けば、奇麗な夕焼けを見られるかもしれない。
アーデルハイトはイルマの方へと振り返った。西へと傾きかけた太陽がイルマの銀色の髪を照らし、風に揺れる麦畑の色に染めていた。彼女に包みを抱えていない右手を差し出す。イルマは一瞬顔をしかめ、それでも何も言わずにアーデルハイトの手を握った。
二人で《放送塔》まで手をつないだまま走った。
夕刻の風が短いスカートを通り抜け、すこし冷たさを帯びた空気が、むき出しの太ももに涼しい。もうそろそろ、暖かいタイツが必要になる頃だった。




