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7-6

 小走りに駆けた先にある、巨大な建造物を二人は見上げた。

《ハウス・ファーターラント》は、相変わらず船の舳先に似た一角をポツダム広場に向け、大海原をいく駆逐艦よろしく堂々とそびえていた。

 昼下がりの回を観るために、人々が次々に建物に吸い込まれていった。大人のカップル、アーデルハイトと同年代の少年少女たち、家族連れ。なかには恋人らしき女性を連れた親衛隊員もいる。イルマとアーデルハイトも、映画館の入り口をくぐった。


 係員に指定された座席は後ろの方だった。初めて入った映画館は驚くほど広く、後部座席からちゃんと観えるのか、いささか心配になるくらいだ。

 アーデルハイトはイルマの左側に座った。椅子は座り心地が良く、背もたれもゆったりとしている。

 前方にびっしりと座った人を眺め、後ろを振り返ると、数えるほどしか客はいなかった。少し離れた場所に親衛隊員と連れの女性が座っているのが見える。開始のベルが鳴り、室内が暗くなった。


『七回パンチ』は去年ミュンヘンで観たから、だいたいのストーリーは覚えている。リリアン・ハーヴェイとヴィリー・フリッチ。いつものコンビによる、おもしろ可笑しいラブ・コメディだ。

 隣でスクリーンを見つめるイルマの横顔を、そっと窺った。ラブ・コメディとイルマという取り合わせは、あまりにも不釣り合いな気がする。


 アーデルハイトの好みに合わせてくれたのだとしても、怪奇ものやスパイものならともかく、恋愛ものを観ているというイルマを、どうしても実感できなかった。

 イルマは真剣な顔でスクリーンに見入っていた。視線を感じたのか、ちらりとアーデルハイトの方を向いてから、またスクリーンに目を戻す。

 椅子の肘かけに置かれた左手は、いつものイルマには似つかわしくないほど無防備で隙だらけだった。その手に、アーデルハイトは右手を優しく重ねる。イルマの手がピクリと動いて、二人は一瞬視線を絡ませた。


 スクリーンのリリアン・ハーヴェイはヴィリーを助手席に乗せ、車を運転していた。真っ直ぐ前を見つめてハンドルを握るリリアンを、プレイボーイのヴィリーが口説き始める。カー・ラジオをつけるヴィリー、たちまち画面から華やかなチャールストンのリズムが流れ始めた。

 運転に夢中なリリアンの肩を抱き、慣れた手つきでヴィリーが口づけをする。キスをしながら、片手でハンドルを切るヴィリーは相変わらずカッコイイ。


 肘かけの手に添えたアーデルハイトの右手を、イルマが握り直した。はっとする間もなく、唇に彼女の冷やりとした唇が重なる。ほんの僅かな間の、一瞬の出来事だった。


「失礼しちゃうわ!」


 スクリーンのリリアン・ハーヴェイは男に向かって怒っている。だが、アーデルハイトはもう映画どころではなかった。

 左の手のひらで熱くほてった自分の頬を抑えた。心臓が早鐘を打って、周囲に聞こえるのではないかとハラハラする。右手は肘かけの上で、イルマの手と繋がったままだ。

 リリアンは怒って一度男を車から追い出すが、ヴィリーはちゃっかりと運転席に座り、ハンドルを握ってしまう。図々しくも抗えない、魅力的な男なのだ。走る車をスクリーンは映し、チャールストンの音楽は流れ続けていた。


 キスしたところを誰かに見られたのではないかと、急に心配になってきた。注意深くあたりを見渡しても、皆スクリーンに夢中か、あるいは二人だけの世界に浸っているかのどちらかだ。前の列の一番端にいる若いカップルなど、暗いのをいいことに激しいキスを繰り返している。

 イルマは何食わぬ顔で、そのまま映画を観続けていた。


 キスをされたという実感が込上げてくると同時に、強い怖れがじわじわと心を蝕み始めた。ヘルマン・ヘッセの小説ならともかく、今のドイツでは同性愛は犯罪で、もし同性愛者の烙印を押されたら収容所に送られる。

 新聞や映画で観たが、縞模様の囚人服にピンク色の三角形の印をつけられて、あちこちの工事現場で強制労働をさせられるのだ。


 もし二人の口づけを誰かが見咎めて、この場で警察に告げ口されたら……。そう考えると、アーデルハイトの心臓を冷やりとしたものが通り過ぎ、縮む思いがする。

 誰も観ていないとは思う。だがこっそりと係員に告げられていたら? 映画が終わってここから出る時に、警官に待ち伏せされていたら? いや、今この瞬間にも、誰かが警察に電話していたらどうしよう……。


 嫌な考えばかりが頭を横切り、映画の内容など全く入らなかった。じっとりと冷たい汗が背中を伝う。出来るだけ早くここから出たいと、そのことだけを願ってしまっていた。


「出よう」


 イルマが突然立ち上がった。暗闇の中を、さっさと歩いて出口へと向かう。アーデルハイトも慌てて席を立ち、イルマの後を追う。途中で何かにつまづき、あわや転びそうになった。

 扉の向こうの廊下は、温かいクリスタルランプの光に満たされていた。ほっとしたアーデルハイトだったが、イルマ・グレーゼは構わずさっさと外に出てしまった。続いて外に出た時、受付の係員が途中で退席した二人にけげんそうな表情になったが、もうどうでも良かった。


 外はまた細かい雨が音もなく降り、寒かった。霧雨の中、《ハウス・ファーターラント》のすぐ横にある地下鉄出口へと、イルマは振り向かずに真っ直ぐに歩いて行く。


「待ってよ、イルマ!」


 叫んで思い切り走った。イルマは立ち止ったが、アーデルハイトの方を振り向こうとはしなかった。やっと追いついて手を握りしめる。雨のかかった手の甲が、驚くほど冷たい。


「怒ったの?」


 不安そうに見つめるアーデルハイトに、イルマは哀しげに首を横に振った。


「怒ってなどいないわ」


 確かに彼女の声に、怒りの響きはなかった。何を言っていいのか迷い、手を握ったまま立ち尽くす。

 二人の横をたくさんの人が通り過ぎて、足早に地下鉄のホームへと降りていった。誰もアーデルハイトたちに目を止めることもなく、気にもしていない。女の子同士の、なんということのない喧嘩に見えるのだろう。

 これがもし男の子同士で、抱き合ったり手をつないだりしたら、確実に変に思われる。だが女の子同士なら、それもありだと判断されるだけだ。


「ううん、せっかく誘ってくれたのに。台無しにしちゃってごめん」


 思い切ってイルマ・グレーゼの身体に腕を回し、抱き締める。彼女の冷たい耳たぶが頬に触れた。大胆な振る舞いだったが、堂々とやればかえって怪しまれない。イルマの手がアーデルハイトの肩に置かれる。


「こんなところで、風邪ひくわよ」


 イルマが囁いた。


「映画館に戻る? 少し見そこなっちゃったけど」


 申し訳なさそうに言ったアーデルハイトに、イルマは肩をすくめた。


「どちらでもいいわ。別に映画を観たいわけでもないから」

「そうだね。私も、なんだか映画とかどうでもよくなっちゃったかな」


 アーデルハイトは微笑んだ。ふいと横を向いたイルマの手を握り直し、「とりあえず、どこかに行こうか」と地下鉄のホームへといざなった。手をつないだままイルマは黙って足並みを揃え、隣を歩いた。



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